週報巻頭言

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主の救いの恵みの雨

今年も、梅雨の季節を迎えた。雨が降ると体調を崩すことも多い。雨空によって私たちの行動は制限されたり、予定が変更されたり、雨に振り回されることも多い。気分的にも晴れやかにならず、何をするにしても雨の時は、ひと手間増え、体の感覚としても、まとわりつく感じを覚える。しかし、一方で雨は私たちにとって必要な恵みでもあり、雨が降らないと水不足が起きる。動植物の成長の上でも、雨が少ないことで様々な問題が起きる。雨が降ることによって得られる恵みに気付けば、雨の受け止め方も変わり、雨からも新たな希望を感じることができるのではないか。

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」ホセア6: 3。雨は穀物の豊かな実りをもたらす祝福そのものとされている。「主を知ること」つまり、天地を創造された神を信じて歩んでいく人生には、雨が、荒れ果てた地を緑に変えていくように、神が私たちの心に希望や平安を芽生えさせてくださると約束している。

更に主イエスはこう約束された。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38。主は、心に渇きを覚えている人に、「渇いている人よ、いつ降ってくるかわからない雨を待つのではなく、あなたの心の奥底から生ける水の川が湧き出るようにしてあげよう。」と約束してくださった。それは、「わたしを信じる者は」とあるように、「イエス様、わたしはあなたを救い主として心に迎え入れ、信じ生きていきます。」という告白だけでよいのである。

主の救いの恵みの雨は誰でも求めれば、いつでも与えられる。しかし、努力することが美徳だと考える日本人には、なかなか理解できないことかもしれない。私自身も気付くと、「もっと頑張らなければ」とか「思った通りになってないのは、自分の努力が足りないからだ」と考えてしまうところがある。しかし、主の救いの恵みを受けるためには、「Try(努力)」ではなく、「Trust(信頼)」が必要である。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソ2:8-9。主が与えてくださる「生きた水」こそ、渇いた心に真の希望、平安、喜びをもたらしてくれるのである。主の救いの恵みの雨に与りたいものだ。

聖霊が降ると、主の証人となる

「ペンテコステ」は、「50番目」を意味するギリシャ語で、イースターから数えて50日目にあたる。ペンテコステの日に何が起こったのか。使徒言行録2章によると、弟子達の上に聖霊が降って、主の救いを大胆に語り出し、そこに集まった人々が主を信じ、教会が誕生した。そこには様々な国から来た人々がいたが、聖霊の働きによって、様々な言語で福音が語られ、皆の心が通じ合った。それは今日にも言える。聖霊が降る(働く)時、生い立ちも性格も考え方も生き方も違う一人ひとりに、主を信じる信仰が与えられ、その結果、皆の心に一致が生まれるのである。

現実の社会には、人を傷つける言葉や人と人とを引き裂く力が溢れている。お互いの間に敵意が生まれ、差別や争いが起こり、人権や命が無視されていることのなんと多いことか。その背後で、悪霊が働き、人々の間に「分断と報復」をもたらしている。しかし、ペンテコステの日から、神と人、人と人とが一つに結ばれ、互いに理解し合い、尊重し合う歩みが始まった。聖霊が降る所では、どこでも罪の赦しと和解が起こる。聖霊の働きは、人々の間に「一致と修復」をもたらすのである。

聖霊はたった一人に降ったのではない。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」使徒言行録2:1とある。この集まりの上に聖霊が降った。教会が礼拝を大切にするのは、そこに聖霊が降って、互いの違いを超えて一致することができるからだ。一緒に礼拝を捧げる時、他者との壊れた関係も再び修復することができる。「すべての人を一つにしてください。」ヨハネ17:21と祈られた主は「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2:16。それ故、ペンテコステの日に、主は私たちに和解の務めを委ねてくださった。

聖霊が降っても、聖霊の力に与っているとは限らない。聖霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22‐23を結んでない自分を見ることはないか。その時、自分には聖霊がまだ降っていないと思い込んではいないか。しかし、聖霊はすでに私たちに降ったのである。だから「聖霊に満たしてください」と祈って、聖霊の導きに従って前進すればよい。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」使徒言行録1:8。聖霊の力を受ける時、もはや恐れることなく、大胆に主を証しすることができる。

 

神が共にいてくれるから大丈夫!

