週報巻頭言

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平安と希望をもたらすペンテコステ

今日、緊急事態宣言が解除されたことで、久しぶりに礼拝を一緒に捧げてくださる方がいることは嬉しい。折しも今日は、「一同が一つに集まっている」と言われた「ペンテコステ(聖霊降臨日)」を迎えた。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

ペンテコステの日に弟子たちが集まっているところに、「風が吹いて来るような音」がしたと言う。この風とは「息」という意味の言葉である。まさに神の息吹が吹いてきた。更に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と言う。この舌とは、「言葉」という意味である。だから熱い言葉が一人一人の上にとどまって、神の息で満たされた。これが聖霊である。つまり聖霊は、神の言葉と共に働く。更にその言葉は、弟子たちの心を熱くして、他者にその言葉を伝えようとする宣教の思いを起こした。ここから教会が誕生したのである。この信仰の喜びを語り出すところに教会が形作られ、私たちも聖霊に満たされ、主の証人として力強く歩めるのである。

緊急事態宣言は解除されたといえ、新型コロナウイルスは、私たちの社会に「不安と失望」という暗い影を落としている。感染の恐怖と、それによる経済の停滞は生活不安を招いている。長く続くコロナ禍がストレスとなり、家庭不和や家庭内暴力という更なる不安を生じさせている。このような不安や失望の只中にあっても、神は聖霊降臨によって、「平安と希望」をもって生きる秘訣を「言葉と業」で示してくださった。

復活の主が弟子たちに現れた時、「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:22と彼らに息を吹きかけて言われ、又、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハネ14:16と言われた。主は永遠に私たちと一緒にいてくださることを確かなものとするために、「弁護者」である聖霊を送ってくださると約束してくださった。この聖霊は、私たちの新たな日常に「平安と希望」を与えてくださる。そして、この聖霊の力にあずかる時、共に励まし支え合いながら、不安と失望の暗闇をくぐり抜けて行けるようにしてくださる。聖霊が降臨したことに、心から感謝したい。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」ローマ5:5

 

なぜ共に産みの苦しみを味わうのか

最近、「ウィズ(with)コロナ」という言葉を聞く。それは、新型コロナウイルスと共存していくということである。ワクチンが開発されていない新種のウイルスは、一旦は感染が収まっても、第二波、第三波という新たな感染の波となって襲ってくると予測される。だから、コロナウイルスの終息は長期戦になるので、私たちの生活や仕事の有り様を今までとは大きく変えていく「新しい生活様式」を身につける必要がある。新型コロナウイルスに対して、「闘い」ではなく、「共生」が求められている。

そもそも新型コロナウイルスは、一説によればコウモリを自然宿主とすると言われるが、コウモリとは平和に共存していたはずである。人間が原生林を切り開き、野生動物と家畜や人間が接触する中で、ウイルスは伝播し、人獣共通感染症が広がっていった。そのように考えれば、人間が地球全体に開発の手を広げ、過度の都市化、集住化を進めることで、自ら災厄を招いたといえる。そして、この災厄によって、人間が生きるために本当に必要なものや、本来的な生き方が明確になっていくような気がする。14世紀にヨーロッパで大流行したペストが封建社会の旧秩序の解体を加速したように、コロナ感染症が、社会変革の先駆けとなることを期待する。

私たちはこれらのことから何を読み取るべきなのか。聖書は「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」ローマ8:22と語る。被造物とは自然界全体のことで、動物も植物もこの地上に存在する全てものが今、共にうめいている。しかし、そのうめきは「産みの苦しみ」であると語る。産みの苦しみというのは、妊婦が新しい生命を産み出す時に経験する陣痛のことである。だから、この苦しみは無意味な苦しみではない。全く新しい世界を産み出すための苦しみを今経験しているわけで、それ故に、大きな希望がある。

