Author: t-fuji

Home / Articles posted by t-fuji

知っていただく              教会員

スチュワードシップ月間として、数々大切なことはあるが、特に私は、一人でも多くの方に上尾教会を知っていただくには、如何にするべきかを考える。

昨年、宣教学の学びをさせていただいた。まず、近隣の方に教会に来ていただく為には、教会の真の大事なことは大切にし、その上で、敷居は下げて、間口を大きく開いて、奥行きを深くしていく必要があると「クリスチャン新聞」の編集長の松谷信司さんに教えられた。そのためには、「ハタ」から見ると、上尾教会は、どう見えているのだろうと考えてみなければいけない。

教会に初めて来られる方の多くは、教会の情報をまず、ホームページで確認をしてから、大丈夫そうなら、勇気をもって教会に一歩を踏み入れる。学びの中で上尾教会のホームページは、新来者に本当に知りたいことが記されているのか見直すことをした。そこには、新来者にとって必要のないことや、教会の様子がわかりづらい写真があったり、何年も前の情報があったり、不親切であったことを反省した。今や、ホームページがちゃんと機能していないと、その存在自体ないに等しいと思われる時代であるそうである。また、若者の為には、SNSで常に情報を発信し、応答することは必須らしい。

また、勇気をもって来てくださった新来者に、教会はかなり何もかも、わかりづらい。聖書や讃美歌を、初めて手に取る方かもしれない。本日の聖書箇所、賛美箇所を分かりやすく工夫して、聖書、讃美歌をお貸しする必要がある。教会の礼典のある日は、説明をさせていただく配慮も大事である。「新来者の方へ」という説明書を先にご用意して、初めての方が心地よく参加してくださるようにしたいと思う。

日本人の宗教観を教わった。若者は、宗教に縛られるのは好まないが、スピリチュアルなものには関心が深いようだ。ふらっと教会に足を運ぶのもよい。ただ礼拝ってどんなものだろうと見に来てもらうのもよい。そーっと来てそーっと帰っていきたい人もいる。神様は、教会まで足を運んでくださった方々を間違いなく喜んで歓迎される。誰でも来たい時に足を運んでくださればそれも有りだと思う。一人でも多くの方に上尾教会のことを知っていただくことが大事であると思う。来てよかったと思っていただけるような教会でありたい。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

マタイによる福音書11章28節

体の仕組みと教会              教会員

もう5年も前になりますが、加齢によって、両股関節の摩耗が激しく、人工関節を入れる手術を受けるため入院し、自分の体に起きる現象を経験することを通して、知識ではなく、体感し、理解する機会となりました。

体の外から入ってくる刺激に「痛み」があります。できれば避けたいものです。例えば注射をされる場合、消毒されたりすることで、適度な緊張と、心の準備ができて、落ち着いて受けることで痛みは軽減し、薬は効果的に全身を巡ります。針を刺された場所だけで受けるのではなく、全身で受けていることがわかります。もしこの「痛み」を事故や暴力と言う形で受けた場合はどうでしょう。相手を思いながら与える刺激ではないし、思いがけなく入ってくるので準備のないままその場所がより強すぎる形で受けてしまい、怪我や大事に繋がるのです。そんな時も「ああ!痛そうだねえ」と共感し、手を貸してくれる家族や仲間の存在は、一人で耐えることなく、痛みの軽減、体の回復に大きく影響しているのです。これがまして教会員の方々や、牧師先生ご夫妻によるものでしたら、共に担い、祈りの課題として共有してくださるので、主にあって、慰められ、癒されていきます。

もう一つ「代償機能」があります。足を上げ、前に出すには脳からの指令があって、手にも体幹にもバランスを取るなど役割があります。率先して働くのは大腿四頭筋。大きな腿の筋肉や大臀筋など臀部の筋肉です。それらは適度な大きさや形を保っていても、ちょうつがいの部品なる軟骨の古いものが消失していくばかりで、新しいものが造られず、機能することができなかったのです。しかし私は歩いていました。この時、普通なら協力する程度なのに、大活躍してくれたのが膝から下の前にある前脛骨筋です。それがわかったのは術後、歩く練習を始めるとひどく疲れたのが脛だったからです。患っていた間に筋力が低下していたので、「まだですか?」と悲鳴を上げていたのです。脛は、腿の代わりをしてくれていたのです。

