週報巻頭言

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命(ぬち)どぅ宝 絶対に戦争してはいけない

5月15日は、沖縄の施政権が米国から日本に返還されて50年になるが、そのことが、沖縄の人々に本当によい結果をもたらしていないと感じる。それは、沖縄の人々が望んでいた内容とは違い、現在も多くの基地が残され(日本にある米軍基地の70%が沖縄に集中し、沖縄本島では総面積の15%を占める)、日常的に米軍基地による環境汚染や騒音、米兵による事件、事故などの被害が後を絶たないからである。沖縄の人々は、日本国憲法で保障される基本的人権や平和的生存権が適用されていないと嘆く。戦時中は、本土防衛のために沖縄は捨て石にされ、今も県民の反対を押し切って辺野古新基地建設が進められ、南西諸島に自衛隊のミサイル基地が配備されていることに、再び沖縄が捨て石にされるのではないかと、大きな不安や憤りを感じている。沖縄では、「日本」復帰ではなく、独立論を唱える人もいる。

かつて沖縄県は、琉球王国と呼ばれた。1429年、尚(しょう)巴(は)志(し)という人物が、首里城を中心とし、中国や日本、アジアの国々と交易し、武器を持たない平和な島として栄えた。しかし、1609年、薩摩藩が兵を琉球に送り込み、270年間、薩摩の支配下に置いた。さらに明治政府は、1872年に琉球藩を設置し、1879年に琉球藩を廃して沖縄県を設置した。いわゆる「琉球処分」と言われるもので、これにより、琉球王国の約450年にわたる歴史は幕を閉じた。侵略の経験を歴史に持つ沖縄の人々にとって、今のウクライナの人々の苦しみを肌で感じるとのことである。

県民の4人に1人を沖縄戦で失うという悲しみを経験しているが故に、「命(ぬち)どぅ宝、絶対に戦争してはいけない」と言って、新基地反対のために毎日座り込んでいる、おばあ、おじいの姿に心を打たれる。そして「沖縄の基地問題は、日本の問題ですよ」と問いかけられる。沖縄の痛みを、自分の痛みにしているのかと問われると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。私は今まで沖縄に多少なりとも関わってきたつもりでいた。日本に返還されて3年後(47年前)、沖縄に伝道隊として行った。20年前には、那覇新都心教会の会堂建築のために、何度となく足を運んだ。それ以後も教会組織や上尾教会・瑞穂教会合同伝道隊でも行った。しかし、沖縄の痛みには鈍感であった。そんな折、「沖縄から宣教を考える会」の世話人となり、毎月、沖縄の情報を得ることができ、「命(ぬち)どぅ宝、絶対に戦争してはいけない」という非暴力運動に生きる沖縄の人々と共に声を上げていきたいと、強く示されるようになった。

 

母の日に想う

室蘭にいた頃、母の日にはよく訪れた駅がある。それは「母恋駅」。そこで母の日の記念切符を買うのが楽しみであった。いつもより長い記念切符の表にはカーネーションが描かれ、裏にはサトウハチローの詩「この世の中で一番」が書かれていた。

この世の中で一番 美しい名前 それはおかあさん
この世の中で一番 やさしい心 それはおかあさん
おかあさん おかあさん 悲しく愉しく また悲しく
何度もくりかえす ああ おかあさん

お母さんっていいですね。こんなに慕われて。若い頃読んだ「きけわだつみの声」には、学徒動員し戦場へと出征する若者の辞世の手紙も、「お母さん、お母さん」と綴っていた。その点、父親は悲しい。父親が「元気でやっているか?」と聞いても、「うん」としか応えない子どもが、お母さんとなら、何時間も会話が弾むことが多い。

今、一番会いたい人は?と問われれば、幾つになっても、お母さんと答えるのではないか。星野富弘さんの詩に、「神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう、風に揺れるペンペン草の実を見ていたら、そんな日が本当に来るような気がした」とあった。この詩は、自分を無にして尽くしてくれた母への感謝の気持ちを描く。お母さんは富弘さんの看病を、ベッドと窓の間の一畳にも満たない狭い所で寝起きしながら何年も続けた。今まで自由に動かすことのできていた腕が急に全く動かなくなってしまい、その腕を神様が一度だけ動かしてくださるとしたら何をするか。その一度のチャンスを自分のことに使うのではなく、自分のことを真剣に看病してくれた母の肩を叩いて労をねぎらいたいと願うのである。

