Month: 10月 2023

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新しい神殿こそ、目指すべきもの

本日、会堂24周年を迎えた。会堂がいつの時代も立ち続けることを願うが、エルサレム神殿は3度も建て直されたので、何を目指して立ち続けるのか問い質したい。最初の神殿は、ソロモン王によって紀元前958年に起工し、7年半かかって完成した。しかし、紀元前586年、バビロニア軍によって南ユダ王国が滅亡し、神殿は破壊された。バビロン捕囚が終わり、民は帰還し、紀元前515年、神殿は再建された。その神殿は、ソロモンの建てた神殿とは比較にならないほど貧弱であった。しかし、預言者ハガイは神殿再建の希望を語る。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。」ハガイ2:9。民が心を込めて献堂する礼拝堂に満ち溢れるものは、「神の平和」であった。

ヘロデ大王が紀元前20年頃から、神殿を拡大し、壮麗な神殿に建て直した。しかし、主はこの神殿が崩壊することを予告した。紀元70年、ローマ軍によって徹底的に神殿は破壊され、外壁だけが残された。「嘆きの壁」は、長きにわたり、人々が壁に手や額を当てて祈りを捧げ続けてきた。これまで無数の人々が神殿の破壊を悲しみ、幾多の苦難を経験する中で、嘆きの壁は、神に祈りを捧げるしるしとなった。

当時の神殿の構造を見ると、神殿の最も外側に「異邦人の庭」、その内側に「女性の庭」、「男性の庭」、「祭司の庭」、最も奥に「至聖所」があった。男性の庭には、ユダヤ人の男性しか入ることができず、異邦人も女性も病人や障がい者も入ることはできなかった。一般の信徒と祭司たちの間にも区別あり、聖所には祭司、至聖所には大祭司しか入れなかった。 当時の人々からするとその「区別」は先祖伝来の伝統であったのかもしれないが、現代の私たちの視点からすると、「差別」に他ならない。

神殿の崩壊を予告された主は、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ルカ21:6と言われた。主はここで、「新しい神殿」が建てられることを示唆された。その新しい神殿は、主ご自身と主の体としての教会と受け止められるが、この新しい神殿において、人の手で作られたあらゆる「壁」が打ち壊されていくのである。国と国とを隔てる壁、男性と女性を隔てる壁、いわゆる健常者と障がい者を隔てる壁、そして人間と神を隔てる壁が主の十字架によって取り除かれ、様々な違いを超えて、全ての人が共に祈ることができ、一人ひとりが、神の愛の中で、自分らしく生きていくことができるのである。

御言葉を行う人になりたい

先週の「第27回埼玉一日アシュラム」において、御言葉から新たな恵みを頂くことができた。その時、御言葉の「静聴の時」を一時間ほど持った。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」フィリピ1:21との主題聖句に心を傾けながら、フィリピ書全体を黙想していく内に、自分の日々の生活がいかに主の御心に適ったものでないか、自らの不信仰が示されたと共に、「いついかなる場合も対処する秘訣」を主から授かっていることを知り、御言葉に聴従することの大切さを再確認した。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」ヤコブ1:22。御言葉を聞いて、その真理を理解しただけでは不十分である。むしろ、聞いたことを、実行に移すか否かに一切がかかっている。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22:39という戒めを、日々の生活で実行することである。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」ヤコブ2:17と指摘する。

