Year: 2022

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平和を祈る                 教会員

私は今まで戦争と聞いても、”日本の戦争は終わった””広い世界の一部で起きていることだ”と、どこか遠くの話のように感じていました。しかし、現在は身近なことと感じてきました。戦争の映像がテレビで取り上げられ、日常が一瞬で奪われる現実を目の当たりにし、自分の生活もいつ変化が起きてもおかしくないのだと自分事として考え始めました。目的のためならば人の命や自由を奪ってよいのか、他に方法がなかったのか、認め合うことができないものかと疑問もやみません。また、戦争で犠牲になる人や家族、日常を奪われた人々が何を希望に生きていけばよいのか絶望感を覚えます。戦争に恐怖を感じたというより、”戦争をしてしまう人間の心や力”に恐怖を覚えました。そんな時、私は神様に祈ることしかできません。

子どもの頃、77年前の戦争について学び、“人の命を奪ってまで得たいものは何なのか”とても疑問に思ったことを覚えています。もう戦争はしてほしくないと多くの人が学んだはずなのに、人間はまた同じ罪を犯しています。実際に戦争を体験した方も減ってきており、戦争の恐ろしさが薄れてしまっているのかもしれません。日本が戦争をし、たくさんの命が奪われたこと、たくさんの方が今も苦しんでいることを決して忘れてはいけないし、子どもたちに正しく伝えていかなければならないと思っています。

戦争や人々の争いを見る度、私たちは何のために生きているのか、神様はなぜ人間を造られたのか、と考えさせられます。創世記には、”人がそこを耕し、守るように住まわせた。””人が独りでいるのはよくない。助ける者を造ろう。”と書かれています。私たちは争い合うためでも誰かを支配するためでもなく、「助け合うために造られたのだ。」と神様は話しておられました。私はそのことを多くの人に伝え、一日も早く平和を実現できるようにと祈ります。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」マタイ22:37~39

私たちの罪を赦し、一日も早く慰めを与えてください。みんなが神様の平和を求めますように。

 

平和の本質          教会員

昨年の八月の平和月間には、コロナ感染危機の中でも平和月間の学びが続けられ感謝したが、半年後にロシアによるウクライナ侵攻が始まり戦争となり、話し合いによる解決を望む世界中の願いとは裏腹に武器援助をする国もあり出口が見えなくなっている。そんな中、77年前の広島、長崎の被爆がリアルに感じられ、沖縄を再び戦場にしてはならないと思いを深めている人も多いと思う。

八月に入って、たまたま目にしたNHKのドキュメンタリーで、沖縄ひめゆり記念館で証言していた学徒隊で、生き残られた方のリアルな証言を聞いた。前後は分からないが、―いざ手りゅう弾を手渡され、「伸管を抜いたらしっかり胸に抱いて」と言われた。死ぬのはこわくなかった!ところが、いざ伸管を抜くと「シュー、シュー」と煙が出てきた瞬間、「あっ!私の手がなくなるー!いやだ!!」と思わず手りゅう弾を投げ飛ばしたそうだ。死ぬつもりなのに何故か、自分の手がなくなるのが嫌だと思ったと言うのである。そして助かった!―それこそ、命自身があげた叫びであり、本音だったのだと強烈に思わされた。

また先日NHKで、ピカソの「ゲルニカ」の絵を見た。8Kカメラで映写したもので細部まで詳細に見える。1937年、スペインのバスク地方の町、ゲルニカは、反政府軍に手を焼いた時の将軍が、ヒトラーと結託したため、ドイツ空軍によって爆撃された。パリにいたピカソは、その悲惨な爆撃を知り、2日後に描き始め一ヶ月で完成した3m×7mの大作で、スペインの門外不出のものである。私は、そこに描かれている、人や動物(牛・馬・翼のない白い鳥)などを見て、涙を禁じえなかった。戦争の悲惨への憎しみが、線だらけの手のひら(死)や悲痛を叫ぶ姿の中に見えるが、同時に、生々しい人間の生への愛しさがにじみ出てきて目が離せない。丸木夫妻の絵を見た時と同じだ。特に、「灯ろう流し」の絵から、目が離せない。(教会で丸木美術館に何度か8月6日に訪れ、絵を鑑賞した)