私たちは、被造物の「うめき」「産みの苦しみ」であることを知らされた者として、見えざる感染症に怯えるのではなく、見えざる神を畏れる生き方をしたい。折しも来週は、「ペンテコステ」を迎える。復活後、天に昇られた主が、50日目に聖霊として弟子たちの所に降り、怯えていた弟子たちがその聖霊の力に満たされて、全世界に出て行って、大胆に福音を語ったのである。今、世界は異常気象や疫病や災害が次々と起こり、終末が近づいていると言えるが、主を信じる者には、主が再臨して、朽ちない霊の体に復活するという大きな希望が与えられていることを伝えたい。

 

主の晩餐式の危機を乗り越えるには

上尾教会では、コロナウイルスの感染防止の観点から3月より「主の晩餐式」を中止している。主の晩餐式が、今の状況では、中止もやむなしと諦めていることに対して、ある牧師の「礼典の危機を危機と感じないことこそ危機」との指摘が目に留まった。私自身、主の晩餐式に対する必要性が希薄になっていると反省させられた。

主の晩餐式は、主イエスが十字架で裂かれた体、流された血潮を記念して私たちがいただくもので、主に命じられたように、いつの時代も教会はこの礼典を大切に守って来た。それは、パンと杯に与ることよって、主の贖いの恵みを深く味わい、罪を悔い改めて、主と一つになることを再確認してきた。主の晩餐式がコミュニオン」と言われるのは、ここにこそ主との交わり、主とのつながりがあるからである。

礼拝の中心は「御言葉」「礼典」である。礼典(主の晩餐とバプテスマ)は、「見える神の言葉」と言われるほど大切なものである。礼典の執行は、教会の生命線とも言える。とはいえ、礼典の危機を危機と感じたとしても、今は執行できない、あるいはすべきでない状況にあることも確かである。しかし、何か月も主の晩餐の恵み無き礼拝が続くのは、教会の命を失うことになりはしないかと危惧するのである。

諸教会は、コロナウイルスの感染の拡大に伴い、主の晩餐式に対して、様々な試みをしている。ある教会では、「エアー・コミュニオン」を会堂で行う。パンと杯はなく、御言葉と祈りで、主の血と体を覚え、互いが一つであることを感謝する。又、ある教会ではネット配信で「遠隔主の晩餐(テレ・コミュニオン)」を行う。各家庭でパンとブドウ液を準備し、牧師がパンと杯の祈りを捧げると、それに応えてパンと杯に与る。又、牧師や執事が信徒宅を訪ねて「訪問晩餐(デリバリー・コミュニオン)を行う。

これらは「物質性なき主の晩餐」「実在共有性なき主の晩餐」である。どちらも本来の主の晩餐式ではなく、緊急事態下における主の晩餐式の一形態にすぎない。しかし、このような主の晩餐式の形態を、今回の緊急事態下に限定することはない。病院や施設に入り、教会に来たくても来れない教会員が増えていく中で、「訪問晩餐」は、上尾教会でもすでに行ってきており、「遠隔主の晩餐」も、ネットのZoomを使えば、多くの教会員の参加も可能である。教会に共に集い、共に主の晩餐の恵みに与ることが当たり前でないとしたら、様々な工夫をして、主の晩餐式を試みることもよいだろう。礼典の危機を危機と感じることが、新たな道を開くのである。

「非日常」を「日常」化させないために

今日は「母の日」を迎えた。教会の働きから始まった母の日を、上尾教会では毎年、お祝いしてきた。子供たちがお母さんに、教会学校で制作したものをプレゼントして、感謝を表してきた。それが今年は、新型コロナウイルスの影響で、教会学校はお休みとなり、母の日をお祝いするという大切なことが失われようとしていた。しかし、工夫をすればできるのではないかと、アイデアを募ったところ、家庭でお母さんの似顔絵を描いてもらい、それを今日の礼拝でお母さんに差し上げることになった。

