Author: t-fuji

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主の救いの恵みの雨

今年も、梅雨の季節を迎えた。雨が降ると体調を崩すことも多い。雨空によって私たちの行動は制限されたり、予定が変更されたり、雨に振り回されることも多い。気分的にも晴れやかにならず、何をするにしても雨の時は、ひと手間増え、体の感覚としても、まとわりつく感じを覚える。しかし、一方で雨は私たちにとって必要な恵みでもあり、雨が降らないと水不足が起きる。動植物の成長の上でも、雨が少ないことで様々な問題が起きる。雨が降ることによって得られる恵みに気付けば、雨の受け止め方も変わり、雨からも新たな希望を感じることができるのではないか。

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」ホセア6: 3。雨は穀物の豊かな実りをもたらす祝福そのものとされている。「主を知ること」つまり、天地を創造された神を信じて歩んでいく人生には、雨が、荒れ果てた地を緑に変えていくように、神が私たちの心に希望や平安を芽生えさせてくださると約束している。

更に主イエスはこう約束された。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38。主は、心に渇きを覚えている人に、「渇いている人よ、いつ降ってくるかわからない雨を待つのではなく、あなたの心の奥底から生ける水の川が湧き出るようにしてあげよう。」と約束してくださった。それは、「わたしを信じる者は」とあるように、「イエス様、わたしはあなたを救い主として心に迎え入れ、信じ生きていきます。」という告白だけでよいのである。

主の救いの恵みの雨は誰でも求めれば、いつでも与えられる。しかし、努力することが美徳だと考える日本人には、なかなか理解できないことかもしれない。私自身も気付くと、「もっと頑張らなければ」とか「思った通りになってないのは、自分の努力が足りないからだ」と考えてしまうところがある。しかし、主の救いの恵みを受けるためには、「Try(努力)」ではなく、「Trust(信頼)」が必要である。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソ2:8-9。主が与えてくださる「生きた水」こそ、渇いた心に真の希望、平安、喜びをもたらしてくれるのである。主の救いの恵みの雨に与りたいものだ。

聖霊が降ると、主の証人となる

「ペンテコステ」は、「50番目」を意味するギリシャ語で、イースターから数えて50日目にあたる。ペンテコステの日に何が起こったのか。使徒言行録2章によると、弟子達の上に聖霊が降って、主の救いを大胆に語り出し、そこに集まった人々が主を信じ、教会が誕生した。そこには様々な国から来た人々がいたが、聖霊の働きによって、様々な言語で福音が語られ、皆の心が通じ合った。それは今日にも言える。聖霊が降る(働く)時、生い立ちも性格も考え方も生き方も違う一人ひとりに、主を信じる信仰が与えられ、その結果、皆の心に一致が生まれるのである。

現実の社会には、人を傷つける言葉や人と人とを引き裂く力が溢れている。お互いの間に敵意が生まれ、差別や争いが起こり、人権や命が無視されていることのなんと多いことか。その背後で、悪霊が働き、人々の間に「分断と報復」をもたらしている。しかし、ペンテコステの日から、神と人、人と人とが一つに結ばれ、互いに理解し合い、尊重し合う歩みが始まった。聖霊が降る所では、どこでも罪の赦しと和解が起こる。聖霊の働きは、人々の間に「一致と修復」をもたらすのである。

聖霊はたった一人に降ったのではない。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」使徒言行録2:1とある。この集まりの上に聖霊が降った。教会が礼拝を大切にするのは、そこに聖霊が降って、互いの違いを超えて一致することができるからだ。一緒に礼拝を捧げる時、他者との壊れた関係も再び修復することができる。「すべての人を一つにしてください。」ヨハネ17:21と祈られた主は「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2:16。それ故、ペンテコステの日に、主は私たちに和解の務めを委ねてくださった。

聖霊が降っても、聖霊の力に与っているとは限らない。聖霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22‐23を結んでない自分を見ることはないか。その時、自分には聖霊がまだ降っていないと思い込んではいないか。しかし、聖霊はすでに私たちに降ったのである。だから「聖霊に満たしてください」と祈って、聖霊の導きに従って前進すればよい。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」使徒言行録1:8。聖霊の力を受ける時、もはや恐れることなく、大胆に主を証しすることができる。

 

神が共にいてくれるから大丈夫!

先週より、聖書日課は『ヨシュア記』に入った。この書の前半はカナン征服の話、後半はカナンの地の分配について語る。モーセの後継者として立てられたヨシュアに与えられた主の言葉は、「強く、雄々しくあれ。」ヨシュア記1:6であった。この言葉は何度も繰り返されているので、私たちも「強く、雄々しく」生きなければならないと思うのではないか。私も青年時代、教会学校の子どもたちと一緒に、「雄々しくあれ 強くあれ 少年たちよ 神さまはどこにでも 共におられる われらを倒して 負かすものはない 雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ」とよく賛美したことを思い出す。そこには、どんな辛いことにも負けないで、「強く、雄々しく」生きなさいと、自分たちを奮い立たせていたように思う。しかし、この主の言葉は、自己鼓舞への勧めではない。

ヨシュアはイスラエルの民を率いるモーセの苦労を傍で見てきた。あの偉大なモーセのように自分がこの不信仰な民を導いていけるだろうか、ヨシュアは自分に与えられた使命を十分に果たす力がないことを知って、恐れたに違いない。しかし、神は私たちの弱さのうちにご自身の力を現わされる方である。ヨシュアが自信満々で恐れを知らなければ、モーセの後継者として選ばれることはなかったであろう。

