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スチュワードシップ~奏楽編~      教会員

昨年から上尾教会の奏楽グループに新メンバーが加わってくれた。私の「そういえば、ピアノ弾けたよね?奏楽やってみない?」との無茶ぶりに、「いいですよ」と即答してくれた。感謝である。現在、さらに1名が常連奏楽者になるため準備中である。期待しつつ、皆さんにはぜひ祈りに覚えていただきたい。

奏楽者にとって一番大事なことは、神様への賛美を心からささげる姿勢だと思う。もちろん最低限の技術は必要だが、奏楽にチャレンジしてみることで、神様はその賜物をさらに豊かに用いてくださる。ソロで弾くのとは違って、皆さんの声を聴きながら弾くのは少々コツがいるが、やればやるほど会衆の呼吸が分かるようになってくる。これが奏楽の楽しいところである。

先日、名古屋の瑞穂教会から奏楽者研修の講師依頼があり、zoom(オンライン)で開催した。まず奏楽者としての心得を話し、その後実践とアレンジ紹介をした。コロナ禍ということもあり、直接会ってというわけにはいかなかったが、カメラで鍵盤を映し出してなんとか共に学ぶ機会を持つことができた。遠く離れた場所にも、教会音楽にこんな熱い思いをもって取り組んでいる仲間がいるのだと、とても励まされた。また、オンラインであれば、距離の問題をクリアできるので、今後は教会の垣根を超えた奏楽者の学び会や懇親会も可能なのではないかと思った。今まで私が培ってきた技術や、上尾教会での経験が奏楽者の育成に役立てるとなれば、それは本望である。ぜひ、神様には私の賜物を存分に使っていただきたいものだ。

奏楽はなにもピアノやオルガンといった鍵盤楽器に限定されるものではない。聖書の中にも琴、ラッパ、シンバル、角笛など様々な楽器が登場する。現に、上尾教会でも深沢姉がデジタルホーンで奏楽を担ってくださっている。先ほど紹介した瑞穂教会でもハープやトロンボーンが礼拝の中で用いられていると聞いた。もちろん私たちの声も教会音楽には欠かせない。歌声のいいところは、なんといっても「言葉」を表現できることである。現在はコロナ対策でマスク着用のため、なかなか声が響かない状況であるが、神様のところにはしっかりと私たちの歌声が届いていることだろう。以前のように、通称「心の中のメロディー」の時間を復活させて、コイノニアコンサートやクリスマスの行事を再開できる日が待ち遠しい。コロナの収束を祈りつつ、賛美で溢れる毎日を過ごしていきたい。

コロナ禍の中で part Ⅱ           教会員

「お元気ですか?」とりあえずの挨拶の定型文、何気ない会話の始まり…だと思っていた。この一言がこんなに重く大切な言葉だったとは。昨年の今頃、コロナ騒動の火蓋が切って落とされたのだと、誰が想像しただろう。そして、まぁ一年も経てばいろいろ落ち着いて、泣く泣く延期した行事もできるだろうと考えていたことが、とんでもなく甘い考えであったと思い知るのである。

世界中の人がもれなく見舞われているコロナウィルスの恐れだが、そんな中で世の中のオンライン化は目覚ましく、その浸透ぶりに人間のたくましさを感じる。私自身、北関東連合の教会音楽委員会も、神学校の公開講座もその他諸々、zoomで参加している。最初はおっかなびっくりだった私が、今やそれなりに使える成長ぶりだ。

先日、その教会音楽の公開講座で大きな気づきが与えられた。今、飛沫感染防止のために讃美歌を歌うことについて様々な工夫がなされている。歌わずに奏楽を聴きながら歌詞を味わう、または司式者が歌詞を読む、讃美歌の節を減らす、小さな声又はハミングで、等々。教会に行くこともままならず、思い切り賛美できない寂しさを訴える声がある中で「コロナ禍における賛美」の講義では

・賛美は自分が楽しむため? ・賛美は声で歌うことだけ?