キリストの体なる教会はまさに人の体のようです。普段は手や足のようにそれぞれの役割があります。それが神様から授かっている賜物です。それを生かして互いに奉仕を担い合っています。しかし、昨今の「コロナ」のような不測の事態にも、主は先立って、また共に歩んでくださり、そして体にある代償機能も用いてくださいました。体はもちろん、私たちに与えられているすべては、あらゆる必要を満たして、欠ける所が一つもありません。振り返ってその事に気づかされる時、お造りくださったのは主。それをひしひしと感じ、私は感謝に溢れています。

「賜物」とは逃げないと言うこと     教会員

折しも今日(2/7)は埼玉でも雪が降り積もった。被災した能登へ、金沢から4時間かけてボランティア活動にきた学生は、3時間の作業の後に4時間かけて日帰りすると報じられていた。寒かろうと頭が下がる。

同じく77年前、焦土と化した日本の国土に降り積もった雪を見て、人々の復興への思いに寄り添ったであろう詩人、永瀬清子の詩が思い出される。

「降りつむ」    永瀬 清子

かなしみの国に雪が降りつむ  かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ

失いつくしたものの上に雪が降りつむ(一部分)

私は窓を開けて雪空を見上げた。とめどもなく雪の粒が追いかけてくる。午睡からさめると一面に庭が白くなり、暗くなり始めた街灯の下だけに雪粒が美しく走って照らされていた。音や色彩には反応が早いが、言葉や活字、数字に至ってはからきし弱く巻頭言の原稿提出を渋っていた私は、降りしきる雪に自分の弱さの上に降りしきる「賜物」という思いが重なった。

日々主のみ旨に適うように生きたいと願いつつ上尾教会に連なり、2回ほど主が用いてくださったと感じたことがある。それはなんと最も弱い数字に関わる場面で教会会計に関してであった。意見が取り上げられ、結果は想像を超えて教会の必要が満たされた。その場での発言が皆の祈りと御言葉への信頼で願い以上に超えて主が答えてくださったのである。まさしく空からとめどなく降りしきる雪のように、上から来たものであった。

「賜物」とはこうしてくると思った。降り積もった雪の下には焦土や被災の瓦礫が隠れているように、私たちの内には、生い立ちなどからくる闇との無意識の闘いや、他者から見ると危なっかしいほどの性格上からくる弱さが日々圧倒する苦しみの残骸がうず高く積まれている。しかし上からくる「賜物」で、主は僕として待っていたとばかり用いてくださる。上から降る賜物から逃げることはできない。苦難の僕、主は、死を超えて復活の命という賜物に変えてくださるのだから。

「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」エフェソ3:20

 

 驚くべき「当たり前」       教会員

午後の昼下がり、トランプや絵あわせゲームに興ずる方、童謡のDVDに合わせて口ずさむ方、熱心に刺し子を縫う方、横になって仮眠を取る方…私の勤めている高齢者デイサービスの昼食後の光景です。しかし中にはちんまりと座ったまま何かに興味を示す事のない方も。ある日、そのような何人かにケアスタッフが「大人の塗り絵」を持ってきました。私も気になっていた方の所へ塗り絵と色鉛筆を持って行き「塗り絵をしてみませんか?」と声をかけると、ニコニコと頷きながら受け取られました。しばらくしてその方を見ると、塗り絵と色鉛筆を前に相変わらずちんまりと座っておられる。やっぱり興味なかったのかな…と思っていると、「あの方はね、色鉛筆のふたを開けてあげて、ここは何色にしましょうか?青が良いですか?はい、じゃあこの色鉛筆をどうぞ…って手に持たせてあげると塗り絵を始められるのよ。」とケアスタッフが教えてくれました。そしてケアスタッフがそのように声かけすると、その方は色鉛筆を動かし始めました。「塗り絵を見て、どこを塗ろうか考えて、色鉛筆のふたを開けて、たくさんある色鉛筆の中から一本の色を選んで、取って、そこに塗る…これって実はすごく複雑な事なのよ。料理とかもそうなんだけど、人って当たり前のように実はすごい事をいつもしてるのよ。」と先のケアスタッフが教えてくれました。料理は相当な脳トレだと聞いてはいたけれど、この瞬間、神様がお創りになった、当たり前のように複雑な行程を経て何かの行動をしている人間、凄すぎるではないか!と感動してしまいました。

