週報巻頭言

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できるかぎりのことをする

先週 NHK総合「おはよう日本」で、「さだまさし・中村哲医師にささげた曲“私に出来る事を為せば良い”」という番組を見た。さだまさしさんは、コロナ禍について、「心が倒れかかっている。あまり厳しく自分を追いつめないこと、大きく深呼吸する事。中村医師のように“20年がかりで水を引けば良い”くらいの気持ちで人生を考えながらきょうを生きられたら、足元ではなく遠くを見る事ができるのではないか」と話す。そして、中村哲医師の生き方に感銘を受けて、下記のような「一粒の麦~Moment」という歌を作詞作曲する。

ひと粒の麦を大地に蒔いたよ ジャラーラーバードの空は蒼く澄んで
踏まれ踏まれ続けていつかその麦は 砂漠を緑に染めるだろう
戦に疲れ果てた貧しい人達には 診療所よりも一筋の水路が欲しい
水があればきっと人は生きられるだろう 諍いを止める手立てに
薬で貧しさは治せない 武器で平和を買うことは出来ない
けれど決して諦めてはならない
ひと粒の麦の 棺を担う人に 伝えてよ悲しんではいけないと
この星の長い時の流れの中で 百年など一瞬のこと
ペシャワールの山の向こうの見果てぬ夢以外に 伝えたいことは他にはあまり無い
珈琲カップに夕日が沈む頃に ふと思い出してくれたらいい
いつか必ず来るその時まで 私に出来ることを為せば良い 私に出来るだけのことを
薬で貧しさは治せない 武器で平和を買うことは出来ない
夢はきっと引き継がれるだろう 私に出来ることを為せば良い 私に出来るだけのことを

*サビの部分の「Moment」という言葉は、省略

「私に出来ることを為せば良い。私に出来るだけのことを」という言葉に励まされた。聖書の中にも、「この人はできるかぎりのことをした。」マルコ14:8と、主がナルドの香油を注いだ女性に対して言われた。「私には、これもできない、あれもできない」と、失望することはないか。それは、人と比べるからである。しかし、神は私たちの人生に、それぞれにふさわしい賜物を与えてくださった。その賜物を見出すなら、「これなら私に出来る」と、喜んで神と人のために用いることができるだろう。中村哲医師の生き方は、「一粒の麦」となって、私たちの心を豊かなものにしてくれる。

幻を抱いて歩もう!

上尾教会にとって、今年開拓50周年を迎えた。『伝道40周年記念誌』に、当時の模様を下記のように記している。

『上尾の開拓伝道は、西川口教会員であった大原つゆ子姉が上尾市に引っ越したことによって始まりました。開拓伝道を考えていた西川口教会は、「核になる信徒のいる上尾が適任地ではないか。」ということで、1970年12月6日、臨時総会において、「上尾開拓伝道」を決議したのです。当時西川口教会は、教会員31名の群れで、「まったく、あのときは伝道所と心中するような気持ちだった。」と教会員が語ってくださったように、背水の陣を敷いて開拓伝道を決断してくださったのです。

1971年1月11日から1972年までは、上尾市上の大原姉宅で集会を開き、72年からは人の集まりやすい寿幼稚園舎へ、73年からは大原姉が開設する天使保育室での集会になりました。井置利男牧師が日曜日の午後に出張をして、聖書の集まりを開くかたちを取りました。集会場所を転々とする度に、求道者はゼロになる繰り返しでした。』

上尾開拓を振り返る時、使徒言行録16章に登場するリディアという婦人を思い出す。ある夜、パウロは幻を見た。その中に一人のマケドニア人が現れて、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください。」と願った。そこで、パウロ一行はトロアス港から海を渡り、マケドニア州第一の都市フィリピに滞在した。祈りの場所で語っていると、ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアも話を聞いていた。主が彼女の心を開かれたので、彼女も家族もバプテスマを受けた。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください。」と言って、パウロ一行を迎えて、福音を詳しく聞いた。この家が、ヨーロッパで最初の教会となった。

人材も財政も会堂も整ったから、開拓伝道が始まるのではない。ただ幻に導かれて、ひたすら神に拠り頼んで伝道の業に励んだからこそ、教会が生み出されていくのである。今日、「開拓伝道」は死語になるほど、新たな教会を生み出すことは困難な時代である。しかし、「マケドニア人の叫び」は、今も聞こえてこないだろうか。どんな大教会も始まった時は、幻に導かれた一握りの人であった。大切ことは、教会がいつの時代も幻を抱いて歩むことである。「幻のない民は滅びる。」箴言29:18(欽定訳)