先週より、聖書日課は『ヨシュア記』に入った。この書の前半はカナン征服の話、後半はカナンの地の分配について語る。モーセの後継者として立てられたヨシュアに与えられた主の言葉は、「強く、雄々しくあれ。」ヨシュア記1:6であった。この言葉は何度も繰り返されているので、私たちも「強く、雄々しく」生きなければならないと思うのではないか。私も青年時代、教会学校の子どもたちと一緒に、「雄々しくあれ 強くあれ 少年たちよ 神さまはどこにでも 共におられる われらを倒して 負かすものはない 雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ」とよく賛美したことを思い出す。そこには、どんな辛いことにも負けないで、「強く、雄々しく」生きなさいと、自分たちを奮い立たせていたように思う。しかし、この主の言葉は、自己鼓舞への勧めではない。

ヨシュアはイスラエルの民を率いるモーセの苦労を傍で見てきた。あの偉大なモーセのように自分がこの不信仰な民を導いていけるだろうか、ヨシュアは自分に与えられた使命を十分に果たす力がないことを知って、恐れたに違いない。しかし、神は私たちの弱さのうちにご自身の力を現わされる方である。ヨシュアが自信満々で恐れを知らなければ、モーセの後継者として選ばれることはなかったであろう。

この世においては、最も有能な者、最も強い者が生き残ると教えられる。しかし、神の世界では強い者ではなく、弱い者が用いられる。神に用いられるためには、強くなる必要はない。自分には何ができるだろうかと恐れを抱く者を神は用いてくださる。なぜなら、神は弱い者に力を与えられるからである。パウロも、神は「世の無学な者を選び・・世の無力な者を選ばれました。」Ⅰコリント1:27と語る。私たちに求められたことは、神が共にいて全ての道を開いて導いてくださると信頼することである。

「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもない。」ヨシュア記1:5「神が共にいてくれるから大丈夫!」だからヨシュアは「強く、雄々しくあれ。」との主の言葉に応えて生きることができた。主の弟子たちが迫害に遭いながらも、恐れることなく大宣教命令を達成することができたのはなぜか。それは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20と主が約束されたからである。メソジストの創立者ジョン・ウェスレーの最後の言葉は、「最もすばらしいことは、神が共にいてくださること」であった。これに勝る祝福はない。神が共にいてくれるからこそ、「強く、雄々しく」生きることができるのである。

 

父と母を敬う

母の日は、100年以上前に、米国の教会から生まれた。長年、教会学校の教師をしていたアン・ジャービスさんが1905年に召天し、娘のアンナ・ジャービスさんが、母親の記念会で、母を敬う気持ちから白いカーネーションを参列者に配った。その話に感動したジョン・ワナメーカーさん(百貨店王)が、自分のデパートで母の日のイベントを行い、これが全米に浸透していくことになり、1914年の連邦議会で、5月の第二日曜日を母の日と定めた。ちなみに日本には、宣教師から伝えられ、森永製菓が1937年、豊島園で母の日のイベントをしたのが全国的に広まるきっかけになった。ともかく母の日は教会から始まり、しかも「十戒」の第5番目の戒めである「あなたの父母を敬え。」出エジプト記20:12という教えがその基になっていた。

「十戒」には、人が神を愛し、人が人を愛して生きていくための方法が10の戒めにまとめられている。昔ユダヤにおいて、家庭という場所は神の言葉を教える所で、「父と母」は子どもたちにとっては、神から与えられた教師であった。ユダヤ人は「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という考えを持っていた。だから、「父と母を敬う」ということは、現代の私たちが考えている以上に大切なことであった。

現代は、「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という側面が軽んじられているのではないか。しかし、母親は、生まれて最初に出会う人であるので、子どもをしっかり抱きしめて、愛情を注ぐなら、「母親が大事にしている信仰を、私も大事にしたい」という子どもが育つのではないか。「父と母を敬う」ことによって、子どもは真の愛を知る。子どもは、父と母を敬うことを通して、神と他者への愛を育んでいく。

聖書は、両親を敬うばかりでなく、年老いた両親を世話することも命じている。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」Ⅰテモテ5:8。私は従兄弟から、「子どもにお世話になります、と日頃から言っておくことが大切よ」と勧められたが、その通りで、子どもに遠慮することはない。この「父と母を敬う」というのは、自分の両親だけに留まらず、広い意味では、周りにいる年長者をも含む。教会は神の家族である。地上では肉親はいなくなっている方も、教会には神の家族がいる。そういう意味では、教会の中には敬うべき方々が、世話をすべき方々が大勢いる。母の日をきっかけに、両親を敬い、年長者を敬う心を新たにし、家族の絆をよりいっそう深めていきたいものである。