私たちは、何度でも母の肩を叩くことができるのではないか。母の肩を叩くとは、感謝と共に、母の思いを大切にするということでもある。私たちの人生は、親から、特に母親から大きな影響を受けている。親子を見ると、「そっくりだなぁ」と思うことがある。そう言われて嬉しくない面もあるが、感謝な面もある。私たちは多くのものを、世代を超えて受け取っている。テモテの「純真な信仰」Ⅱテモテ1:5も自ら獲得したものではない。祖母と母に宿ったものだった。母としての愛情と共に、神から与えられた信仰を子どもに遺していくことができたら、どれほど幸いであろうか。

子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜び

上尾教会のミッションステートメントに、「わたしたちは、神の栄光をたたえて、こどももおとなも一緒に礼拝を献げます。」と掲げた。それは子どもが礼拝にただ出席するということではなく、子どもも賜物を用いて礼拝に参与することである。礼拝に参与することによって、子どもたちの信仰が養われてきた。OHP係を担ってきた子どもが、「もし、この奉仕がなければ、礼拝に行かなくなったかもしれない。」と言った言葉を思い出す。子どもなりに、自分が礼拝の一部分を担っているという自覚が信仰生活を支えている。今日の礼拝での奉仕は、子どもたちの信仰に大いに役立つだろう。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。この詩編は、「都に上る歌」とあるので、礼拝者の心境を歌ったものである。「見よ、子どもたちが共に礼拝を献げている。なんという恵み、なんという喜び。」と読み替えることもできる。子どもたちと一緒に礼拝を献げることによって、他では経験することができない恵みと喜びを経験することができる。その恵みと喜びを、ここで紹介したい。

まず、子どもの成長を祈り、見ることができる。献児式に始まって、子ども祝福式、成人祝福式、そして様々な証しを通して、成長している姿に深い感動を覚え、成長させてくださった主に感謝を捧げる。又、主の御前で、和解の福音に共に与る時、赦し合う者へと変えられる。子どもにとって、親は煙たい存在かもしれない。自分のことをわかってくれない親に、失望するかもしれない。些細なことで親子喧嘩が起こり、放蕩息子のように家出したくなるかもしれない。しかし、礼拝を一緒に献げる中で、こんな罪深い私たちのためにも主が十字架にかかって全ての罪を赦してくださったことを知り、相手を責める心ではなく、赦す心が生まれてくる。

そして、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びは、家庭の中にも賛美や祈りとなって満ち溢れていくことを経験できる。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことが楽しいひと時になったら素晴らしい。「親子聖書日課」で信仰が養われていくうちに、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ヨハネ6:27という主の言葉に応答して生きる生き方へ導かれるだろう。子どもたちは御言葉を吸い取り紙のように吸収していくので、幼い頃から、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びを見出していきたい。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ8:10

 

欲望こそが争いの原因

20世紀は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経たので、「戦争の世紀」と言われた。その教訓を基に、21世紀は「平和な世紀」が訪れるのではないかと期待した。しかし、イラク戦争に始まり、今、ロシアがウクライナに侵略戦争を行い、多くの尊い命が失われていることに心が痛む。なぜ戦いや争いが止まないのか、何がその原因なのか。聖書は、「欲望」こそが戦いや争いの最大の原因だと指摘する。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」ヤコブ4:1-2

「欲望」というのは、端的に言えば何かを自分のものとしたいことである。その欲望を満たすために、他者との間に戦いや争いが生まれる。戦いや争いをもってしても自分の欲望を果たそうとする暴力的な生き方がそこから生まれていく。領土も資源も財産も人の命さえ奪うのである。まさに、欲しても得られず、人を殺します。」