これまでの私は、スチュワードシップ月間になると、自分は神様のご用のためにどんな事ができるだろうか、自分は神様からいただいているものをきちんと管理出来ているだろうかと、自分で自分を評価していました。

しかし待てよ。私に何が出来るかの前に、私が神様からいただいているとても複雑な「当たり前」の凄さといったら。例えば朝、手足を使って起き上がり、天気予報を見て今日着るのに丁度良い服を選んで組み合わせて着る。例えば何かを書く、それは箱の表記なら太いペンで大きめに、ハガキならお気に入りの書きやすいペンで小さめに。もう数え出したらキリがない!朝から晩までそんな凄い「当たり前」をしていることに気づいたので、今年のスチュワードシップ月間は、まず私自身を神様に感謝して、神様の召しに静かに耳を澄ませようと思います。

「神よ、わたしの魂はあなたを求める。」詩編42:2

協力伝道の豊かな恵み

「協力伝道」という言葉は聖書にはないが、教会間の協力ということは、使徒言行録の中に見つけることができる。エルサレム教会は、迫害を受けている中で、アンティオキア教会のために働き人を送り出し、それによってアンティオキア教会は成長した。ただアンティオキア教会は、エルサレム教会から支援を受けるばかりではなかった。ユダヤに大飢饉が起こった時、アンティオキア教会は、エルサレム教会の人たちに援助の品を送った。その支援と共に、アンティオキア教会はバルナバとパウロを送り出した。それはアンティオキア教会にとって経済的にも人的にも、大きな決断が必要だったが、聖書は、この出来事を当然であるかのように伝える。

このように使徒言行録を見ると、教会が色んなものを分かち合うということは、当たり前のことだった。働き人を派遣し合い、献金や援助という形で持っているものを分かち合った。自分の教会のことだけを考え、自分たちの仲間だけを支えるというような孤立した教会ではなかった。遠く離れて、互いの様子が伝わりづらい状況の中でも、互いに結び合わされて、協力伝道を惜しまないつながりがあった。上尾教会も連盟の協力伝道によって経済的にも人的にも多くの支援を頂き、沢山の恵みに与ってきた。その恵みに応えて、私たちの教会も協力伝道に励んでいきたい。

現在、連盟は機構改革に取り組んでいる。以前のように、経済的にも人的にも全国の諸教会を支援するという形は終わり、それぞれの教会が主体的に協力していく形へと変わってきた。今年度を含む中期(~2026年度)の主題として、「今、共にキリストを証しするために、新たな『自立と協力』」を、副題に「各個教会・地域が主体となる協力伝道へ」を掲げて歩むことになった。その主題の下、1.各個教会・地域主体の協力伝道、2.多様な声が響き合う連盟、3.協力伝道献金体制の確立、を目指す。

教会員と財政が減少し、働きを担う人材不足など諸教会・伝道所が厳しい状況に直面している現在、教会の存在自体が揺るがされている。そんな中、「協力伝道献金体制」を確立していこうとする連盟にあって、キリストを証しするために協力し合える喜びを再確認し、そこに向かって祈りを結集する必要がある。そして、共に協力伝道の働きを担い、協力伝道献金の目標額が達成できるよう、励まし合い、捧げ合っていきたい。この協力伝道週間を通して、教会・伝道所のために祈る、「祈りでつながる協力伝道」の交わりの豊かさを見出す時として、大切に守っていきたい