週報巻頭言

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世界祈祷週間を迎えて

「世界祈祷週間」は、アメリカ南部バプテストのロティ・ムーン宣教師を記念して始められた。彼女は1873年、33歳の時から70歳で召されるまで37年間、中国での福音宣教に励んだ。彼女は「中国の人々の救いのために祈ってほしい、中国の人々の暮らしのために献金してほしい、中国に更なる宣教師を送ってほしい。」との願いを南部バプテストの女性たちに伝え、それに応えるかたちで、「ロティ・ムーン・クリスマス献金」の活動がなされた。その信仰を受け継ぎ、日本では1931年から世界祈祷週間が開始された。諸教会の女性会は祈りと献金を推進し、女性連合が日本バプテスト連盟と一緒に取り組んでいる国内外における伝道活動のために献げられている。

世界宣教は、いつの時代も教会の大切な使命である。復活の主は弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15と命じた。その言葉をまともに聞いた弟子たちは、「出かけて行って、至るところで宣教した。」マルコ16:20。私たちが主を信じることができたのも、世界宣教の使命に燃やされた宣教師の働きに負うところが大きかった。「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。」ローマ10:14と語られたように、いつの時代も「宣べ伝る人」が必要である。

そして福音が語られる所には、「それに伴うしるし」マルコ16:20が現れる。宣教師は聖書を翻訳し、伝道し、教会を建てたが、それだけではなかった。宣教師が福音を伝えた時、教育・医療・福祉というものが一緒に来た。学校を建て、幼稚園を建て、女性たちが生活していく職業訓練の施設を建て、病院を建てた。そして後に、教育・医療・福祉という分野において、教会がこのしるしとなる働きを担っていった。神の愛の言葉は、愛の業と一つになって、説得力のある言葉として伝えられてきた。

日本バプテスト連盟の世界伝道は、派遣先の祈りや要請に仕えることを第一としてなされ、しかも「和解の福音に仕える」ことを大切にしている。インドネシアに派遣されている野口日宇満・佳奈宣教師は、神学校と教会に仕え、伝道者の育成に励んでいる。国際ミッション・ボランティアの佐々木和之さんは、ルワンダの大学で平和を担う若者を育て、恵さんは、和解と共生のためにツチ、フツの女性たちと「ウムチョ・ニャンザストア」を運営し、そこで生まれた素敵な製品をネットでも販売して、女性たちの自立支援に役立てている。私たちが伝道に励んでいく中で、必ずしるしが与えられ、主が生きておられることを人々も知ることができるだろう。

「非戦論」に生きたい

残念ながら、キリスト教が多数派を占める国では「正戦論」がまかり通っている。「正戦論」とは「正義」のための戦争を認める立場を言う。旧約聖書でも、イスラエルの12部族がモーセに率いられて出エジプトをして、パレスチナの土地に定着して以来、バビロン捕囚から再びパレスチナの土地に帰還するまで、神によって導かれた聖なる戦争「聖戦」を認め、ユダヤ教やイスラム教も「聖戦」の根拠とした。

それに対して「非戦論」というのは、あらゆる場合に戦争を認めない立場を指す。新約聖書では、隣人愛と徹底した赦しを説いた主イエスは、復讐することを禁じ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」マタイ26:52と武力での解決を禁じた。主の非暴力・絶対的平和主義の教えと実践は、インド独立の父マハトマ・ガンジーや、アメリカ黒人解放運動のリーダー、マルティン・ルーサー・キング牧師にも受け継がれている。

このような「非戦論」の立場のキリスト教が「正戦論」に転換したのは、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝がキリスト教に回心したことに由来する。313年にコンスタンティヌス帝は、それまでローマ皇帝を神として仰がないことが理由で迫害されてきたキリスト教を国教にする道を開くミラノ勅令を出した。それ以来、キリスト教は国を守る宗教となり、正義のために戦争をする「正戦論」の立場が鮮明になった。