金の子牛にひれ伏してはならない

今年の干支は「牛」である。牛は、聖書の中では重要性がとても高い。それは牛が「蹄が分かれ」「反すうする」という二つの条件を満たす清い動物であり、神に捧げたり、人が食べたりできる動物とされたからである。又、牛は労働力として用いられた。エゼキエルが見た幻の、四つの顔を持った生きものの顔の一つは牛であった。

牛は、「しもべ」と関連づけて考えられた。「脱穀している牛に口(くつ)籠(こ)を掛けてはならない。」申命記25:4をパウロは、Ⅰコリント9:9、Ⅰテモテ5:18で引用して、霊の奉仕をする使徒や長老たちが金銭的な報酬を得るのは当然だと説明した。それらの事から、神はしもべの働きに対して正当な報酬を与えてくださることがわかる。そして約束の地は、「乳と蜜の流れる地」とあるように、この場合の「乳」は牛の乳である。

この牛に関するエピソードの一つ、出エジプト記32章には、モーセがシナイ山に登ったまま降りてこないので、民はアロンに、「さあ、我々に先立って進む神を造ってください。」と求めたため、アロンは民全員に身につけている金の耳輪を外して持ってこさせ、火で溶かし、子牛の像を造り、翌日盛大な祝いをした、と記されている。神はそれをご覧になって、怒りに燃え、民を滅ぼすと言われた。モーセは、神に執り成したので、神は民に下す災いを思い直された。「金の子牛」は、繁栄や権力、富や成功を象徴し、自由の幻想を与える欲望のシンボルであったが、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものであった。人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は、神に信頼し、神に真の願いを託すことができなかったことにあった。神を第一にしない時、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでは偽りの平安を得るだけである。

「肥えた牛を食べて憎み合うよりは 青菜の食事で愛し合う方がよい。」箴言15:17。「肥えた牛」は、裕福の象徴であり、「青葉の食事」とは、貧しさの象徴である。たとえ貧しくとも、愛し合う家庭の方が、どんなに裕福であっても、争いに満ちた家庭よりも勝っているのである。「肥えた牛」「金の子牛」を、私たちも求めてはいないか。アロンをはじめ多くの神の民が、その誘惑に勝てなかったことは、決して他人事ではない。経済をはじめ大きな不安を抱える今日、私たちは、それを解消するために再び金の子牛にひれ伏してはならない。私たちは、金の子牛を自分のために造り、それを神とすることがないように、この一年、常に御言葉に聴きつつ生きていきたい。

 

コロナ捕囚の中で「生きよ」

今年は、教会にとって「コロナ捕囚」を経験した。コロナの感染症に、恐れと不安を抱きながら、礼拝を捧げてきた。それは、イスラエルの民がバビロン捕囚で先の見えない苦難を経験したように、教会もコロナに囚われながら一年間を歩んできた。その中で、バビロン捕囚を経験した預言者エレミヤやエゼキエルの言葉にどれほど支えられ、励まされてきたことだろうか。改めて、神の言葉は生きていると感じる。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ29:11。捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかった。しかし、主が見ておられるのは計画の全体であった。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画であった。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは将来に不安を抱く。そして将来を知りたいと願う。しかし、本当に大事なことは、将来を知ることではなく、主の備えておられる計画を知ることである。

捕囚という苦難な状況は、これからも続く。むしろ、苦難は増すかも知れない。しかし、それでも希望を持って生きることができる、と主は言われる。私たちは、この苦しみがもうすぐ終わる、と先が見えている時は耐えることは容易であろう。しかし、この苦しみがいつまで続くのか分からない時、本当に辛く耐え難くなる。

人は生きる意味を見出した時、生きる希望が湧いてくる。エレミヤが、バビロン捕囚の人たちに伝えたのは、この生きる意味である。イスラエルの民は、自分たちは神から見捨てられた、そんな人生に生きる意味があるのかと絶望の中にいた時、エレミヤは言う。いや、あなた方は決して神から見捨てられてはいない。神は、あなた方のために、確かな計画を持っておられる。それは、災いの計画ではなくて、平和の計画なのだ、将来と希望を与えられる計画なのだ、だから生きよ、と言われる。