では、「欲望」を捨てることはできるのか。聖書は、欲望に打ち勝つ秘訣を語る。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24。主は、私たちの罪のために十字架につけられた。その十字架に私たちの欲望もつけられた。バプテスマを受けることによって、「キリスト・イエスのもの」とされた私たちは、罪に支配された古き自分を十字架につけた。古き私たちは既に十字架の上で死んだ。もちろん、時には自分の欲に引きずられることもあるが、しかし私たちは、少しずつ主に似た者へと造り変えられ続けていくのである。

『ハイデルベルク信仰問答書』の第1問は、こう問いかける。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」その答えとして、「私が、私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」とあった。主のものとされていることが、「あなたのただ一つの慰めである」と語る。主のものとされた人こそ、欲望から解放されて、本来の自分らしく生きることができる。それこそが、私たちにとっての、唯一最大の慰めではないか。主のものとされて、聖霊に従って歩む時、私たちは、だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」Ⅰコリント10:24という御言葉を実践することができるだろう。

新しい命に生きる

イースターの良き日に、バプテスマを受ける方が起されることほど嬉しいことはない。それはバプテスマが主の復活を象徴しているからである。

「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」ローマ6:4と、パウロは私たちが主の復活の命にあずかるためには、主を信じてバプテスマを受けることが大切であると語る。バプテスマには「浸す」と言う意味がある。それは古い自分に死んで、主の復活の命によって、新しい自分に復活することを表す。その古い自分が主と共に死ぬことによって、罪から解放され、主と共に新しい命に生きる者となる。この「新しい命に生きる」ためには、自分の決意や意気込み、努力によるものではなく、ただ主を信じるところから始まる。これが、救いであり、バプテスマである。

誰でも新しくなりたいと願って生きているのではないか。しかし、どうすればよいか分からず、悩んでいる人もおられるだろう。しかし、主が死から復活してくださったことにより、新しい歩みへの道が開かれるのである。自分の力で頑張ることを止めて、主を信じて、主に全てを委ねるなら、主の大きな愛によって生かされることを見い出すだろう。それが主が与えてくださる「新しい命に生きる」ことである。

バプテスマを受けるとは、罪の中を生きて来た古い自分と決別し、主と共に、新しい歩みを始める出発の時である。その出発の時を、誰もが迎えてほしいと主は願っておられる。古い自分を十字架につけ、主にある復活の命に生かされて行くなら、どれほど生きることが楽になるだろうか。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20と告白して、あらゆる苦難の中でも、共におられる主に希望と喜びと平安を見い出していった。

主が私たちの罪を赦すために、十字架で死なれ、3日目に復活してくださったが故に、私たちはもはや古い自分に戻ることはない。罪の重荷を負って生きる必要はなくなった。罪赦された者として軽やかに生きることができる。主を信じることによって、古い自分に別れを告げ、復活の主の命に生かされて、新しい人生の歩みへと踏み出したい。今日のイースターを、人生のイイスタート(・・・・・・)にしたいものである。

主の十字架は何のため?

受難週を迎えたが、主イエス・キリストは何のために十字架にかかられたのか。それは私たちの罪を贖うためであると共に、私たちを神と和解させ、人と人とを和解させるためであった。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました。」エフェソ2:14。

主が二つの壁を取り壊されたという。この二つの壁は容易に壊されないものである。なぜなら、二つの間には「敵意という隔ての壁」がそそり立っているからである。なぜ、「敵意という隔ての壁」がそそり立っているのか。それは、両者が共に自分たちが正しい、相手が間違っていると主張するからである。その場合には、両者の間には和解というものはなく、相手を攻撃する。それは、国同士や民族間に生じている壁であるが、その壁は私たちの日常的な歩みにもそそり立っている。私たちが、人との関係においてお互いに受け入れることができない時、両者の間に深い断絶がある。

その断絶と壁を主は御自分の肉において取り壊し、二つのものを一つにされた。「御自分の肉において」とは、どのようなことか、16節を見ると「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とある。敵対する両者が、主によって、神と和解することによって、平和を得ることができる。平和が実現するのは、対立する人間同士の間で折り合いをつけ、妥協点を探り、合意することによってではない。先ず神と和解し、自分の罪の赦しを求めていくことこそが、真の和解と平和への道である。言い換えると、主ご自身が、互いに自分たちの正当性を主張していて譲らず、相手を非難している真っただ中で、十字架にかかって、両者の深い傷を癒してくださったのである。「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ53:5