そのような歴史の流れの中で、再洗礼派のメノナイト派やクウェーカー派などの少数派のキリスト者は、新約聖書の「非戦論」の立場を貫く。日本はキリスト教が国教になった歴史がなく、キリスト教が支配的宗教になったことがないので、教会では「非戦論」が多数を占めている。しかし、第二次世界大戦時には日本の軍国主義政策に絡め取られていった苦い経験がある。その中で極めて少数だが、戦時中も「非戦論」を貫いた人々がいた。武祐一郎先生の著書の中でも、投獄覚悟で「日本の戦争は間違っている」と唱えて、要職から追放された無教会の先達のことが記されていた。

戦争はある日突然起こる。戦争が始まってからでは、反対することは難しい。沖縄平和運動センターの山城博治さんが、「今ならまだ止められる」とデモ隊の最前列で叫んでいたが、戦争が始まって真っ先に攻撃されるのは、自衛隊のミサイル基地のある南西諸島であり、米軍の基地のある沖縄本島である。日本政府が5年間で43兆円の防衛費(いや軍事費)をつぎ込もうとしていることに、主の教えに生きようとする私たちは、はっきり「NO!」と言って、平和を創り出すために声をあげたい。

 

相互訪問の恵み

本日、相互訪問のために宇都宮教会の皆さんをお迎えして、一緒に礼拝を捧げる機会が与えられたことは、とても感謝なことである。この相互訪問は、2008年から始まった。その年に開催した「北関東地方連合/結成40周年大会」で、「出会い・交わり・協力伝道」の大切さを確認した。そして教会間で、この「出会い・交わり・協力伝道」を推進したいという思いが与えられ、具体的な提案を伝道委員会から諸教会にしたのが「相互訪問」であった。訪問先の教会の礼拝で、賛美や証、宣教の奉仕をし、交わりの時には、教会が用意してくださる昼食も楽しみながら、教会の歩みや活動を紹介したり、又、教会学校研修会や教会音楽研修会など学びの時をもってきた。連合には21の教会/伝道所があるが、今では殆どの教会が参加している。

上尾教会もコロナ前までは毎年のように相互訪問に参加してきた。川越教会、宮原教会、太田教会、所沢教会、筑波教会、朝霞教会、東海教会、太田ビジョン伝道所、大宮教会、水戸教会、日立教会、新潟主の港教会とよき出会いと交わり、協力伝道が生まれてきた。訪問して、気づかされることの何と多いことか。受付の対応や礼拝での賛美や祈り、教会学校での学びには、奉仕者の献身的な姿がそこにはあった。教会の取り組んでいることを見たり聞いたりすることによって、大きな刺激とチャレンジを受けた。上尾教会の奉仕者も、礼拝賛美や奏楽のための研修で大変喜ばれた。

相互訪問の恵みは尽きない。それは、お互いの教会を知ることである。どんな場所に教会が建っていて、どんな方々がいるのか、訪問してみないとわからない。又、牧師が一人で行くのとは違って、複数で行くと、様々な出会いと交わりが生まれる。連合の小羊会からも相互訪問に子どもも一緒に参加させてほしいとの要望が出されたが、子どもたちも相互訪問でお友だちを作ることができる。相互訪問を通して、自分(自分の教会)を知る機会が与えられ、自分(自分の教会)を見つめ直せる。相互訪問は、新たな気づきが与えられる大変よい機会となっている。嬉しいことに、北関の相互訪問が祝されていることを聞いた他の連合の教会間でも相互訪問が広がっている。

少子高齢化が進み、担い手不足に悩む教会にとって、今日の宣教は、一教会では担いきれない。教会が協力し合って、お互いの賜物を生かして、共に成長し合っていきたい。そのために、相互訪問は大きく用いられると期待する。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」Ⅰコリント3:9

「パレスチナ問題」とは何か

パレスチナ自治区のガザ地区で、イスラム組織ハマスとイスラエル軍との大規模な軍事衝突が続いている。一刻も早く停戦へと至り、これ以上関係のない市民の方々の命が傷つけられ、失われることがないように、ガザ地区の人々に必要な支援物資が行き渡りますように、ハマスによって人質とされている人々が解放されますように、イスラエルとパレスチナ自治区双方の平和のために、祈りを合わせていきたい。