「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主は言われる。」エゼキエル18:32。コロナ禍が続く中で、将来を悲観して「死にたい」と自らの命を絶つ人が増えていると聞くと心が痛む。「だれの死をも喜ばない」と言われた主は、「立ち帰って、生きよ」とすべての人を招いておられる。主に立ち帰って、生きるなら、災いの計画ではなくて、平和の計画を、苦難の先に見い出すことができるだろう。

 

主イエスこそ共にいてくださる神

神がいるならば、世の中の戦争や迫害、疫病や貧困はどうして起こるのか、「神がいるなら、見せてくれ」と言われる人がいる。このような問いかけによって、神の愛をこの世の現実の中に見いだそうとする人も多い。それに対して聖書は、神の愛は人間の目には隠されているが、信仰の目を持って見るなら、神の愛は見ることができると語る。クリスマスの出来事は、私たちをそういう信仰へと招くのである。

クリスマスの出来事の大事な言葉は「見る」ということである。御使いが羊飼いたちに現れて「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と語り、羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合う。シメオンは幼子を抱いて、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言う。無限の霊である神を、人間は肉眼をもって見ることは出来ない。しかし、主イエスを見るならば、「あなたは神を見た」と言える。

主イエスの素晴らしさは、神ご自身を見せてくれたことである。文字通り「見える神」となられた。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神である。主イエスは私たちと同じように、人間として歩まれた。空腹を覚え、悲しみや嘆きも体験された。涙を流し、怒ることもあった。憐みに心を動かされた。人となられた神は、私たちの傍らにいる神となってくださった。主イエスは、「神は我々と共におられる」という意味で、「インマヌエル」と呼ばれたのである。

ある聖書学者は、「クリスマスは、神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だ。丁度、母親が火事で火を浴びている子供の上に身を投げ出すように、大波に襲われた子供のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ。」と語る。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たちのために身を投げ出して救う神となってくださった。

孤独を味わう時、病む時、辛さと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、主イエスは私たちの傍らに共にいてくださる神である。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださる。父なる神と御子イエスとの深い愛の交わりの中に、あなたも招かれている。今日のクリスマスの良き日に、主イエスを救い主と信じて、その深い愛の交わりの中に生きようではないか。

居場所のあるクリスマス

今年、コロナウイルスの感染拡大で外出の自粛が求められた時、自宅に居場所がなく、孤立を深める少女たちの相談が、支援団体に相次いで寄せられたとのこと。それは少女たちだけではない。「自分にはどこにも居場所がない」という声をよく聞く。家庭に居場所がない、学校に居場所がない、職場に居場所がない、この社会のどこにも自分の居場所がないのである。それは、自分が誰からも必要とされていない、誰からも認められていない、誰からも愛されていない、と言うことでもある。そんな思いを感じる時、私たちは自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じる。

誰にとっても自分の居場所が必要である。人と一緒にいても自分だけ居場所がないと感じる時の寂しさ、惨めさほど辛いものはない。だから、人は自分の居場所ということにとても敏感で、闇の中でさ迷うように、自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きている。「あなたは大事な存在なのだ」「あなたが必要なのだ」と、ありのままを受け入れてくれる、そんな存在を求めている。

主イエスは「居場所のない人」だった。ローマの皇帝の人口調査の勅令のために、マリアとヨセフはベツレヘムに旅をしなければならなかった。その上、ベツレヘムに来てみると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ルカ2:7。更に、ヘロデ王の迫害を恐れて、エジプトへ避難しなければならなかった。イエスは「ホームレス」となり、「難民」となった。「あなたはここに来るべきではない」「あなたはここに居るべきではない」そうやって、誰からも迎え入れてもらえず、はじき出され、追い出された。

そんなイエスこそ、クリスマスの意義を豊かに示してくれている。なぜなら、同じようにこの社会から締め出され、自分の居場所を失っている人の友となるために、「あなたはここに居ていいのだ」「あなたにここに居てほしい」と願って、イエスは飼い葉桶の中でお生まれになった。居場所を失い痛みを抱えた人が、そんなイエスに出会う中で、「私と共に生きてくれる人がいる」と、人生を回復することができるのである。

私たちも、主イエスに従って、「居場所のない人」のために生きることが求められている。主イエスにこそ、私たちの居場所、人生の居場所があると、周りの人々に伝えるクリスマスにしたい。「ここにあなたの居場所がある」と、この会堂を、ベツレヘムの宿屋とすることなく、神の国を少しでも表す飼い葉桶として用いていきたい。

 