互いの正しさを主張して譲らない時、お互いに相手から傷を負い、深い痛みを感じる。その痛みを主ご自身が負い、和解の出来事を起こしてくださった。それが、主の十字架であった。そのことが分かる時、私たちの深い傷が癒されて、敵対する相手をも受け入れることができる。それは、すぐにはできないと思うことかもしれない。それでも私たちは、主がご自分の命を犠牲にして神と私たちの和解をもたらしてくださった、その歩みに倣って、敵意を乗り越え、平和を築いていくための道を歩み続けたい。「キリストこそ私たちの平和」そこに私たちの歩みを支える希望がある。

日々新たに             教会員

いつの間にか桜も満開となり、新たな春がまた巡って来た。新入学、新社会人、進級…希望を持って春を迎えた方も多いと思う。私は現職場に再就職してから11ヵ月経過、にも関わらず入職1年目は対象とのことで「新任研修」に(還暦を過ぎて!)2日間参加することとなった。何を今更、と硬くなりかけた頭で思ったが、この考え方では自分は何も新たにならず変わっていかない…ということに気づかされた。年齢と共に肉体や頭脳は衰え、どこが痛い、何が出来なくなった…という状況も今後増えるかと思うが、新しく日々を生きるという思いは忘れずにいたい。

4月から、経済的困難を持つ家庭のお子さんに学習支援をしている教室にボランティアで週1回参加させて頂くことになった。指導員(教員経験者)の補助業務で、逆に自分が中学生から教わる状況も十分想定されるが、35年以上もホコリを被っていた教員免許状の、これを取得した頃を思い出し、新たな世界を体験できればと思う。

教会も新たな年度を迎えた。約2年のコロナ対応の礼拝を経て、この群れが現在のように形成された。次にどんな新たな歩みを進められるであろうか?今年度も新たに福音に渇く方を、高価で尊い命をウエルカムできるであろうか?

今年に入り、世界は更にきな臭く、混沌としてきたように思う。SNSで世界とつながれる現代で、リアルタイムで進行する戦争を映像として見ながら、世間には「だから軍備を」「核を持たねば」という声が増すかもしれない。しかし歴史を振り返れば、どんな国も「剣を取るものは皆、剣で」滅びてきた。歴史に学び、イエス様の言葉に耳を傾け、真の平和が人々の心を満たす日が来るよう、祈りつつ新たな日々を歩みたいと思う。

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて真の知識に達するのです。」コロサイ3:10

私と神様との出会い         教会員 

春の暖かい風が吹く、卒業シーズンとなりました。別れと新たな出会いの季節。「私と神様との出会い」は、いつだったのだろうと考えます。母の胎内にいる時から現在まで、皆さんと共に礼拝を捧げています。神様は生まれる前から私を招いてくださっていたと考えると、胎児の時に出会っていると考えることもできます。しかし、神様が私を見ていてくださっていても、私は神様の存在に気づかずにいたので、出会いとは違うのだろうと思います。

「母が連れて来るから礼拝に参加している。」という認識で幼児期は過ごしていました。それから聖書の言葉や賛美歌の意味を自分で考えるようになり、神様の愛に気づいて神様を信じたいと感じたあの時が、本当の出会いだったのだろうと思います。

私が神様を見上げることができない時も、いつも離れずにいてくださり、

賛美する喜びやたくさんの奉仕、御言葉を与え続けてくださっていました。

現在は自分の子どもたちも共に礼拝を捧げています。子どもたちにも一番良い時に「神様との出会い」があることを信じ、これからも祈っていきたいと思います。また、神様からいただいているたくさんの恵みに感謝し、自分にできる奉仕をこれからも行っていきたいと思います。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイ7:7