この軍事衝突の背景にある「パレスチナ問題」とは何か。75年前の1948年、国家としてイスラエルの建国が宣言された時、イスラエルの指導者たちは、「パレスチナはそもそも神がイスラエルに与えた約束の地である」と主張した。旧約聖書には、アブラハムの子孫にカナンの地(パレスチナ)を与えるという神の約束が記されているので、パレスチナは元々イスラエルの土地であると。一見信仰的にも思えるこの言葉は、実際は、自分たちの侵略行為を正当化するために聖書の言葉を利用した。

旧約聖書はイスラエル民族によって書かれた書であるので、それがイスラエルの目線から記されているのは当然で、私たちは聖書を読む時、もう一つの視点、パレスチナの人々の視点からも読み直してみることが大切である。イスラエル民族の視点からするとカナンへの定住は「約束の成就」だが、元々その地に住んでいた先住民族の人々の視点からすると、それは「侵略」にあたる。聖書を読むにあたって、このように視点を置き換えてみることはパレスチナ問題を考える上で重要なことである。

1948年のイスラエル建国当時、「そもそもパレスチナ人など始めから存在していない」という恐ろしい論理の下、イスラエル政府はパレスチナの大部分を強制的に自国の領土としていった。もちろん、報復行為は決して容認してはならないが、存在そのものが否定されるという暴力に対して、パレスチナの人々の「私たちの存在を認めよ」との声を、国際社会は今一度厳粛に受け止め直す必要があるのではないか。

存在しているものがあたかも存在していないかのようにされてしまう問題は、パレスチナ問題に限られるものではない。私たちの社会の状況を見渡すと、重大な問題があたかも「なかったこと」にされてしまうことが至るところで生じている。それによって傷ついている人の存在もなかったことにされる。私たちはこれらの「なかったこと」にする力に抗い続けてゆくことが求められている。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」マタイ5:37

新しい神殿こそ、目指すべきもの

本日、会堂24周年を迎えた。会堂がいつの時代も立ち続けることを願うが、エルサレム神殿は3度も建て直されたので、何を目指して立ち続けるのか問い質したい。最初の神殿は、ソロモン王によって紀元前958年に起工し、7年半かかって完成した。しかし、紀元前586年、バビロニア軍によって南ユダ王国が滅亡し、神殿は破壊された。バビロン捕囚が終わり、民は帰還し、紀元前515年、神殿は再建された。その神殿は、ソロモンの建てた神殿とは比較にならないほど貧弱であった。しかし、預言者ハガイは神殿再建の希望を語る。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。」ハガイ2:9。民が心を込めて献堂する礼拝堂に満ち溢れるものは、「神の平和」であった。

ヘロデ大王が紀元前20年頃から、神殿を拡大し、壮麗な神殿に建て直した。しかし、主はこの神殿が崩壊することを予告した。紀元70年、ローマ軍によって徹底的に神殿は破壊され、外壁だけが残された。「嘆きの壁」は、長きにわたり、人々が壁に手や額を当てて祈りを捧げ続けてきた。これまで無数の人々が神殿の破壊を悲しみ、幾多の苦難を経験する中で、嘆きの壁は、神に祈りを捧げるしるしとなった。

当時の神殿の構造を見ると、神殿の最も外側に「異邦人の庭」、その内側に「女性の庭」、「男性の庭」、「祭司の庭」、最も奥に「至聖所」があった。男性の庭には、ユダヤ人の男性しか入ることができず、異邦人も女性も病人や障がい者も入ることはできなかった。一般の信徒と祭司たちの間にも区別あり、聖所には祭司、至聖所には大祭司しか入れなかった。 当時の人々からするとその「区別」は先祖伝来の伝統であったのかもしれないが、現代の私たちの視点からすると、「差別」に他ならない。