主の愛の深さに気づくクリスマス

今年は降誕劇の練習がないのは、何とも寂しいと思っていたが、先週礼拝後、子供たちと数名の大人が降誕劇の衣装を身にまとって、写真撮影していた。今年は、24日のキャンドルサービスの時に、映像になって登場するようで、今から楽しみである。
今、アドベントの2週目を迎えた。日本語では「主の降誕を待ち望む」ことだが、元々アドベントは「到来」を意味する。その到来は、二重の意味がある。2千年前に主イエスが世に来られたこと、そして、再臨の時、栄光の内に来られることである。「もろびとこぞりて」の賛美の中で、「主は来ませリ、主は来ませリ、主は、主は来ませリ」と繰り返すが、「主よ、来てください、来てください」という切実な叫びが、私たちの中にもある。
コロナの影響で、健康を害している人、経済的な打撃を受けている人、仕事を失った人、孤立してしまう人、自死にまで追い込まれてしまう人・・救いを切実に必要としている人が世界中にいる。又、戦争やテロ、人権侵害や差別、暴力やハラスメント、貧困や飢餓に苦しんでいる人がいる。「主よ、来てください、主よ、助けてください」と、神が苦しむ人たちに救いを与えてくださいと、私たちは祈らずにはいられない。
しかし、一方で、「主はもう来られた」ということも確かである。救い主を待ち望んでいるだけではない。私たちの救い主は、もう2千年も前に来られている。これこそキリスト教の確信である。私たちはそのことを、アドベントから祝うのである。私たちは今、救われていない部分、救い主を必死に待ち望んでいる部分と、もうすでに救い主に出会って救われている部分、その両方がある。その両方を味わうのである。
主イエスの生涯は、アドベントのローソクに似ている。光を輝かせるために、ローソクは段々短くなっていく。身を削って輝くローソクのように、イエス・キリストも私たちを罪と死から救うために、命を削られて、十字架の道を歩まれたのである。
「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」ヨハネ1:5(聖書協会共同訳)。闇が暗ければ暗いほど、光が輝いていることがよくわかる。今年は、世界中が暗闇でクリスマスを迎えている。しかし、その闇の中にも、真の光であるイエス・キリストが到来されるのである。「イエスキリストが今私の心に生まれた、その愛の深さに気づくこのクリスマス」という素敵な賛美があるが、クリスマスを単に祝うだけではなく、是非、自分の心に救い主としてお迎えして、主を信じ、主の深い愛を受け取って頂きたい。

世界宣教を一緒に担う

今年も世界宣教の働きを覚える「世界バプテスト祈祷週間」を迎えた。この一週間は、私たちの目が世界に広げられる時でもある。現在、インドネシア派遣宣教師として野口日宇満・佳奈夫妻、カンボジア派遣宣教師として嶋田和幸・薫夫妻、シンガポール国際日本語教会に伊藤世里江牧師、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之・恵夫妻が働いている。またその働きを直接的に支えるスタッフの方々がおられる。そして、それらの働きを支えるために、私たちの祈りと献金が求められている。

時々、国内伝道も大変なのに、国外伝道のために多額の献金を使用するのはいかがなものか、と言われる方がいる。しかし、主は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15と命じられ、この主の言葉をまともに聴いた弟子たちがいたからこそ、また宣教師たちがいたからこそ、福音が私たちの所にまで伝えられ、私たちは主の救いに与ることができた。「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝ることができよう。」ローマ10:14-15と語られるように、いつの時代も「宣べ伝る人」「遣わされる人」が必要なのである。

「宣べ伝る人」「遣わされる人」とは、個人の業ではない。登山家の登頂を支えるために、環境を整備するシェルパのサポートが必要であるように、宣教師を支えるためにも、後方支援が必要である。宣教師が安心して現地で働けるように、またお子さんたちが教育を十分に受けられるように、私たちは祈りをもって支えていきたい。

そのために、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」1コリント9:23と語ったパウロのように、福音のために私たちも自分にできることを喜んで行っていきたい。私たちも日々の生活の中で、福音を宣べ伝え、また世界宣教の働きを覚えることである。ルワンダの佐々木和之・恵夫妻の働きなどは支える会に加入することによって、ニュースレターを通して、その働きを詳しく知ることができる。知る・祈る・共有する、それによって私たちも世界宣教につながることができるのである。

クリスチャンになりませんか?