今、自粛ムードが続く中で、教会活動が次々と休止に追いやられるという「非日常」の中に身を置いている。しかし、その期間が長くなればなるほど、以前のように教会活動をするという「日常」を取り戻すには、大きな時間とエネルギーが必要になるのではないか。人間は楽な方に流れやすい。面倒なことは、この機会に止めようと思っても不思議ではない。今、「非日常」「日常」化させないために、今まで行ってきた教会活動を工夫をしながら、たんたんと行っていくことの大切さを改めて感じている。

しかし同時に、今まで当たり前のように行ってきた教会活動を休止することによって、見えてくるものがあるのではないか。例えば「教会にとって一番大切なことは何なのか」「本当にこの活動は、教会にとって必要なものなのか」など、「日常」の教会活動の中で何気なく行ってきたことを見直すよい機会になるのではないか。今後、教会がどうなっていくかを見通すことは難しい。しかし、既に学校ではオンライン授業が導入され、企業では在宅勤務が進んでいる。それは、「非日常」「日常」になっていかないために、今までの「日常」とは異なる「新しい日常」が生まれてきているのである。

そのために、ラインホルド・ニーバーの以下の祈りに倣いたい。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を私たちに与えてください。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えてください。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えてください。 一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。アーメン」

 

ウイルスの次にやってくるもの

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、医療従事者や感染者への偏見や差別が問題となっている。こうした中、日本赤十字社が「人と人が傷つけあう状況はウイルスよりも恐ろしい」と警鐘を鳴らす動画を公開した。新型コロナウイルスは、「体の感染症」「心の感染症」「社会の感染症」という3つの顔を持っており、これらが負のスパイラルとしてつながることで、感染拡大を引き起こすと考えられている。さらなる感染拡大の防止のために、絵本アニメで、下記の内容で動画を企画したとのことである。

ウイルスの次にやってくるもの。”それ”はもしかしたらウイルスよりも恐ろしいもの。
その正体とは…?そして、”それ”に飲み込まれる前に、できることとは…?

動画は、男性が手を洗うシーンから始まる。
「きちんと手を洗うだけで感染する確率はぐんと下がる」「でも心の中にひそんでいて、流れていかないものがある」といった言葉に合わせて、“黒いモヤモヤ”が現れる。

「ウイルスが広まったのはあいつのせいだ!」「世界がこうなったのはあいつのせいだ!」
人々が互いに言い争う内、自分が言われたらどうしようと、具合が悪くても元気なふりをし、誰が感染してるか分からなくなる。こうしてウイルスは広がっていく。

そんなとき、家で鏡を見ると、「そこに、もう、あなたは、いない」

そいつの名前は「恐怖」黒いモヤモヤ”の正体は「恐怖」だったのだ。

新型コロナウイルスの感染拡大から生じる「恐怖」を、「ウイルスよりも恐ろしいもの」として描き、体だけでなく心を守るように訴えかけている。

動画の後半には、「恐怖に飲み込まれる前にできること」として、以下のものを提案。

「ときにはパソコンやスマホを消して、暗いニュースばかりを見すぎるのはやめよう。不確かな情報を、うのみにしないで、立ち止まって考えよう。」
「非難や差別の根っこに、自分の過剰な防衛本能があることに気づこう。冷静に、客観的に、恐怖を知り、見つめれば、恐怖はうすれていくはずだ。」

「恐怖が苦手なものは、笑顔と日常だ。家族や友人と電話して、笑おう。いつものように、きちんと食べて、眠ろう。恐怖は逃げていくだろう。」

そして最後には「恐怖は、誰の心の中にもいる」「だから励ましあおう。応援しあおう」「人は団結すれば、恐怖よりも強く、賢い」といったメッセージを投げかけている。

パンデミックの後の世界に期待したい

イースターに毎年、献金を捧げてくださる従妹の手紙に、「この新型コロナウイルス感染症の災いを機に、人類として反省すべきを反省し、今一度大事なことは何なのかと改めて考える時なのではと思っています。」と記されていた。私も「アーメン」と思った。「今一度大事なことは何なのか」と深く考えさせられている。