死が描かれた姿から、逆に、愛しい生の命が浮かび上がる。体と魂を持つものとして創造された被造物全体は、個々に命の叫びに、そしてエネルギーに満ちている。死してなお叫ぶ「命こそ宝である」と、そして平和の本質であると。それ以外に何が欲しいのであろうか、戦争よ!!

「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」イザヤ書49:16

 

 

平和月間に思う          教会員

八月は平和月間である。普段、深く考えることの少ない平和について思い巡らしたい。今年は特にロシアのウクライナ侵攻によって、戦争の悲惨さを改めて知ることになった。なぜ戦争や争いが起きるのか?話し合いや外交努力によって解決できないのか?いつも疑問に思う。

4月から東京バプテスト神学校の公開講座、山口里子さんの「虹は私たちの間に」を受講している。虹は平和の象徴である。イエス・キリストが生きた時代、その社会はどんなものだったのか、「イエス運動」がどのように誕生していったのか、めざすものは何だったのか、いろいろ考え思い巡らす機会を与えられている。

当時はロ-マ帝国が広大な領土を所有し皇帝の権力も絶対であった。帝国の支配下にあるユダヤでイエスは誕生した。皇帝を頂点とするピラミッド型の家父長制度の下では支配層は一部の男性エリ-ト達だった。女性を含む一般庶民は差別、抑圧に苦しんでいた。また、奴隷制度も存在していた。「イエス運動」といわれる最初期のキリスト教共同体(エクレシア)は民族、身分、性別の違いに関わらず、誰でも共同体に参加し、発言権を持つというラジカルな平等主義を実践する集まりだったという。それ故に差別や抑圧に痛みや憤りを感じ、また、そのような状況に抵抗して生きようとする人々にとって共同体は大きな支え、励ましだった。「イエス運動」は小さな集まりからキリスト教に発展し、帝国の国教となっていく。(ただし、内容はかなり変えられていく)

イエス・キリストによって示された神様の愛は、抑圧された人たちと共に歩み、共感し、共に苦しみ、あらゆる人々(女性や性的少数者を含む)を受け入れるものだった。イエスにおいては差別も偏見もない。現代の私たちは、この最初期のキリストが示された神様の愛から、遠く離れてしまったように思う。もう一度キリストの愛を心に深く受け止めたい。最初期のエクレシアには多くの女弟子がいた。男性編集者が聖書を編集する過程で、いつのまにか変えられていったらしい。マグダラのマリアは優れた女弟子であったにも関わらず、悔い改めた売春婦にされている。

神様の愛の広さ、高さ、深さを思い、ささやかであってもキリストに倣う生き方をしていきたい。それが平和を実現する道であると思う。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ3:28

 

 

 

2022年の平和月間     教会員

例年8月は平和月間として守り、かつては実際に戦争の時代を体験された方々からお話を伺う機会もあった。8月は広島長崎への原子爆弾投下があり、日本の終戦(敗戦)があった月で、実際にその時を体験された世代の方々には感慨深いものがあるに違いないと思う。

今年で1945年から77年目の夏となった。私のような“もうすぐ高齢者”世代ですら実際に戦争の時を経験せず、映像、本、伝承をもってしか知らない。戦後の平和な国に生まれた世代として、「平和でない」世界というのは何か他人事に近いような感覚が自分にも今まであったのではないかと思う。

ウクライナへのロシアの侵略が起きてもう半年となる。現代のようにデジタル技術が進展し、個人が目の前で起きている事実をそのまま瞬時に世界に伝えられる時代では、技術は争いをも抑止できるのでは?との期待も持っていたが、独裁者の愚かな暴力の下には、それも幻想であったことを思い知らされた。