クリスチャンは立派な生き方をする人だと、錯覚している人が意外と多い。クリスチャンになると悪いことはできない、お酒もたばこも娯楽も止めなければならない、ないないづくしの禁欲的生活者のようなイメージを持つ。けれども、クリスチャンになるとは、聖人になることでも、禁欲的生活をすることでもない。むしろ自分の罪深さに気づき、悔い改めて生きることである。私たちの罪を赦すために、主がどれほど十字架で苦しまれたか、その苦しみに気づくことである。そして自分に対する主の愛がわかると、その愛に応えたいと思うようになる。つまりクリスチャンになるとは、主が愛されたように、主を愛し、人を愛する者へと変えられることである。

クリスチャンなろうとする時、果たして自分は信仰をもって歩み続けることができるだろうかと懸念する人もいるだろう。自らの弱さ、周りの人の無理解、クリスチャンとしてのまだ経験したことのない歩みを考えると、不安を抱くのは当然である。しかし、聖書は「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」使徒.言行録2:38と語る。ここには2つの約束がある。罪を悔い改めて、主が私の罪のために十字架に架かられたと信じてバプテスマを受けるならば、罪の赦しと賜物としての聖霊を受けることができる。罪の赦しは、完全である。神は主の十字架のゆえに、もはや私たちの罪を責めることはなさらない。全ての罪は赦されている。そして、聖霊が与えられる。この聖霊こそが、私たちがクリスチャンとして歩むための支えである。

聖霊は、私たちを助け、導いてくださる。“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈べきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ロ-マ8:26。クリスチャンとはいかなる人間かと問われたならば、「聖霊を内に宿している人」と言うことができる。そしてその全ての助けはどこに向かっているかと言えば、平和の君である主イエスに似たものに造り変えられるためである。クリスチャン(Christ-ian)とは、「キリストに従う人」という意味である。ですから「私はまだ教会に行って日も浅いし、聖書を十分に理解できないし、御言葉を行うことができないから、クリスチャンにはなれない。」とためらっていてはならない。罪を赦して頂きたいと願うなら、主を信じて、クリスチャンになることである。「聖霊の執り成し」の下でこそ、信仰生活は全うできるのである。

子供の心を大切にする

本日、神様に子供たちを祝福していただく「子ども祝福式」を迎えた。子供たちが神を畏れ、隣人を愛し、謙遜で思いやりのある人として成長していくように、祈りをもって育てていきたい。それは、親の務めであると共に、教会の務めでもある。

子供の信仰を育てることは、とても難しい。親が信仰を持っていれば、子供も自動的に信仰を持つわけではない。幼い時は教会に来ていても、青年期になると教会から離れていく人が多いからである。そこには、自覚的な信仰が育っていないからである。子供が、自分の意志で神に向き合って、自分自身で神を信じる信仰を持って、神に祈り、神に頼っていけるように、共に育つことである。教育は「共育」である。

「三つ子の魂百まで」で、幼い頃から御言葉を心に植え付けていくことが大切であるが、親自身が信仰に生きている姿を見せることである。そうすることによって、子供たちは、「生きて働く信仰」に触れることができる。人はいつも触れているものに影響を受け、似ていくと言われるが、家庭や教会の中で、親が一生懸命主に仕えている姿を見て、子供は何物にも代えがたい「人生の宝」を主に見出していくだろう。

私は子供たちから、「欠点だらけの親父だけど、福音のために生きている姿はよく分かる。」と言われたことがある。自分の親が、又、大人たちが、「神への信仰」をもって一生懸命生きている姿を見た時、子供たちは理屈抜きで、「ああ、神様って本当におられるんだ」と知り、「神様は、心から頼りにできる方なんだ」と悟っていくのではないか。そして、やがて自分自身の信仰を働かせるようになり、自分のためにも、隣人のためにも、神のためにも、とても充実した生き方をしていく人になっていくだろう。

上尾教会は、子供たちへの信仰の継承を願って、「子供と共なる礼拝」「親子聖書日課」に30年以上取り組んできた。これに喜んで参加していけるように、子供たちを励ましていきたい。それは「頑張れ!」と言って励ますことではなく、主が「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」マルコ10:16ように、「主の祝福がどんな時にもあるから、大丈夫!」と、主に委ねて生きる大切さを、身を持って示すことである。

子ども祝福式は、単なる子供の幸いを祈る式ではない。むしろ大人が子供から学ぶ時でもある。子供に注がれた主の祝福とそれに与る子供の心を大切にすることを学びたい。そして、主の祝福が日々の生活に及んでいくことを、共に経験していきたい。