Day: 2022年10月2日

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祝福してくださるまでは離しません

神の祝福を得るために、立派な生き方をすることが求められているのだろうか。「聖書日課」で学んできたヤコブを見る時、立派な生き方にはほど遠いヤコブが祝福されたことに、 ほっとするのは私だけではないだろう。ヤコブは兄エサウの弱みにつけ込んで長子の権利を奪い、父を欺いて、祝福を得た。ヤコブはずる賢く、抜け目のない性格であった。それ故に、兄の怒りを恐れて逃亡生活を送ることになる。

しかし、ヤボクの渡しで、夜明けまで神の使いと格闘し、腿の関節を打たれたが、神から祝福を受けた。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」いわゆる「ペヌエル(神の顔)」を経験をした。こうして全く変えられたヤコブは、出迎えにきた兄エサウと再会し、和解するのである。神の使いと格闘した時、ヤコブが言った言葉が印象的である。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 創世記32:27。

ヤコブはここで、何のために格闘したのか。神である相手を打ち破り滅ぼすためか。そうではない。ヤコブが求めたのは、神の祝福であった。彼は、兄に復讐されるのではないかという大きな恐れと不安の中で、しかもその原因は自分自身の罪であるという現実の中で、神の御言葉を頼りに、祝福を必死に祈り求めた。「祝福してくださるまでは離しません。」というヤコブの格闘は、自分が相応しくない者であることをはっきりと認めつつ、しかしその自分の姿を見つめるのではなく、神の御言葉のみを見つめ、それにより頼んで祝福を求めていくという、祈りにおける格闘だった。

この格闘の結果、何が起ったのか。神がヤコブを祝福し、彼に「イスラエル」という新しい名前を与えた。「イスラエル」という名前は、「神と人と闘って勝った」という意味だが、本来は「神は支配される」という意味である。エサウのかかとをつかんで引きずり下ろし、自分が人を支配する者になろうとしていたヤコブが、神こそ支配者であることを認め、その支配に従って歩むことを意味する。そこに、神の祝福がある。

神の祝福は、主の十字架と復活によって成就し、その祝福が主を信じる全ての者たちに及ぶ。私たちは、その祝福を信仰によって頂くために格闘する。その格闘は、自分自身の弱い心や罪との戦いではない。私たちが格闘する相手は、主イエスの神である。神を相手に、「祝福してくださるまでは離しません。」とひたすら祈り求めていく時、私たちは新しいイスラエルである教会の一員とされ、神の祝福に与る者とされる。それぞれの前にあるヤボクの渡しを、神の祝福を祈り求めつつ渡っていきたい。