子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜び

上尾教会のミッションステートメントに、「わたしたちは、神の栄光をたたえて、こどももおとなも一緒に礼拝を献げます。」と掲げた。それは、子どもが礼拝に出席するだけではなく、自分の賜物を用いて礼拝に参与することである。礼拝の中で奉仕を担うことによって、自分のからだをもって神の栄光を現すことができる。主を乗せたロバの子のように、主のお役に立てたことを喜び、主のために生きたいという信仰告白に導かれることだろう。幼い頃は、礼拝中ぐずることもあるかもしれないが、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」Ⅱコリント6:2と信じて、一緒に礼拝を献げたい。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。この詩編は、「都に上る歌」とあるので、礼拝者の心境を歌ったものである。「見よ、子どもたちが共に礼拝を献げている。なんという恵み、なんという喜び。」と読み替えることもできる。子どもたちと一緒に礼拝を献げることによって、他では経験することができない恵みと喜びを経験することができる。その恵みと喜びを、ここで紹介したい。

まず、子どもの成長を祈り、見ることができる。献児式に始まって、子ども祝福式、成人祝福式、そして様々な証しを通して、成長している姿に深い感動を覚え、成長させてくださった神へ感謝が生まれる。又、主の御前で、和解の福音に共に与る時、赦し合う者へと変えられる。子どもにとって、親は煙たい存在かもしれない。自分のことをわかってくれない親に、失望するかもしれない。些細なことで親子喧嘩が起こり、放蕩息子のように家出したくなるかもしれない。しかし、礼拝を一緒に献げる中で、こんな罪深い私たちのためにも主が十字架にかかってすべての罪を赦してくださったことを知り、相手を責める心ではなく、赦す心が生まれてくる。

そして、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びは、家庭の中にも賛美や祈りとなって満ち溢れていくことを経験できる。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことが楽しいひと時になったら素晴らしい。「親子聖書日課」で信仰が養われていくうちに、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ヨハネ6:27という主の言葉に応答して生きる生き方へ導かれるだろう。子どもたちは御言葉を吸い取り紙のように吸収していくので、幼い頃から、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びを見出していきたい。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ8:10

共に喜び祝う礼拝

私たちは毎週礼拝を捧げているが、どんな人と捧げることを主は望んでおられるか。申命記には何度となく、社会的弱者と言われる寄留者や孤児、寡婦と礼拝を捧げたことが記されている。「こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。」申命記16:11

主の御前に出て捧げる礼拝は、家族や友人だけでなく、社会的弱者と共に主を喜び祝うことが求められている。つまり私たちの礼拝は、神と自分の間でのみ成り立つものではない。この時代に共に生きている人々、その中でも弱く苦しんでいる人々に目を向け、その人々も共に主の御前に出て、共に主を喜び祝うことである。そこで、自分に与えられた収穫、実りをその人々と分かち合うことである。

ポーランドの教会では、ウクライナからの避難民を受け入れるために、会堂が避難所になっていたと伺った。「どこで礼拝を捧げるのですか」と日本人の牧師が尋ねると、「私たちは中庭で礼拝を捧げることができますから」と、寒空の下でウクライナの人々と共に礼拝を捧げていたそうだ。そこにおいては自分たちの思いが、共に生きている人々、特に苦しんでいる人々に向けられ、自分に与えられているものを分かち合って、共に主の御前に出るのである。また、国内でも、ホームレス支援している教会が共に礼拝を捧げている。ここには、申命記の掟を実践している姿がある。

「その年の収穫物の十分の一を取り分け・・町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」申命記14:28-29。実は、十分の一を主に捧げることは、それらを弱く貧しい人々のために分かち合うことである。なぜ、そのような配慮ができたのか。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさいなぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」レビ記19:33-34。「寄留者を自分自身のように愛しなさい」という掟の根拠は、主がエジプトに寄留していたイスラエルの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知り、救い出してくださったからである。つまり、あなたがたには寄留者の苦しみが分かるはずだから、主が寄留者であるあなたがたを愛したように、彼らを愛して、共に主を喜び祝いなさいと、礼拝の姿勢を問いただすのである。

