2年前から東京バプテスト神学校で聴講生として学ぶ機会が与えられている。マンネリ化している信仰生活が、少しでも豊かになればとの思いから学び始めた。様々な角度からの学びは、時には混乱や消化不良をおこしながらも楽しい学びの時である。神による創造から始まり-イスラエル-イエス・キリスト-教会-終末と神を主役とする神の物語は続いている。私たちは教会時代に生かされている。教会の目的は神の宣教、福音宣教の業に仕えること。ここで私はこの目的にそった教会生活を送っているのだろうかと考えさせられた。毎週、礼拝・祈祷会に出席できることは感謝なことだが、そこにある種の居心地のよさを見つけた状態のままではないかと。教会が居心地の悪いのは困るが、目的を見失ってはいけない。
神学校での学びを通して、絶対者なる神の存在を改めて思う。救い主イエス・キリストの存在を改めて思う。聖霊の働きを改めて思う。私たち一人ひとりは、かけがえのない特別な存在ではあるが、相対的な限りある存在である。この限りある生をいかに生きるか。私の心には今、二つの言葉が響いている。一つは多様性、もう一つは共にである。神から与えられた多様性を喜び、共に生きること。簡単なようで実は難しい。偏見や自己中心的な考え方からできるだけ自由になること。人とのつながり、会話を大事にすること。コロナ下でZoomのような伝達手段は普及したが、対面の関係は希薄になっている。神によって生かされている互いの存在を共に喜び合うこと、それは互いの祈りへと続く。教会に連なる一人ひとりが輝いて生きたら、それは福音・宣教の業につながっていくのではないのか。
今、教会ではスチュワードシップ月間で、神からいただいた賜物を再発見し、いかに用いていただくか、巻頭言や証を通して分かち合いがなされている。いろいろ教えられることが多い。難しい神学的解釈はともかく、イエス・キリストはどのように生きたのか、誰と共に歩んだのか、信仰の原点はそこにあると思う。多様性を喜び、様々な人々と共に歩んだ人生だったと思う。
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」フィリピの信徒への手紙2章2節