神殿の崩壊を予告された主は、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ルカ21:6と言われた。主はここで、「新しい神殿」が建てられることを示唆された。その新しい神殿は、主ご自身と主の体としての教会と受け止められるが、この新しい神殿において、人の手で作られたあらゆる「壁」が打ち壊されていくのである。国と国とを隔てる壁、男性と女性を隔てる壁、いわゆる健常者と障がい者を隔てる壁、そして人間と神を隔てる壁が主の十字架によって取り除かれ、様々な違いを超えて、全ての人が共に祈ることができ、一人ひとりが、神の愛の中で、自分らしく生きていくことができるのである。

御言葉を行う人になりたい

先週の「第27回埼玉一日アシュラム」において、御言葉から新たな恵みを頂くことができた。その時、御言葉の「静聴の時」を一時間ほど持った。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」フィリピ1:21との主題聖句に心を傾けながら、フィリピ書全体を黙想していく内に、自分の日々の生活がいかに主の御心に適ったものでないか、自らの不信仰が示されたと共に、「いついかなる場合も対処する秘訣」を主から授かっていることを知り、御言葉に聴従することの大切さを再確認した。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」ヤコブ1:22。御言葉を聞いて、その真理を理解しただけでは不十分である。むしろ、聞いたことを、実行に移すか否かに一切がかかっている。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22:39という戒めを、日々の生活で実行することである。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」ヤコブ2:17と指摘する。

東京の妙円寺というお寺の掲示板にこんな言葉があった。「言っていることではなく、やっていることが、その人の正体」。確かにそうだと思わせられる言葉である。その人が言っていることではなく、その人がやっていることにこそ、その人の内実が現れるというのは、もっともなことである。言葉だけになって、実際の行動が伴っていないことは、私たちにもよくあることではないか。どれだけ立派で正しいことを言ったとしても、どれだけ道徳的なことを言ったとしても、その人が身近な所で誰かを軽んじたり、誰かの尊厳を傷つけたとしたら、それらの言葉は虚しく響くだけのものになってしまう。そして、「言っている」ことと「やっている」ことが違うと信頼を失い、「あの人のようにはなりたくない」という反面教師のレッテルを張られるだろう。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」マタイ7:17-20。「実」とは、その人の実際の振る舞いや生き方を指している。「言っていることではなく、やっていること」である。行動の果実にこそ、その人の内実がはっきりと現れる。果実を見ればその木が何の木か分かるように、その人の「やっていること」を見れば、その人の本性が分かる。「生きるとはキリスト」私たちは御言葉を聞くだけで終わるのではなく、行う人へと変えられたい。「行いの伴う信仰」に生きたいものである。

ぼくらの世界~私から始めるアクション

上尾教会では、「世界食料デー」の働きを礼拝の中で覚える。募金を送る「日本国際飢餓対策機構」の案内に、「ぼくらの世界では、今・・2020年以降のパンデミックにより、世界中で経済状況が悪化し、特に途上国の社会的・経済的に脆弱な状況下で暮らす人々は厳しい生活を強いられてきました。それに加えて、昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻は食料・肥料・燃料等の価格高騰を招き、世界の飢餓状況は更に深刻化しています。紛争や自然災害で深刻な食料不足に陥った人々は、2022年に過去最多となりました。」とあった。

世界の人口は80億人を超えたが、その内8億人が飢餓で苦しむ。それは世界の人口の10人に1人に当たる。又、食料が不足している人口は、23億人に達している。その原因は、穀物が不足しているからではない。世界では、穀物だけでも世界中の人が生きでいくのに必要な量の倍近く生産されている。それなのに世界の飢餓人口は減るどころか増え続けている。その原因は、気候変動や環境問題、戦争や内戦、コロナや疫病などと言われているが、飢餓の原因の根底には、人間の貪欲さがある。

神学者のボンヘッファーは、「誰かが自分のパンを自分のためにだけ取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の掟である。」と警告を鳴らす。飢餓状態にある子どもの80%は、食糧を生産している国の子どもたちである。輸出用の食糧を生産している隣りで、食べることすらままならない状態で毎日飢えをしのいでいる子どもたちが大勢いることに心を向けたい。日本国際飢餓対策機構の標語に、「私から始めるアクション」とあったが、そのために私たちにできることは何だろうか。