永眠者記念礼拝を迎えて

本日、4年ぶりで、「永眠者記念礼拝」を春日部聖地霊園にある教会墓地で行う。上尾教会の墓地には、9名の方々が納骨されているが、教会員は2名だけで、あとは教会員のご家族などである。妹さんのお墓参りに毎年のように教会墓地に来ている方から、「私も一緒にそこに入れていただきたい」と言って入られた方もいる。そのように、教会墓地が伝道のために用いられていることは嬉しい。教会墓地は、本人が召された後も、家族と繋がっていくことのできる大切な場所である。

上尾教会墓地には「我らの国籍に天にあり」と刻まれている。フィリピ3:20「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」のみ言葉から取った。天に国籍を持つ者には素晴らしい特権が用意されている。この地上では主から平安が与えられても、肉体には様々な痛みや苦しみが伴う。しかし天国に移された人々は、あらゆる苦難から解放される。

「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示録21:3-4。この地上で流し続けた悲しみや嘆きの涙を、神が拭ってくださる。涙拭われた目ではっきりと見ることができるのは、神が共におられることである。これほどの幸いはない。そして、主が再び来てくださる時、私たちは主と同じ栄光ある体、朽ちない霊の体に変えていただける。だから、主を待ち望むのである。

主を信じなかった人は、死後どうなるのか、天国に行けるのか、と疑問を抱く人もいるのではないか。『セカンドチャンスの福音』という本を読んだ。その中で、主は陰府まで行って福音を伝えられたので、この地上では信仰告白に至らなくても、救われるチャンスはまだあると記されていた。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」Ⅰペトロ3:19。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」フィリピ2:10-11。ここで記される捕らわれていた霊たち」とか地下のもの」とは、死んで陰府に行った人たちのことである。そこで福音を聞いて、悔い改める機会があるとしたら、これほど大きな希望はない。生きている時に、主を信じてほしいという願いはあるが、もし主を信じることなく召されたとしても、主の救いのみ手は死後もその人に注がれているのである。

主は

エコに生きる教会を目指す!

上尾教会は、エコ製品で溢れていることにお気づきだと思う。週報棚も講壇も椅子もその場所では役目を終え、処分されることを聞いて、まだ使えるなら・・と戴くことになり、教会の備品として立派に使用できている。むしろ、使用されていた円熟味があり、とても親しみがある。大切に使用するならば、23年前、献堂式のとき戴いたグランドピアノのように、何十年と輝きを放つであろう。

「エコ」とは生態学・自然環境を意味する「エコロジー(ecology)」の略語で、現在では「環境にやさしい」といった意味で使われる。今日の世界は、環境にやさしいとはとてもいえない。人間が支配権(創世記1:26)を濫用し、他の被造物への抑圧的な支配を正当化している。その結果、自然破壊と生物学的危機に加えて、人間の倫理的、文化的、霊的危機の状況を招く。貧しい人々と地球のもろさは繋がっていて、貧困問題と環境問題とは同根である。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 」ローマ8:22。

現代に生きる私たちは、「エコロジカルな回心」の必要を謙虚に認め、「エコロジカルな教育」を推進し、「エコロジカルな霊性」を深めていかなければならない。鹿児島の修道院で、「エコロジカルな回心」について下記のように取り組んでいることは、私たちにも参考になる。

〇毎日の生活で、節約・清貧に努める(節水・節電など)。今ある物を大切に丁寧に使う。

〇ペーパーレス化に努め、古紙の再利用に心がけ、リサイクル資源の確保にも協力する。

〇毎日の食事を感謝していただき、食前・食後の祈りを、神と人々への感謝のうちに心を込めて祈る。

〇環境保全のために、自分たちの住居・事業所をきれいに整え、清潔にする。

〇便利な生活、快適な生活を追求するあり方を考え直す。何が本当に必要なのか、大切なことは何なのかを地球規模で考えていく時にきている。まずは、一人ひとりが自覚して行動すること。

〇新聞やテレビなどを通して、弱い立場にある兄弟姉妹に関心を持ち、彼らのために祈る。

〇地球温暖化や森林破壊、エネルギー問題、生物多様性の危機などについて、又SDGs について、貧困や格差の社会問題について、共同体としても学び実践していく。

〇事業所として教育の場が与えられているので、エコロジカルな教育にも力を入れる。

主の復活の出来事

主の復活の出来事を、福音書の記述を基に、時系列にまとめてみた。

【日曜日の早朝】(マタイ28:1-10、マルコ16:1-8)

