Month: 2月 2023

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温かく元気で思いやりのある教会    教会員

去年のクリスマス、小学4年生になった長女がバプテスマを受け、上尾教会のメンバーになりました。教会の皆さんからたくさんの祝福の言葉やプレゼントをいただき、また祈っていただき、感謝の思いでいっぱいです。今後は奏楽者としての奉仕も少しずつ担っていくことになりますので、引き続き祈りに覚えていただければ幸いです。

さて今年もやってきましたスチュワードシップ月間ですが、スチュワードシップと検索すると「スチュワードシップとは、キリストを通して与えられた恵みとわざに対して、教会と人がなすべき応答」という表記がトップに出てきました。今回はこの中でも、「教会」としての働きについて感じたことを少し述べてみたいと思います。

冒頭で娘のバプテスマのことを書きましたが、娘がバプテスマを受けるに至ったのは、言うまでもなく神様の導きですが、それにプラスして、教会の方々の温かい励ましと祈りがあったおかげだと思います。教会学校や小羊会で聖書の学びがあり、祈祷会で祈られ、礼拝の中でも子どもたちが用いられてきた。教会全体が子どもたちの成長を喜んできたことが今回の娘の決心に繋がったと感じています。

近年、「子育て罰」などという子育てに対するネガティブな言葉を耳にすることが増えています。また、少子化対策として政府が打ち出す方針にはズレを感じることが多く、「産め、働け、育休中でも勉強しろ」という女性への圧力には怒りを通り越して呆れてしまいます。我が家は子どもが小さいころは夫が単身赴任でほぼ不在、近くに実家があったからよかったようなものの、一人で言葉の通じない赤ちゃんと四六時中一緒にいたら育児ノイローゼになっていたかもしれません。今でも虐待のニュースを耳にするたびに、ドキっとする自分がいます。

子育てで悩んでいる、疲れ果てている。といったお母さんお父さんは実は周りにたくさんいるのではないでしょうか。コロナの影響でプレクリスマスなどの行事ができていない現状ですが、重荷を負っている方たちがホッと一息つける場所は教会こそ作り出していけると思います。上尾教会は感謝なことにスペースも人も与えられています。地域に開かれた「温かく、元気で、思いやりのある教会」として神様から与えられた使命を果たしていけますよう、今後も祈り続けていきたいです。

つかわされた場所で      教会員

スチュワードシップについて考えたことをお話したいと思います。スチュワードシップは「管理者の働き」と訳されます。管理者とは神から任された財産を管理する者です。また、パウロはコリント人への手紙の中で、「管理者に要求されていることは、忠実であること」と伝えています。これは、自分の立場をわきまえ、主人の所有権を侵さないということです。主人は何を期待し、どのようにこの財産を運用することを望んでいるのかと、常に主人の思いを考えながら行動する管理者こそ、忠実な管理者なのです。

私たちは、時間、からだ、能力などを神の愛を証しするために用いるよう、神から託されています。プレゼントをもらった時に感謝を伝えるように、神からいただいたものへの感謝の応答として良いスチュワード(管理者)となりたいと願います。神の同労者とされた私は、神に信頼されたことを喜び、感謝をもって奉仕し、神の指さされる目標に向かって働き、ささげていきたいと思ったのです。しかし、私は弱く、神から託された「時間」も自分のために使い、「からだ」は日々疲れを感じ、「能力」も他者と比べてもっと欲しいと望むなど、神が望んでおられるような生活を送っていませんでした。改めて私に何ができるのだろうと考えた時に、聖書を読んで御言葉を聞くこと、祈り求めること、遣わされた場所で自分のできる奉仕を行うことだと気づかされました。私は神に造られたものであり、他に同じ人はいなく、私だからこそできることがあるのかもしれないと感じます。私だからできることを見つけ、神の愛に対して応答していきたいです。

なんのため生きてるかわからなくなっていた こたえ見つからなくて暗闇でもがいてた

でもキリストの愛に出会って知った ひとつひとつの命には目的があると

神の作品として生きる イエスの足跡踏みしめて

変えられること受け入れて歩む どこまでも I follow You Lord

バプテスト・ユースソングブック 『神の作品として生きる』

神の同労者として生きることは険しい道かもしれません。しかしその道は主が歩まれた道であり、自分一人ではなくイエスと共に歩む道であると感じます。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15

 

