担える「働き」を 教会員
例年2月から3月に「スチュワードシップ月間」のテキストとして用いていた『神の同労者』を開くのも何年ぶりだろうか?。各週の教会員の証に、テキストのどの章が当たるだろうか?あそこは苦手だな…など考えていたことを思い出す。テキスト各章(時間、からだ、賜物、献金…)一巡したかと思うが、“教会の奉仕”というと、時としてそれが義務的な重荷に感じてしまったことも過去にはあった。それは、一つ一つの働きを単なる責任のように捉え、何のための、誰のための働きであるかを身体で理解できていなかったからかもしれない。
各章が述べるうちの“時間”、“からだ”、これらは誰もが意識すれば同じように用いることが可能かと思うが、“賜物”となると一人一人まさに千差万別である。私に「奏楽」を…と(言う人はいないが…)いうのはまさに不可能だが、今日の礼拝献金の「総額」を計算するくらいであれば文明の利器の力を借りて、私の賜物でも可能だ。他の方より優秀であるかは不明だが、神様は私にもできる“働き”を備えてくださっている。礼拝のメッセージ、証、奏楽、賛美、祈り、、のみでは無く、トイレ掃除も教会周りの植木の剪定も、それぞれできる方が、時として目につかないところでも担ってくださっており、その結果、この教会が今日まで歴史を積み重ねてきている。そして、すべて礼拝に集う方々が、たとえオンラインしか許されない状況であったとしても“神様を賛美し礼拝する、聖書から宣教からみ言葉を聴く”という最も大切な働きに加わっておられる。これは招かれた誰にでもできることだと思う。
尚、再び読んでみて、テキスト後半で、個人のスチュワードシップのみならず、教会として、どのような働きをしてゆくべきか?についても書かれていることに改めて気づいた。教会の置かれている近隣地域社会に対して、また世界伝道に向けて、昨年の天城山荘売却など連盟の現状も認識するようになり、“教会”としての働きの大切さも考える機会となった。
主は十字架という重荷を負われ、ゴルゴタへ続く一歩一歩を進まれた。それに比べたら今の私の教会での役割は、私たちの担う働きはいかに軽いものであろうか?与えられている恵みの忠実な管理者として、自分の十字架を背負って歩めるように、聖書の言葉に常に力を受けていたいと願う。