・歌う事が苦痛な人もいるのではないか? という視点が示された。

讃美歌は歌うことが大前提、歌って主を賛美することはみんなが求めるうれしい事と思っていた。しかし讃美歌の大前提は「神様を讃える」ことであって「私の満足」のためではないのだった。そして私の中に歌う事が苦痛な人への思い至りが全くなかったことに愕然とした。オンリーワンの個性は神様からの贈り物。だとしたら「賛美」一つとってもいろんな捧げ方があって良いのだと気づかされた。これは今まで「歌う」事が辛い人を置いてきぼりにしてきたということだ。

コロナ禍を肯定的には捉えられないけれど、変化を恐れずなんとか礼拝を捧げよう、神様を賛美しようと手探りでやってきた足跡と置いてきぼりの事柄に気づけたのは、これからの礼拝をより豊かにいろんな人と繋がっていく大切な一歩の種であり、この種の「良い管理人」になる使命が私たちにはある。

「神はこの歴史の流れをみこころのうちにおいておられるのである。(略)われわれにとっては生き方、処し方が問題である。」榎本保郎著『一日一章』より

コロナ禍の中で          教会員

コロナウイルス感染拡大が、依然として止まらない。自覚症状のない軽症者も多いが、在宅治療者があっという間に死亡に至るケ-スもある。私たちにできる対策として三密の回避、マスクの着用、こまめな換気、手指消毒、ソーシャルディスタンスの実施等が奨励されている。これらのことを実行しながらも、感染の恐怖、いつ終息するのか予測できない不安に怯える。一緒に食事をしたり、思いっきりおしゃべりをしたり、笑いあったり、人間としての基本生活が制限され、人間関係の希薄化が生じているように思う。

一月のミニアシュラムで、講師の岩波先生はマタイによる福音書2章から、イエス・キリストの誕生の出来事を通して、人間は二つの心に分かれると話された。一つはヘロデ王の心。自己保身に固執し、不安と恐れから悪事を遂行してしまう生き方。もう一つは神の言葉の真実に従う生き方。占星術の博士たちのように御子との出会いを求め、旅の不安や恐れを乗り越え神の導きに従った時、そこには、感謝、喜び、賛美があふれていた。両者の何という違い。しかし、現実の私たちは神を信じつつも、時として不安や恐怖にかられる。神の言葉に聴くよりも自分の努力で何とかしようと思ったり、様々な情報に惑わされてしまう。感染者の日々の数だけに関心がいくと絶望か諦めしかないように思ってしまう。

光を創造し、闇を創造するのは神である。すべてを創造し御業をなすのは神である。神のご計画の中では人間は小さな有限の存在にすぎない。このような状況の中でも教会で礼拝をささげ、祈禱会で祈りを合わせ、日々聖書のみ言葉に聴くことのできる幸いに感謝したい。ウイルスを恐れず、神を畏れ、現実を受け入れつつ、いつも通りの信仰生活を全うしたい。恐れや不安に右往左往するのではなく、真実の神を畏れ、神の御業を待ちつつ、希望をいだいて歩みたい。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」                   ヨハネによる福音書16章33節

信仰の習慣を大切に!

先週の祈祷会は、「ダニエル書6章」を学んだが、苦難の中で、信仰者はどのように生きたらよいか、大きな示唆を与えられた。ダニエルがメディアのダレイオス王から大変気に入られたことを快く思わなかった他の大臣たちは、何とかダニエルの欠点を見つけ出し、彼を今いる地位から引きずり降ろしたいと企てた。30日の間、王以外の者に願い事をする者があれば、その者は獅子の洞窟に投げ込まれるという法律を彼らは作った。王は、大臣たちのダニエルに対する企みを知らずにいたので、すぐに了解した。一度、王が署名するとその法律を変更することは不可能であった。

ダニエルはこれらのことを知ったが、礼拝を中止することはなかった。自分が神に祈り、賛美する姿を見られたならば、自分は獅子の洞窟に投げ落とされ、食い殺されるということを知っていた。しかし、ダニエルはたとえ命が脅かされるとしても、変わることなくいつも通りの信仰に生きた。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」ダニエル書6:11

