Month: 7月 2022

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マインド・コントロールとは

今月、連合牧師・主事会の折り、参加していたある牧師が青年時代に統一教会に入り、40万円もする印鑑を借金してまで買わされたことを話された。その時は、これが神の喜ばれることだと不思議に思わなかったが、今にして思えば、自分でも気がつかないうちに他の価値観をすべて否定し、教祖だけを全面的に信頼してしまうマインド・コントロールの恐ろしさに陥ったとのことである。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、マインド・コントロールを巧みに利用して勧誘する。まず「あなただけに伝える」「せっかくいい先生が来ているから」「月にたった1回しか会えない人だ」などと希少性を強調して「1時間だけどう?」などと声をかける。そこから団体名を言わないうちに、教義が教え込まれていく。それでも怪しいと感じて誘いを断ると、今度は「あの時、こう言ったよね」「約束したよね」と持ちかけて、話が違うことを責める。こうして人間の心理を巧みに利用した挙げ句、「恐怖説得」を仕掛けてくる。「せっかく宗教的指導者に会えたのに」「こんなに大事な教えを知ったのに」という、いかにもおもんばかる言葉から「ここで辞めたら地獄に堕ちる」「○○さんはここで辞めて事故にあった」などと脅して、抜け出せなくする。そして、偉い先生が推薦していると宣伝する。9月に安倍氏の国葬が決まったが、「日本の国葬になった人も教祖様に敬意を表しているのよ」「だから家や土地を売ってでもお金を寄付しましょうね」と言って勧誘してくるに違いない。安倍氏の国葬でもっとも得をするのは旧統一教会かもしれない。

聖書は、人の心を恐怖心で支配するマインド・コントロールは否定するが、マインド(心)をコントロールすることについては語っている。それは、神の霊において悔い改めて新しくされること、罪に支配された人生に代わり、キリストによってもたらされる自由と喜びと希望に満ちた生活に変えられることである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」マルコ 12:30この「精神を尽くし」という言葉は、聖書協会共同訳では「知恵を尽くし」と訳す。つまり「考え、理解し、判断する知力の全てを尽くして神を愛しなさい」という意味である。このように見てくると、知性は信仰生活上、重要な要素の一つである。「知識がなければ信仰は迷信に移りやすく、信仰がなければ知識は冷淡に終わる」と内村鑑三は言う。知性を欠く時、信仰は迷信に落ち入りやすいことを肝に銘じたい。

希望に満ちた慰めの書「イエス・キリストの黙示」

「聖書日課」は新約聖書の最後の「ヨハネの黙示録」に来た。黙示録を読み始めると、難しい、分かりにくいという印象を持つのではないか。その主な原因は、黙示文学というわかりにくい形式で書かれているからである。「黙示」とは、覆いを取り去って、隠されていたものを明らかにするという意味である。人間が直接知ることのできない世界の始まりや終末、神の意志を、例え話で説明する形式である。

著者のヨハネは、当時迫害に遭い、エーゲ海の孤島パトモス島に流されていた。ある日、ヨハネは神の啓示によって未来の出来事を目にし、あらゆる災い、戦乱や飢饉、大地震などを記し、天使と悪魔の戦いや最後の審判の様子も記す。又、象徴的な数字や生き物が幾つも出てくる。最も有名なのは、獣の数字とされる「666」(13:18)。映画や小説で悪魔を指すとされるこの数字が、「ヨハネの黙示録」では具体名の記述はないものの、人間を指していると記される。その筆頭候補は、暴君として有名なネロ帝(在位紀元54~68年)。ネロの名前をヘブライ文字で表し、それを置き換えた数字を全て足すと「666」になると言われる。ほかにも、淫乱な女性の姿で表された「大淫婦バビロン」は、首都ローマを示しているとも言われる。

「ヨハネの黙示録」が、当時迫害を強めていたローマ帝国から各地の信徒を励ます目的で書かれたとすれば、信徒にはわかるが、ローマ人にはわからないようにするために、黙示文学が使われたのである。しかし一方で、「ヨハネの黙示録」に書かれていることは文字通り全て真実で、書かれている通りに世界の終末が遠からず来ると信じる人々が今でも後を絶たない。核兵器やテロの恐怖、新型コロナウイルスなどの疫病、地球温暖化などの環境問題、現在、世界が抱える問題は、その証拠だと考えるのだが、そのような文字主義に陥ることは、正しい理解とは言えない。