「スチュワードシップ」から学ぶ    教会員

『神の同労者 恵みへの応答』を読み通して学んだこと。スチュワードシップをそのまま訳せば、「家令(管理者)の働き」と書かれています。そしてクリスチャン・スチュワードシップとは、「主人であるイエス・キリストに忠実であろうとすること」であり、「時間もからだも、賜物も才能も、そして富も私たちのものではなく、主のものである」という信仰告白の実践である、ということ。

さて、今の自分を振り返るに、はたしてスチュワードシップが求める生き方ができているかというと、甚だ怪しい。「主人であるイエス・キリストに忠実であろう」と努力しているが、この世の価値観に振り回されているのが実態です。著書にも、「クリスチャン・スチュワードシップの大切な目的に、この世の価値観を管理し治める」とあり、「これは一筋縄ではいきません」と書かれています。人は「自分の利益を求める存在」であり、「必要以上に蓄え、他人を踏み台にしても多くを手に入れようとする」存在だと書かれていました。まさに今の自分の姿です。

自己中心からくる、「自分の利益」を「必要以上に蓄えたい」という思いは、金銭だけではなく、必要以上に、食べたい・飲みたい・着飾りたいという、この世の価値観に振り回されることにつながります。自己中心からくる要求を追い求めると、他者へのおもいやりや配慮が欠落した生き方になるのだろうと、自らの生き方を振り返らざるをえません。

創世記のアダムとエバは、神から託された管理者としての責任と信頼を裏切り、エデンの園を追放された。蛇にそそのかされて、「善悪を知る木の実」を食べ、神(所有者)のようになろうとしたためとあり、今も続く人の自己中心からくる罪の根深さを、改めて学びました。今世界で起こっている、貧困、飢餓、戦争、紛争、差別、格差、環境破壊など、あらゆる人が人を貶める罪悪は、自己中心からくる、「自分の利益を必要以上に」追い求めるという、自分が神(所有者)のように振る舞うことからくる結果ではないかと思いました。

「善きサマリア人の譬え」のなかで、律法学者は愛すべき隣人とは誰かと、その定義を問いますが、主イエス・キリストは、サマリア人が「憐れに思い」怪我をした人を助けた、その時怪我をした人の隣人となったのは誰かを問い、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と応えたのではないか。スチュワードシップが求める生き方に少しでも近づけるよう、サマリア人のように「行って同じように」できるよう、自己中心な生き方を改めたい。

担える「働き」を         教会員

例年2月から3月に「スチュワードシップ月間」のテキストとして用いていた『神の同労者』を開くのも何年ぶりだろうか?。各週の教会員の証に、テキストのどの章が当たるだろうか?あそこは苦手だな…など考えていたことを思い出す。テキスト各章(時間、からだ、賜物、献金…)一巡したかと思うが、“教会の奉仕”というと、時としてそれが義務的な重荷に感じてしまったことも過去にはあった。それは、一つ一つの働きを単なる責任のように捉え、何のための、誰のための働きであるかを身体で理解できていなかったからかもしれない。

各章が述べるうちの“時間”、“からだ”、これらは誰もが意識すれば同じように用いることが可能かと思うが、“賜物”となると一人一人まさに千差万別である。私に「奏楽」を…と(言う人はいないが…)いうのはまさに不可能だが、今日の礼拝献金の「総額」を計算するくらいであれば文明の利器の力を借りて、私の賜物でも可能だ。他の方より優秀であるかは不明だが、神様は私にもできる“働き”を備えてくださっている。礼拝のメッセージ、証、奏楽、賛美、祈り、、のみでは無く、トイレ掃除も教会周りの植木の剪定も、それぞれできる方が、時として目につかないところでも担ってくださっており、その結果、この教会が今日まで歴史を積み重ねてきている。そして、すべて礼拝に集う方々が、たとえオンラインしか許されない状況であったとしても“神様を賛美し礼拝する、聖書から宣教からみ言葉を聴く”という最も大切な働きに加わっておられる。これは招かれた誰にでもできることだと思う。

尚、再び読んでみて、テキスト後半で、個人のスチュワードシップのみならず、教会として、どのような働きをしてゆくべきか?についても書かれていることに改めて気づいた。教会の置かれている近隣地域社会に対して、また世界伝道に向けて、昨年の天城山荘売却など連盟の現状も認識するようになり、“教会”としての働きの大切さも考える機会となった。

主は十字架という重荷を負われ、ゴルゴタへ続く一歩一歩を進まれた。それに比べたら今の私の教会での役割は、私たちの担う働きはいかに軽いものであろうか?与えられている恵みの忠実な管理者として、自分の十字架を背負って歩めるように、聖書の言葉に常に力を受けていたいと願う。