今年の初めは、2020東京オリンピックの年として、個人消費、インバウンド需要が盛り上がり、株価は上昇し、景気は良くなると、日本政府も経済界ももくろんでいた。その上、原発の再稼働や沖縄の辺野古への新基地建設など、被災者や県民の声を無視して、人命よりも経済至上主義に走る姿が今に至るまである。東京新聞の『本音のコラム』で鎌田慧氏が、「今回のパンデミックは、物質主義への逆襲だったかもしれない。」と言ったが、それは宣教研究所の朴先生のウイルスが人間に向かって線を超えてきたのではなく、むしろ私たち人間が守らなければならない線を超えて、ウイルスを招いてしまったというのが、確かな事実です。そういう意味で、結局他者の不幸を餌食にして自分の幸福を追い求めてきた人間の自己中心的なライフスタイルが招いた結果が、他ならぬパンデミックなのです。」(宣研ニュースレター)という言葉にもつながるのではないか。

パンデミックは、人類の歴史の中でも何度となく起きてきた。14世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたと言われる。半世紀にわたるペスト流行の後、ヨーロッパは、平和な時間を迎えたという。そうした中で、ヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。これがペスト後のヨーロッパ世界であった。新型コロナウイルス感染症のパンデミックが今後どのような世界を作り出すのか、現時点では誰も正確に予測することはできないだろう。しかしそれは14世紀のヨーロッパのペストのように、人間の生き方に変革を迫るものになる可能性がある。

左近豊先生は昨年、エレミヤ書を通して、神は御自分の愛するイスラエルの民を滅ぼし、破壊させたが、それは建て、植えるためであった、絶望の後に希望があると話された。それはバビロンに70年間捕囚され、苦しめられたイスラエルの民に対する神の素晴らしい約束に表れる。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。エレミヤ 29:11 。私たちもパンデミックの後の世界に期待したい。

私たちの心を支えるもの

緊急事態宣言が発令された日、NHKの『首都圏ネットワーク』を見ていると、成田山新勝寺が、大本堂での参拝は事前に申込みをした人に限り続けるとのことであった。さすがに1080余年の歴史を持つお寺だと思った。どんな苦難の時代でも参拝だけは中止せず、病気平癒・健康長寿祈願などを願う人々の拠り所となっている。

キリスト教の歴史でも、初期のキリスト者がローマ皇帝の迫害を逃れ、殉教者たちを葬る地下の墓「カタコンベ」を礼拝の場として信仰を守り続けた。また今日、中国では政府の弾圧を逃れて、政府非公認の「地下教会」いわゆる「家の教会」で礼拝を捧げているキリスト者が多い。礼拝はキリスト者にとっては生命線であるので、いつの時代もあらゆる工夫をして捧げてきた。

今、諸教会は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、礼拝を中止せずに続ける工夫を模索している。もし礼拝を中止すれば、礼拝を再開することはもっと難しくなり、信仰から離れていく人が増えていき、信仰の共同体の崩壊に繋がることが懸念されるからである。週に一度、礼拝を捧げることは、信仰の維持のために大切である。

諸教会では、ネット配信による礼拝が拡大しているが、牧師一人によるネット配信は、御言葉は語れても、礼拝を捧げているとは言えないのではないか。礼拝には、御言葉に応答して感謝を捧げる会衆がいる。様々な教会のHPを見て、ネット配信の仕方を調べたが、教役者だけが教会で礼拝を捧げている教会と、数名の礼拝奉仕者が教会で礼拝を捧げている教会があった。バプテスト教会は、後者の場合が多く、「信徒による教会形成」がこの苦難の中でもよく表れている。ネット配信は、今後、病気の方や遠隔地にいる方と礼拝を共にするために、ますます必要になっていくだろうが、ただネット環境にない、特に高齢者の方への配慮を忘れてはならない。