日本では、食べられるのに捨てられる食品「食品ロス」の量が年間523万トン、日本の人口1人当たり毎日おにぎり1個を捨てている計算になる。又、世界の食料廃棄量は年間13億トンで、生産された食料のおおよそ3分の1を廃棄している。食料を大量に生産、輸入しているのに、その多くを捨てている現実がある。多くの食品ロスを発生させている一方で、7人に1人の子どもが貧困で食事に困っている。

「食品ロス」を減らすための小さな行動も、一人ひとりが取り組むことで、大きな削減につながる。例えば、買物時に「買いすぎない」、料理を作る際に「作りすぎない」、そして「食べ残さない」。愛は、相手に関心をもつことから始まる。私たちは、自分に与えられたパンを、自分のためにだけ取っておこうとするのではなく、他者のために用いていきたい。「受けるよりは与える方が幸いである」使徒言行録20:35

 

種を蒔く人

AI(人が実現する様々な知性を人工的に再現するもの)を使えばすぐに最適な結果が得られる、すぐに最善の答えが得られると、どの世界でももてはやされている。又、「即効性」を謳う本がたくさん並んでいる。「5分でわかる」とか「たちまち効果が出る」とか、「この一冊を読めばすべてが分かる」とか。そのような謳い文句を目にすると、つい手に取ってみたくなるのではないか。しかし、それだけ私たちの日々の生活において、余裕が失われていることの表れであるのかもしれない。ゆっくり待つ、じっくり考えてみる、そのことに耐えうる力が失われてしまっている。

精神科医・小説家の帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)さんの表現を借りると、「答えの出ない事態に耐える力―性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を養うことである。コロナ禍の3年半、私たちは様々な困難に直面し続けてきた。その中で、私たちはすぐには答えが出ない、難しい状況に直面した。そのような中で、「急がず、焦らず、耐えていく力」の必要性を実感した。問題を今すぐに解決できなくても、何とか持ち応えていく力、それが私たちが生きていく上でもっとも大切な力であることに気づかされてきたのではないか。

同じように、神の言葉は私たちにとってすぐに理解のできるものではない。聖書を読んでいても、むしろ不可解な言葉、よく分からない言葉の方が多い。たとえすぐに意味は分からなくても、答えは出なくても、その言葉を大切に心に留め、思い巡らしていく姿勢が大切である。実を結ぶまでには時間がかかる。しかし、きっと実を結ぶ時が来る。いつか必ず、収穫の時が来る。その信頼を私たちの内に新たにしたい。

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」詩編126:5-6。

私たちは一人ひとり、人生において、「種を蒔く人」である。私たちはそれぞれ、日々懸命に、まだ見ぬ明日に向かって、種を蒔き続けている。種が芽を出し、実を結ぶまでには時間がかかる。すぐには結果が出ることは少ない。失敗が続き、時には、泣きながら種を蒔くこともある。しかし、いつかきっと喜びの日、収穫の時が来る。もしかしたら、生きている間には結果が出ないことがあるのかもしれない。でもいつか、喜びの歌と共に実った穂を刈り入れる日がくる。私たちが涙と共に蒔いてきた種を、神は御心のままに用いてくださる。私たちにはその希望が与えられている。

 

収穫の主に願いなさい

収穫の秋を迎えたが、伝道においてはどうだろうか。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ルカ10:2.と、主は私たちに、伝道においても「収穫は多い」と約束してくださった。「収穫は多い」つまり主による救いを受け入れ、信じる者がたくさん与えられるという。別の言い方をすれば、伝道は決して徒労に終わらない、ということである。しかし、私たちは、今、伝道が停滞していて、収穫はむしろ少ないように思えるのではないか。

最近、連盟事務所より「2022年度の教勢報告書」が送られてきた。全国316教会・伝道所の教勢一覧が記されているが、残念なことに、どの項目(現在会員、受浸者、礼拝、祈祷会、教会学校、献金)も減少の一途を辿っていた。ただ、召天者だけは増えていた。この傾向は、この10年に顕著に表れ、今後もこの傾向が続くことが予測される。それは連盟だけではなく、キリスト教界全体に見られる傾向である。