何のために争うのか?自国の領土のため?自国の経済が脅かされるから?自分の力を誇るため?自らが食べられない、生きていけないから?…おそらくそこには、本当に最低限必要なもののためでは無く、「共に生きる」ことを忘れた人間が、自らの中に存在する「欲望」「悪」のために争うのではないか?と思う。

脱線するが、昨年より畑を借り有機農業の真似を趣味で始めたが、時として目にも見えない程の小さな種から作物が実り、人間の食物となるとは、何という神の恵みであり、また平和の礎なのだと感じることもあり、感謝して頂いている。

私たちに与えられているものを主に感謝し、主に依り頼むとき、そこから自からの内なる平和、また他者、他国との間の平和が与えられるのではないだろうか?

先の戦争の犠牲により与えられた、この国が守り続けている平和憲法、争いをすべて避け、武力を放棄し、平和を求め続ける…ということは簡単ではない。単なる理想、絵空事、という声も特に今年になってから社会で強まったかもしれない。しかし、歴史において強大であった帝国の殆どが、歴史の下で滅びたことを思えば、己が力、己が知恵のみを頼みとすることの浅はかさが想像でき、聖書の語る「主にある平和」の大切さが理解して貰えるのではと思う。

福音書でイエス様は「あなたがたに平和があるように」と何度か語られ、パウロも書簡の中で「(イエスキリストからの)恵みと平和があるように」と語っている。キリストにある平和を常に受けて日々を歩みたいと思う。

マインド・コントロールとは

今月、連合牧師・主事会の折り、参加していたある牧師が青年時代に統一教会に入り、40万円もする印鑑を借金してまで買わされたことを話された。その時は、これが神の喜ばれることだと不思議に思わなかったが、今にして思えば、自分でも気がつかないうちに他の価値観をすべて否定し、教祖だけを全面的に信頼してしまうマインド・コントロールの恐ろしさに陥ったとのことである。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、マインド・コントロールを巧みに利用して勧誘する。まず「あなただけに伝える」「せっかくいい先生が来ているから」「月にたった1回しか会えない人だ」などと希少性を強調して「1時間だけどう?」などと声をかける。そこから団体名を言わないうちに、教義が教え込まれていく。それでも怪しいと感じて誘いを断ると、今度は「あの時、こう言ったよね」「約束したよね」と持ちかけて、話が違うことを責める。こうして人間の心理を巧みに利用した挙げ句、「恐怖説得」を仕掛けてくる。「せっかく宗教的指導者に会えたのに」「こんなに大事な教えを知ったのに」という、いかにもおもんばかる言葉から「ここで辞めたら地獄に堕ちる」「○○さんはここで辞めて事故にあった」などと脅して、抜け出せなくする。そして、偉い先生が推薦していると宣伝する。9月に安倍氏の国葬が決まったが、「日本の国葬になった人も教祖様に敬意を表しているのよ」「だから家や土地を売ってでもお金を寄付しましょうね」と言って勧誘してくるに違いない。安倍氏の国葬でもっとも得をするのは旧統一教会かもしれない。

聖書は、人の心を恐怖心で支配するマインド・コントロールは否定するが、マインド(心)をコントロールすることについては語っている。それは、神の霊において悔い改めて新しくされること、罪に支配された人生に代わり、キリストによってもたらされる自由と喜びと希望に満ちた生活に変えられることである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」マルコ 12:30この「精神を尽くし」という言葉は、聖書協会共同訳では「知恵を尽くし」と訳す。つまり「考え、理解し、判断する知力の全てを尽くして神を愛しなさい」という意味である。このように見てくると、知性は信仰生活上、重要な要素の一つである。「知識がなければ信仰は迷信に移りやすく、信仰がなければ知識は冷淡に終わる」と内村鑑三は言う。知性を欠く時、信仰は迷信に落ち入りやすいことを肝に銘じたい。