東京の妙円寺というお寺の掲示板にこんな言葉があった。「言っていることではなく、やっていることが、その人の正体」。確かにそうだと思わせられる言葉である。その人が言っていることではなく、その人がやっていることにこそ、その人の内実が現れるというのは、もっともなことである。言葉だけになって、実際の行動が伴っていないことは、私たちにもよくあることではないか。どれだけ立派で正しいことを言ったとしても、どれだけ道徳的なことを言ったとしても、その人が身近な所で誰かを軽んじたり、誰かの尊厳を傷つけたとしたら、それらの言葉は虚しく響くだけのものになってしまう。そして、「言っている」ことと「やっている」ことが違うと信頼を失い、「あの人のようにはなりたくない」という反面教師のレッテルを張られるだろう。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」マタイ7:17-20。「実」とは、その人の実際の振る舞いや生き方を指している。「言っていることではなく、やっていること」である。行動の果実にこそ、その人の内実がはっきりと現れる。果実を見ればその木が何の木か分かるように、その人の「やっていること」を見れば、その人の本性が分かる。「生きるとはキリスト」私たちは御言葉を聞くだけで終わるのではなく、行う人へと変えられたい。「行いの伴う信仰」に生きたいものである。

ぼくらの世界~私から始めるアクション

上尾教会では、「世界食料デー」の働きを礼拝の中で覚える。募金を送る「日本国際飢餓対策機構」の案内に、「ぼくらの世界では、今・・2020年以降のパンデミックにより、世界中で経済状況が悪化し、特に途上国の社会的・経済的に脆弱な状況下で暮らす人々は厳しい生活を強いられてきました。それに加えて、昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻は食料・肥料・燃料等の価格高騰を招き、世界の飢餓状況は更に深刻化しています。紛争や自然災害で深刻な食料不足に陥った人々は、2022年に過去最多となりました。」とあった。

世界の人口は80億人を超えたが、その内8億人が飢餓で苦しむ。それは世界の人口の10人に1人に当たる。又、食料が不足している人口は、23億人に達している。その原因は、穀物が不足しているからではない。世界では、穀物だけでも世界中の人が生きでいくのに必要な量の倍近く生産されている。それなのに世界の飢餓人口は減るどころか増え続けている。その原因は、気候変動や環境問題、戦争や内戦、コロナや疫病などと言われているが、飢餓の原因の根底には、人間の貪欲さがある。

神学者のボンヘッファーは、「誰かが自分のパンを自分のためにだけ取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の掟である。」と警告を鳴らす。飢餓状態にある子どもの80%は、食糧を生産している国の子どもたちである。輸出用の食糧を生産している隣りで、食べることすらままならない状態で毎日飢えをしのいでいる子どもたちが大勢いることに心を向けたい。日本国際飢餓対策機構の標語に、「私から始めるアクション」とあったが、そのために私たちにできることは何だろうか。

日本では、食べられるのに捨てられる食品「食品ロス」の量が年間523万トン、日本の人口1人当たり毎日おにぎり1個を捨てている計算になる。又、世界の食料廃棄量は年間13億トンで、生産された食料のおおよそ3分の1を廃棄している。食料を大量に生産、輸入しているのに、その多くを捨てている現実がある。多くの食品ロスを発生させている一方で、7人に1人の子どもが貧困で食事に困っている。

「食品ロス」を減らすための小さな行動も、一人ひとりが取り組むことで、大きな削減につながる。例えば、買物時に「買いすぎない」、料理を作る際に「作りすぎない」、そして「食べ残さない」。愛は、相手に関心をもつことから始まる。私たちは、自分に与えられたパンを、自分のためにだけ取っておこうとするのではなく、他者のために用いていきたい。「受けるよりは与える方が幸いである」使徒言行録20:35

 

種を蒔く人

AI(人が実現する様々な知性を人工的に再現するもの)を使えばすぐに最適な結果が得られる、すぐに最善の答えが得られると、どの世界でももてはやされている。又、「即効性」を謳う本がたくさん並んでいる。「5分でわかる」とか「たちまち効果が出る」とか、「この一冊を読めばすべてが分かる」とか。そのような謳い文句を目にすると、つい手に取ってみたくなるのではないか。しかし、それだけ私たちの日々の生活において、余裕が失われていることの表れであるのかもしれない。ゆっくり待つ、じっくり考えてみる、そのことに耐えうる力が失われてしまっている。