弱さをも賜物               教会員

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」Ⅱコリント12:9。これは先週の巻頭言の最後に書かれていたみ言葉です。「賜物」と聞くと、どうしても特技や優れているところを思い浮かべてしまいますが、今回は、このみ言葉のバトンを受け継ぎ、弱さをも賜物として神様から与えられているということに注目してみたいと思います。

私は、なかなか酷い閉鎖恐怖症です。20代前半まではなんでもなかったのですが、社会人になり、朝の満員電車で具合が悪くなってから、年々症状は重くなっていきました。特に、電車が苦手で、上尾から大宮に行くだけなのに何度も電車を見送ったり、途中の宮原駅で降りたりと少しのお出かけでも大きなストレスを感じるようになりました。仕事でどうしても都内に行かないといけないときは、早朝の空いている時間帯に、絶対に座れるグリーン車で行っています。車での移動も、高速道路の渋滞にはまってパニック気味になってからは、極力遠出はしない、行くときは空いている時だけということにしています。乗り物だけではなく、人口密度の高い場所にいるのも抵抗感があるので、コロナ前の生活に戻りたいとは思いつつも、ソーシャルディスタンスは私にとってはありがたい一面もあります。

こういったメンタルの症状は、外見からでは分からないうえ、周囲の理解が得難いことがあります。そんなのただの思いこみでしょ?と言われてしまえば、その通りですし、薬があるわけでもないので、ただ、状況にどんどん慣れる訓練をして克服するしかありません。一時期よりはだいぶ良くなりましたが、それでも自由に移動している人たちを見るととても羨ましくなります。電車に乗るときには讃美歌を聴くとよい。と夫からアドバイスを受け、ホームで待っている間はyoutubeで好きな讃美歌を聴いて心を落ち着かせています。

いつか、どこにでも心配せずに出かけられるようになりたいです。しかし、この弱さがあるおかげで、神様により頼むことをずっと忘れずにいられるようになりました。また、同じようになにかに「恐怖心」を持っている人の気持ちを理解することができるようになりました。それは親としても、社会人としても、とても大切な気付きだったと思います。「できない」ことも神様が与えてくださっている賜物であると信じて、感謝したいと思います。

スチュワードシップ月間の恵み   教会員

スチュワードシップ月間には「神の同労者」という本を用いて読んだり考えたり、証を聞き合ったりして、クリスチャン生活について学んでいますが、スチュワード(「管理者」の意味)という言葉は日常ではほとんど意識しないで来ているので、テキストの「神の同労者」の内容を大まかにまとめてみました。三つのことが書かれていると思います。

①イエス様によって罪から救われたわたしたちは、教会に召し集められ、神の奥義(「福音」)の管理者として、主に忠実に仕え、神と共に、神の同労者として生活していきます。

②キリストの体なる教会を建てあげるために、一人一人はキリストの体の一部分として召され、与えられている時間、体、賜物、献金などを用いて仕えていきます。そして、与えられる賜物の最高のものは愛です。キリストの体として一つになるように愛し合い、赦し合い、互いに仕え合います。

③各個教会は独立していますが、自分の教会ばかりでなく連盟の諸教会と、相互に協力伝道を通してつながり、主と共に、「神の同労者」として福音を伝えていきます。

やはり、自分にはどんな賜物が与えられているのかは気になります。聖書では、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:27)とあり、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(同 12:11)、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(同 12:18)

賜物は、霊の望むまま、神御自身の望むままに与えられ、私の思うように与えられるものではないものなのだと、最近祈祷会で学んで気が付きました。

賜物については「これだ!」と思うことのないまま、長い間同じ奉仕に携わってきました。「なぜ一体、私のできないことばかりしているのだろう?」とか「苦手な部分だけどしてしまう!」勿論、結果として喜びがいつも伴いました。行き詰まって絞り出した意見や、それ以外に後がないアイディアや、最高に苦手な部分を差し出してやむにやまれず進んだ時に、それらが用いられた感じも受けました。神様の賜物は、私の思いとは反対に与えられ、神の望みのままに、聖霊の望みのままに、必要な時に備えられて、私たちが神様の恵みに応答できるように愛していてくださるのだと知り、感謝します。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(同12:24)