この伝道が実を結ばないことへの落胆は、本当は見当違いなものである。なぜなら私たちは自分の力で伝道の実を結ばせるのではない。私たちが畑を耕し、種を蒔き、世話をして育て、実を結ばせるのではない。その全てをしてくださるのは「収穫の主」である神である。その神が畑を耕し、種を蒔き、世話をして成長させてくださり、実を結ばせてくださる。私たちがするのは、その実りを刈り入れるだけである。

「収穫は多いが、働き手は少ない」とは、その豊かな実りを刈り入れる「働き手」が少ないということである。しばしばこの「働き手」は牧師のことであり、だから「収穫のために働き手を送ってくださるよう」に願うとは、神学校に行く献身者が起こされるよう祈り求めることだとされてきた。しかしそれだけではない。それにも増して、信徒一人ひとりを収穫のための働き手として用いてください、と祈り求めることである。

私たちのなすべきことは、自分の力で実りを増やすことではなく、すでに実っている豊かな実りを刈り入れることだけである。だから私たちは落胆するのではなく、「収穫の主」が豊かな実りを結ばせてくださっていることに信頼し、自分自身が経験している主による救いの恵みを証しし、又、神の国の福音を伝えるために用いられることである。よき「働き手」になるためには、学びや訓練が必要である。そのために、神学校の学びは大変有益である。今、神学校は、ライブやビデオで、いつでも、どこでも学べる。私たちは「収穫のために働き手」となって、収穫が多いことを実感したい。

 

生涯の日を正しく数える

ネットを見ると、「寿命診断アプリ」なるものがあった。健康状態や食生活などから余命を診断し、余命年数が表示される。とは言っても、平均値から算出したもので、正確なものではない。しかし、聖書の中に記されている「寿命診断アプリ」は正確なものである。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」詩編90:12「生涯の日を正しく数える」とは、「自分が死ななければならない存在であることを私に示してください。」と求めることである。「メメント・モリ」(汝、死すべきことを覚えよ)という言葉をよく聞くが、私たちは、自分が死ぬべき存在であるという現実から目を背けがちである。しかし、死について考えない生き方は、今のこの生、生きることについても考えない生き方となってしまうのである。

私たちの地上の生涯の行き着く先は死である。誰も死を避けて通ることはできない。死を前にした時、それこそ空しさを覚えたり、様々な恐怖に捕われることがあるだろう。この詩人は、自分の罪に苦しみ続けた。どれだけ忘れようとしても、神はその隠れている罪に光を照らし、その罪を暴き、裁かれる。神の怒りを前にした時、私の存在は消え去ってしまうということに恐れを覚えた。死という絶対的な力を前にして、もはや一歩も前に進むことはできない。どれだけ自分の知恵を振り絞っても、生涯の日を正しく数えることなど到底できない。ただ嘆くしかないのである。

しかし、神はその嘆きに応えくださった。罪から解き放たれ、死を乗り越えて行くことのできる確かな命に生きる知恵を、神は私たちに授けてくださった。その知恵を、主イエスの姿に見ることができる。主の十字架を通して、神は「あなたの罪は赦されている」と告げてくださった。そして、死に打ち勝つことのできる復活の命の中を、神と共に進んで行くことができると、復活の主は、私たちに語りかけてくださった。

ルターは、中世の時代から教会で歌われた、「生の最中にあって、われわれは死の中にある。」という賛美歌を、「死の最中にあって、われわれは生の中にある。」という歌詞に変えて歌った。どんな祝福に満ちた人生を送っても、死の壁が私たちを四方から取り囲んでいるが、私たちは主の復活の命に確固として囲まれて生きている。私たちが神によって生かされているということは、まさにこのように歌いつつ歩むことではないか。神は、生涯の日を正しく数える生き方へと、今日も私たちを招いてくださっている。主の命が、私たちの日々の歩みを確かなものとしてくださるのである。