精神科医・小説家の帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)さんの表現を借りると、「答えの出ない事態に耐える力―性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を養うことである。コロナ禍の3年半、私たちは様々な困難に直面し続けてきた。その中で、私たちはすぐには答えが出ない、難しい状況に直面した。そのような中で、「急がず、焦らず、耐えていく力」の必要性を実感した。問題を今すぐに解決できなくても、何とか持ち応えていく力、それが私たちが生きていく上でもっとも大切な力であることに気づかされてきたのではないか。

同じように、神の言葉は私たちにとってすぐに理解のできるものではない。聖書を読んでいても、むしろ不可解な言葉、よく分からない言葉の方が多い。たとえすぐに意味は分からなくても、答えは出なくても、その言葉を大切に心に留め、思い巡らしていく姿勢が大切である。実を結ぶまでには時間がかかる。しかし、きっと実を結ぶ時が来る。いつか必ず、収穫の時が来る。その信頼を私たちの内に新たにしたい。

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」詩編126:5-6。

私たちは一人ひとり、人生において、「種を蒔く人」である。私たちはそれぞれ、日々懸命に、まだ見ぬ明日に向かって、種を蒔き続けている。種が芽を出し、実を結ぶまでには時間がかかる。すぐには結果が出ることは少ない。失敗が続き、時には、泣きながら種を蒔くこともある。しかし、いつかきっと喜びの日、収穫の時が来る。もしかしたら、生きている間には結果が出ないことがあるのかもしれない。でもいつか、喜びの歌と共に実った穂を刈り入れる日がくる。私たちが涙と共に蒔いてきた種を、神は御心のままに用いてくださる。私たちにはその希望が与えられている。

 

収穫の主に願いなさい

収穫の秋を迎えたが、伝道においてはどうだろうか。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ルカ10:2.と、主は私たちに、伝道においても「収穫は多い」と約束してくださった。「収穫は多い」つまり主による救いを受け入れ、信じる者がたくさん与えられるという。別の言い方をすれば、伝道は決して徒労に終わらない、ということである。しかし、私たちは、今、伝道が停滞していて、収穫はむしろ少ないように思えるのではないか。

最近、連盟事務所より「2022年度の教勢報告書」が送られてきた。全国316教会・伝道所の教勢一覧が記されているが、残念なことに、どの項目(現在会員、受浸者、礼拝、祈祷会、教会学校、献金)も減少の一途を辿っていた。ただ、召天者だけは増えていた。この傾向は、この10年に顕著に表れ、今後もこの傾向が続くことが予測される。それは連盟だけではなく、キリスト教界全体に見られる傾向である。

この伝道が実を結ばないことへの落胆は、本当は見当違いなものである。なぜなら私たちは自分の力で伝道の実を結ばせるのではない。私たちが畑を耕し、種を蒔き、世話をして育て、実を結ばせるのではない。その全てをしてくださるのは「収穫の主」である神である。その神が畑を耕し、種を蒔き、世話をして成長させてくださり、実を結ばせてくださる。私たちがするのは、その実りを刈り入れるだけである。

「収穫は多いが、働き手は少ない」とは、その豊かな実りを刈り入れる「働き手」が少ないということである。しばしばこの「働き手」は牧師のことであり、だから「収穫のために働き手を送ってくださるよう」に願うとは、神学校に行く献身者が起こされるよう祈り求めることだとされてきた。しかしそれだけではない。それにも増して、信徒一人ひとりを収穫のための働き手として用いてください、と祈り求めることである。

私たちのなすべきことは、自分の力で実りを増やすことではなく、すでに実っている豊かな実りを刈り入れることだけである。だから私たちは落胆するのではなく、「収穫の主」が豊かな実りを結ばせてくださっていることに信頼し、自分自身が経験している主による救いの恵みを証しし、又、神の国の福音を伝えるために用いられることである。よき「働き手」になるためには、学びや訓練が必要である。そのために、神学校の学びは大変有益である。今、神学校は、ライブやビデオで、いつでも、どこでも学べる。私たちは「収穫のために働き手」となって、収穫が多いことを実感したい。