この世においては、最も有能な者、最も強い者が生き残ると教えられる。しかし、神の世界では強い者ではなく、弱い者が用いられる。神に用いられるためには、強くなる必要はない。自分には何ができるだろうかと恐れを抱く者を神は用いてくださる。なぜなら、神は弱い者に力を与えられるからである。パウロも、神は「世の無学な者を選び・・世の無力な者を選ばれました。」Ⅰコリント1:27と語る。私たちに求められたことは、神が共にいて全ての道を開いて導いてくださると信頼することである。

「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもない。」ヨシュア記1:5「神が共にいてくれるから大丈夫!」だからヨシュアは「強く、雄々しくあれ。」との主の言葉に応えて生きることができた。主の弟子たちが迫害に遭いながらも、恐れることなく大宣教命令を達成することができたのはなぜか。それは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20と主が約束されたからである。メソジストの創立者ジョン・ウェスレーの最後の言葉は、「最もすばらしいことは、神が共にいてくださること」であった。これに勝る祝福はない。神が共にいてくれるからこそ、「強く、雄々しく」生きることができるのである。

 

父と母を敬う

母の日は、100年以上前に、米国の教会から生まれた。長年、教会学校の教師をしていたアン・ジャービスさんが1905年に召天し、娘のアンナ・ジャービスさんが、母親の記念会で、母を敬う気持ちから白いカーネーションを参列者に配った。その話に感動したジョン・ワナメーカーさん(百貨店王)が、自分のデパートで母の日のイベントを行い、これが全米に浸透していくことになり、1914年の連邦議会で、5月の第二日曜日を母の日と定めた。ちなみに日本には、宣教師から伝えられ、森永製菓が1937年、豊島園で母の日のイベントをしたのが全国的に広まるきっかけになった。ともかく母の日は教会から始まり、しかも「十戒」の第5番目の戒めである「あなたの父母を敬え。」出エジプト記20:12という教えがその基になっていた。

「十戒」には、人が神を愛し、人が人を愛して生きていくための方法が10の戒めにまとめられている。昔ユダヤにおいて、家庭という場所は神の言葉を教える所で、「父と母」は子どもたちにとっては、神から与えられた教師であった。ユダヤ人は「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という考えを持っていた。だから、「父と母を敬う」ということは、現代の私たちが考えている以上に大切なことであった。

現代は、「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という側面が軽んじられているのではないか。しかし、母親は、生まれて最初に出会う人であるので、子どもをしっかり抱きしめて、愛情を注ぐなら、「母親が大事にしている信仰を、私も大事にしたい」という子どもが育つのではないか。「父と母を敬う」ことによって、子どもは真の愛を知る。子どもは、父と母を敬うことを通して、神と他者への愛を育んでいく。

聖書は、両親を敬うばかりでなく、年老いた両親を世話することも命じている。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」Ⅰテモテ5:8。私は従兄弟から、「子どもにお世話になります、と日頃から言っておくことが大切よ」と勧められたが、その通りで、子どもに遠慮することはない。この「父と母を敬う」というのは、自分の両親だけに留まらず、広い意味では、周りにいる年長者をも含む。教会は神の家族である。地上では肉親はいなくなっている方も、教会には神の家族がいる。そういう意味では、教会の中には敬うべき方々が、世話をすべき方々が大勢いる。母の日をきっかけに、両親を敬い、年長者を敬う心を新たにし、家族の絆をよりいっそう深めていきたいものである。

子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜び

上尾教会のミッションステートメントに、「わたしたちは、神の栄光をたたえて、こどももおとなも一緒に礼拝を献げます。」と掲げた。それは、子どもが礼拝に出席するだけではなく、自分の賜物を用いて礼拝に参与することである。礼拝の中で奉仕を担うことによって、自分のからだをもって神の栄光を現すことができる。主を乗せたロバの子のように、主のお役に立てたことを喜び、主のために生きたいという信仰告白に導かれることだろう。幼い頃は、礼拝中ぐずることもあるかもしれないが、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」Ⅱコリント6:2と信じて、一緒に礼拝を献げたい。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。この詩編は、「都に上る歌」とあるので、礼拝者の心境を歌ったものである。「見よ、子どもたちが共に礼拝を献げている。なんという恵み、なんという喜び。」と読み替えることもできる。子どもたちと一緒に礼拝を献げることによって、他では経験することができない恵みと喜びを経験することができる。その恵みと喜びを、ここで紹介したい。

まず、子どもの成長を祈り、見ることができる。献児式に始まって、子ども祝福式、成人祝福式、そして様々な証しを通して、成長している姿に深い感動を覚え、成長させてくださった神へ感謝が生まれる。又、主の御前で、和解の福音に共に与る時、赦し合う者へと変えられる。子どもにとって、親は煙たい存在かもしれない。自分のことをわかってくれない親に、失望するかもしれない。些細なことで親子喧嘩が起こり、放蕩息子のように家出したくなるかもしれない。しかし、礼拝を一緒に献げる中で、こんな罪深い私たちのためにも主が十字架にかかってすべての罪を赦してくださったことを知り、相手を責める心ではなく、赦す心が生まれてくる。

そして、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びは、家庭の中にも賛美や祈りとなって満ち溢れていくことを経験できる。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことが楽しいひと時になったら素晴らしい。「親子聖書日課」で信仰が養われていくうちに、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ヨハネ6:27という主の言葉に応答して生きる生き方へ導かれるだろう。子どもたちは御言葉を吸い取り紙のように吸収していくので、幼い頃から、子どもたちと一緒に礼拝を献げる恵みと喜びを見出していきたい。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ8:10