大きな地震が起こり、墓の入口の石が転がって取り除かれていた。そこへ女性たちが用意していた香油を持って墓に来たが、墓の中に入ると墓は空だった。天使たちは、主の復活を告げ、主はガリラヤに先立ち、そこに行けば主に会えると告げた。彼女たちは走って帰って、恐れと喜びをもって、主の弟子たちに伝えた。

【日曜日の昼頃】(ルカ24:13-35)

クレオバともう一人の弟子が、エルサレムからエマオに行く途中だった。二人が復活の出来事について議論している時、主が近づいて来て一緒に歩き、聖書からご自分の復活について解説した。エマオに到着すると、二人は主を自宅に招いた。主が食卓で、祝福してパンを割き、彼らに渡すと、二人の目が開いて主だと気づいた。

【日曜日の夕方】(ヨハネ20:19-23、ルカ24:36-49)

エルサレムの家に居た弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた。そこに主は入って来て、弟子たちの真ん中に立った。彼らは恐れて、霊を見ていると思った。しかし、主は自分に触るように言って、肉体があることを示され、焼き魚を食べて見せた。主は聖書から、主の復活について解説し、彼らの心の目を開かれた。そして、父の約束(聖霊)が来るまでは、エルサレムに留まっていなさいと告げられた。

【8日後】(ヨハネ20:24-29)

トマスは、一週間前に他の弟子たちと一緒にいなかったので、主が復活したことを信じられなかった。直接見なければ信じようとしなかったトマスに、主は自分の手と脇の傷跡に触れるよう命じた。トマスは遂に主を信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。主は、「見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29と言われた。

【その後】(ヨハネ21:1-23)

ガリラヤ湖で主が弟子たちに現れた。ペトロの呼び掛けで弟子たちは漁をすることになるが、その夜は何も捕れなかった。明け方、主が命じたとおり網を降ろすと大量の魚が捕れた。弟子たちは、主がパンと魚で朝食を出してくれることを知った。三度主を否認したペトロは、三度主への愛を告白した。復活の主が弟子たちに現れたのは三度目であった。主の復活は、事実として起こったことを記している。

受難週を黙想して

今週は、主が十字架の道を歩まれた「受難週」である。黙想して、主に従いたい。

日曜日、主は人々の歓呼の声に迎えられて、ロバの子を用いて、エルサレムに入城された。ロバの子の主人は、「主がお入り用なのです」との呼びかけに素直に応えて、差し出した。そして、ロバの子は主をお乗せする光栄に与った。主はロバの子を用いて栄光を示すことのできる方である。だとしたら、私たちにも声をかけて頂き、主の栄光のためにお役に立ちたい。もし声をかけられた時、自分の都合を優先せずに、素直に自身を差し出せる者となることができるように、素直な信仰を与えて頂きたい。

月曜日、主が都に入って、最初にされたのが宮きよめである。主は神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が祈りの家であることを宣言された。主は神殿の本来あるべき姿を取り戻された。私たちは、神のかたちとして、神の栄光を現す神の神殿である。しかし、私たちの心に罪が巣食ってしまってはいないだろうか。主の十字架を仰ぐことによって、すべての罪からきよめて頂きたい。

水曜日、主がベタニアのシモンの家で食事をしていた時、マリヤが高価なナルドの香油を主の頭に注ぎかけた。これはマリヤの心からの献げものであると共に主の埋葬の準備であった。そんなに献げたらもったいないと、囁く声が聞こえて来ないだろうか。しかし、み言葉に耳を傾けたマリアであればこそ、今何をすべきかを悟り、主に愛と献身の思いを込めて、ナルドの香油を惜しげもなく注ぐことが出来た。

木曜日、最後の晩餐、過越の食事の最中に主は弟子たちの足を洗った。それはしもべの姿を取る模範だけでなく、救い主として十字架の血潮をもって私たちの罪と汚れを洗ってくださることのしるしであった。だとしたら、「洗わないでください」ではなく、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」と遠慮なく、主の御前に汚れたところを差し出し、「互いに足を洗い合う(愛し合う)」者とさせて頂きたい。

金曜日、聖金曜日(Good Friday)と言い、主の十字架と死を覚える日である。十字架は呪いと敗北、死という終わりを象徴している。しかし、主の十字架によって、人の罪は赦され、三日後に、主は死から復活することによって、死は打ち破られ、死が終わりでないこと、主を信じる者に復活の命が与えられることを示された。その復活の喜びを受け止めるために、主の十字架の死に思いを向ける受難週でありたい。