上尾教会での取り組みは、ネット配信だけではなく、礼拝奉仕者が週報やメッセージを届けたり、郵送で送ることにしている。また、メールや電話で安否確認をして、励まし合い、祈り合うことにしている。今、聖書日課では詩編を味っているが、全てをご存知の神が、私たちの心の悩みや苦しみに適切な慰め言葉、励ましの言葉をそこに記してくださっていることに勇気づけられる。「パンは人の心を支える。」詩編104:15。命のパンである御言葉こそ、どんな時も私たちの心を支えるので、日々、味わいたいものである。そしてこの難局を、一緒に乗り越えていこうではないか。

 

死は勝利にのみ込まれた

今年のイースターは、イエス・キリストの復活の喜びを祝うムードはどこにも見られない。むしろ、新型コロナウイルスの感染の脅威に世界中が死の恐怖と戦っているのが現実である。しかし、そのような暗い現実があるにも関わらず、いや、それを乗り越える事実がキリストの復活にはある。パウロは、それを、「死は勝利にのみ込まれた」と表現している。何と素晴らしい言葉、何と励ましに満ちた言葉であろうか。

死の力の前に、私たち人間は絶望し、敗北し続けてきた。愛する人を亡くした悲しみの涙を見る度に、どんな人間も死には無力であると痛感する。しかし、パウロはこの死に対する勝利を確信した。それは、キリストが復活することによって、死に打ち勝ったからである。そして、私たちも死に対する勝利を得られるとパウロは喜びをもって語る。キリストを復活させてくださった神は、将来、私たちをも必ず復活させてくださる。この約束を確信する時、私たちも死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54-55と、高らかに勝利宣言をすることができる。

キリストの十字架と復活の出来事を見る時、打ち負かされたのは、キリストではなく、死であることがわかる。なぜなら、キリストは3日目に死から復活されたからである。私たちが将来与えられる復活の命を望み見る時、私たちは、自分がこれまで積み重ねてきたものは、決して無駄にならないことを知る。死の先には、復活がある。又、死によって絶たれた関係は、復活を通して回復する。キリストが再び来られる日、復活した私たちは、愛する人々と再び出会い、死によって絶たれた関係を回復する。

復活信仰」というのは、死なない信仰ではない。死んでも神が復活させてくださるという信仰である。死んでも大丈夫だという信仰である。聖書は、死は終わりではなく、新しい命の始まりであると説く。復活されたキリストと結ばれた私たちは、「朽ちるべきもの」肉の体から、「朽ちないもの」霊の体に変えられる。クリスチャンになった椎名麟三という作家は、自分は復活を信じられるようになって、「これで安心して“じたばたして”死ねる」といったそうである。死は勝利にのみ込まれてしまったということは、こういう死に方ができるということではないか。復活の主を信じる者は、「恐れと不安の中で、“じたばたして”死ぬ」のではない。「安心して“じたばたして”死ねる」のである。やがて私たちにも死は訪れる。その時、「死は勝利にのみ込まれた」という信仰に生きるなら、死は絶望ではなく、復活の希望をもたらしてくれると確信できる。

あなたがたに平和があるように

中世のキリスト教会は、2~4月の「受難節(レント)」の時期には、キリストの十字架上での苦しみを偲び、断食したり、自分の罪を悔い改めたり、身を慎んで過ごすように心がける季節として守られてきた。しかし、今年の受難節は、新型コロナウイルスにより、世界中が大変な受難を受けている。世界中が、今まで経験したことのない大きな危機に直面する中で、私たちをお創りになり、愛してやまない神は、私たちに何を語り、どう行動するよう求めておられるのか。この時、主から頂く、「信仰」とは、「教会」とは何なのか。なぜ私たちは「主日礼拝」に、「祈祷会」に集うのか。それぞれが御言葉に深く聴き、場所は離れていても祈りを共に捧げていきたい。