この「いつものとおり」とは、「習慣」と言い換えることもできる。「習慣」は、英語で「ルーティン」と言うが、ラグビーの五郎丸選手がキック前に毎回、手を合わせてルーティンしていたことを思い出す。決まった時に、決まった事を順番通りにしていく、それは私たちの信仰生活にとって大切なことである。その習慣が何かの拍子に崩れてしまうならば、それは大きな危機を招く。ですから、信仰生活は何か特別なことをするということではなくて、いつものように、いつも通りのことをすることである。

主も十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園で祈られたが、そこは「いつものようにオリーブ山に行かれ」「いつもの場所に来ると」ルカ22:39‐40、ひざまずいて祈られた場所である。コロナ禍の中でも、私たちは主日礼拝に集い(或いは、Webで参加)、週の半ばに祈祷会に集う。又、毎日静聴の時を持つ。これらの事は、わざわざ手帳に書き込まなくても、体と頭が覚えているものである。信仰生活における習慣は、大したことはないと思うかもしれないが、決してそうではない。一見、余り目立たない、地味なようなものであっても、その生き方を生き抜く時、そこには真の信仰の強さが生まれ、大きな価値を持つのである。苦難の時にも、いつも通りのことができるのは、日頃からの信仰の姿勢にかかっていると言える。信仰の習慣を大切にしたい。

たゆまず祈る!

昨年の今頃、発生した新型コロナウィルス感染症は、私たちの予想を超えて終息の傾向が見られないどころか、更に拡大を見せている。第三波が11月頃から訪れ、各地で入院もできないという医療崩壊も起きている。ワクチンが行き渡るのは、まだまだ先のことであるので、コロナが終息するまでには、長い年月がかかるであろう。

その中で、教会がなすべきことはないか。パウロは、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ12:12と語る。まず「希望をもって喜ぶ」とは、どういうことか。パウロは、相手が苦難の中にあることを知っていた。その中で、喜ぶことなどできないことも知っていた。それでもなお「喜びなさい」という。信仰者に与えられている喜びは、幸福であるが故の喜びではない。現在目に見える喜びがあるから喜ぶのではなくて、将来、希望における喜びが与えられることを見つめる喜びである。「神の栄光にあずかる希望」ローマ5:2、これこそが信仰者の喜びの根拠である。つまり、あなたは主によって、その希望が与えられていることを喜びなさい、という。

パウロにとっての苦難とは、迫害を意味した。私たちの人生には、貧困・病・人間関係・仕事など多くの苦難がある。特に、コロナ禍において、それらの苦難が顕著に表れてきている。では、この苦難をどう耐え忍んだらよいのか。「耐え忍ぶ」という言葉は、「あるものの下に留まる」という意味である。苦しみの下にしっかりと留まって、そこで生きることである。それは、その苦しみが神から与えられたものとして受け止めて歩むということでもある。神は最終的には私たちを全ての苦しみから救い出し、復活と永遠の命を与えてくださる。そのことを信じて生きるならば、私たちは人生の様々な苦難においても、そこに留まって、忍耐強く生きることができるであろう。

希望において喜びつつ、苦難を忍耐しつつ生きる歩みは、主に祈りつつ、つまり主との交わりに生きるところにこそ与えられる。それ故に、「たゆまず祈る」ことが大事である。「たゆまず」とは「継続する」という意味である。私たちは、祈っても現状は変らない、だから祈っても仕方がない、と諦めてしまうことはないか。しかしそれこそがまさに、信仰における希望と喜び、そしてそれに基づく忍耐を失ってしまう原因である。なぜなら祈りを失うことによって、私たちは神との交わりを失うからである。「たゆまず祈る」ためには、私たちの心が、いつでも、何をしている時にも、神に向かって開かれ、神の御前で、神と共に生きることを意識することから始まるのである。