この時、教会は、ひたすら祈ることが求められている。新型コロナウイルスに罹患し、命を脅かされている方々の癒しを、懸命に治療に励んでおられる医療関係者の働きを、このウイルス拡散が抑えられ、この病の恐れから解き放たれる日が来ることを、そして安心して礼拝が捧げられる日が来ることを、共に祈ろう。そして、闇の中を歩む私たちを照らすために来てくださった主を見上げて共に歩んでいこう。

今日からの「受難週」、主はどのような一週間を過ごされたのか、その足取りを辿り、自らの生き方を顧みたい。この日曜日、主がエルサレムに入られた日である。ご自分の死に場所、最期の時を知って、なお進んで行かれた主の姿は、どのようなものであったのか。御言葉によれば、そのみ顔はしっかりとエルサレムに向けられていたとある。揺るぎはなかった。それに比べて、私たちは弟子たちと同じように、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、信仰までも萎縮してしまう弱さを感じているのではないか。様々な情報に、心が打ちひしがれ、復活の主を信じていながら、主にすべてをお委ねすることができない。そのような私たちが、この受難週を通して主を見上げ、死から勝利された主の復活の日を、喜びをもって迎えたい。

水曜日の祈祷会では、最後の晩餐の再現をし、主の十字架の血潮をしっかり心に刻みたいと思う。復活の主が、死を恐れる弟子たちに現れた時、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:26と言われた。主の平和(シャローム)に与った弟子たちは、永遠の命が与えられた喜びに溢れて、福音のために死をいとわず殉教していくのである。すべてのことを主にお委ねしていきたいものである。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。」Ⅰペトロ5:7

起きよ エルサレム

16世紀のドイツにフィリップ・ニコライという牧師がいた。彼が住んでいたウンナという町は、1597年にペストに襲われ、5千人に満たない町でわずか半年の間に1400人が亡くなった。ニコライは多い日には、30人もの死者を一人で埋葬しなければならなかった。その中には彼の二人の妹もいた。彼は常に死に直面していた。悲惨な現実であった。その中で、ニコライはひたすら市民の慰めを祈った。その祈りから生まれたのが、新生讃美歌257番「起きよ エルサレム」という讃美歌である。
1.「起きよ エルサレム その時来たれり」と ものみらは叫ぶ
「賢き乙女ら いずこにかありや」と 真夜中に響く
立ち上がりて ともし火取れ ハレルヤ 花婿来ませり 備えて迎えよ
2.ものみらの歌に シオンは目をさまし 急ぎ起き立ちぬ
月星輝き 恵みとまこと満ち 喜び溢れる
いざ来れよ イエス神の子 ホザンナ 祝いの宴を いざや分かち合わん
3.み使いと共に 「誉れ神にあれ」と 高らかに歌え
み座を取り囲む 天使らに合わせて 竪琴を鳴らせ 驚くべきこの喜び
たたえよ ハレルヤ絶えせず 主に向かい歌わん
ひたすら祈り、ひたすら聖書(特に、マタイ25:1-13)を読んだニコライは、死の恐怖におののく町の人々に永遠の命の喜びを指し示すために、この讃美歌を作ったのである。人々はこの賛美によって、天に迎えてくださる花婿なるキリストに信頼することによって、明けない夜はないことを知って、深い慰めを得たのである。
今、新型コロナウイルスの感染症によって、世界中の人々が不安や恐怖に慄(おのの)いているのではないか。その中にあって、私たちキリスト者は、ひたすら祈り、ひたすら聖書に親しむことによって、永遠の命の喜びを見い出していきたい。そして、死は終わりではない、主を信じる者には永遠の命が与えられることを、確信をもって宣べ伝えていきたい。上尾教会のサマーキャンプで奉仕してくださったウッズ宣教師の息子さんトレバー君のことを思い出す。トレバー君が10代で白血病に罹り、死を告知されて時、両親に「僕は、死は怖くないよ。天国が待っているから。友だちのいる大好きな仙台の教会に葬ってね」と言い遺していった。死は誰にでも訪れる。しかし、復活の主を信じるなら、死は絶望ではなく、復活の希望を抱かせるものである。