この書の目的は、苦悩する同時代の人々の「私たちの苦しみに意味があるのか」と言う問いに答えようとしたのであり、多難な出来事は決して無意味な悲劇ではなく、歴史の背後にあって、それを必ず完成させる力のある神の摂理の鎖の一環であること、各自には救いの歴史の完成に寄与する生き方があることを教え、主への信頼のうちに、その愛に踏み留まるように励ますことである。このことを私たちの中に留めることが出来た時、「ヨハネの黙示録」は、恐怖の終末を告げる予言書ではなく、希望に満ちた慰めの書「イエス・キリストの黙示」(1:1)であることがわかる。

逃れる道をも備えていてくださる神

私たちの人生には、自分の力ではどうにもならないことが沢山あるのではないか。重い病に侵される、良好な人間関係が失われる、仕事を失い経済的に破綻する、など、奈落の底に突き落とされることがある。その時は、誰しも健康な時の自分に戻りたい、良好な人間関係を築きたい、仕事に復帰して経済的に安定したいと、もがくのであるが、もがけばもがくほど、状況は悪くなり、希望や平安を失うことはないか。

そんな時、星野富弘さんの言葉を思い出したい。星野さんのは怪我をして全く動けないままに将来の事を思い悩んだ時、ふと、「激流に流されながら元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか。流されている私に今出来る一番良い事をすればいいんだ。そのころから、私を支配していた闘病という意識が少しずつうすれていったように思っている。歩けない足と動かない手と向き合って、刃をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。」と語る。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか。流されている私に今出来る一番良い事をすればいいんだ。」と気づき、口に筆をくわえて、花の絵と詩を描くようになった。

実は、流されることによって星野さんは、あんなに速かった流れも、私をのみこむほど高かった波も静まり、毎日眺めている渡良瀬川に戻ってしまったのである。下流に向かってしばらく流され、見はからって足で川底を探ってみると、なんのことはない、もうすでに底は私の股ほどもない深さの所だった。私は流された恐ろしさもあったが、それよりも、あの恐ろしかった流れから、脱出できたことの喜びに浸った。」と、喜びを見い出すのである。

私たちも、「激流に流されながら元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿」に困惑することがあるが、かつての自分に戻ろうとしなくてもよい、流れに任せればよい。主は必ず、浅瀬に導き、試練から逃れるの道を備えてくださる。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」コリント10:13。試練と共に、逃れの道も、神がその時その時に与えてくださる。何故なら、「神は真実な方」愛する独り子を十字架につけてまで、私たちを救ってくださったからである。何とかしようと自分の力でもがくのではなく、この真実な神を信頼して、信仰の道を歩んでいきたい。

神に造られた世界を御心に従って治める

聖書の中には、これは理解できない、従えないと思う戒めが幾つも出てくるのではないか。その一つが、創世記1章26節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』である。人間のみが特別に神のかたちに造られたので、人間は神により他の被造物全体を支配せよ、と受け止めることができる。「動植物の生は、それ自体のためではなく、人間のために保たれている。」トマス・アクィナス、「創造主の最も正当たる定めにより、それらの生と死は、双方とも我々が自由に用いてもよいものとなった。」アウグスティヌス、と二人の偉大な神学者が唱えたこともあってか、自然は人間の必要や願望に仕えるために存在するという「人間中心主義」が、今日まで受け継がれてきた。

その結果、何をもたらしてきたか。人間が他の被造物、自然を支配するという生き方が、自然破壊や環境破壊を生んできた。新型コロナウイルスも人間がそれまで踏み込んだことのなかった自然の奥にまで入り込むことで発生した、動物由来の感染症の一つと考えられ、一年前の熱海の土石流の甚大な被害も盛り土による乱開発であり、辺野古新基地建設の埋め立てによって、サンゴや他の生き物が死滅し、遺骨の眠る山から土砂を大量に採掘することによって、自然が破壊されている。枚挙にいとまがないが、人間の必要や願望を優先させた結果、地球温暖化が起こり、世界各地で大変な災害が起きている。このままではいけないと、国連総会において、SDGs「持続可能な開発目標」を掲げ、具体的な対策として、海の豊かさを守ろう、陸の豊かさを守ろうなど、17の目標を掲げたが、むしろ、自然破壊は進んでいる。

私たちは、もう一度、聖書を読み直す必要がある。「支配させよう」は、口語訳も聖書協会共同訳も「治めさせよう」となっている。「治める」とは「ガバナンス」で、「統治」「管理」「守る」という意味がある。神は、造られた世界をご自身が直接治めず、人に委ねられた。人間は、神の代理人として地を治める者として造られたのであって、人間の必要や願望によって、被造物の上に立って横暴に振る舞うことではない。被造物全体が、人間によって、そのものらしく治められ、その命が守られ、それを通して神の栄光が現れることである。神は、その務めをなす力を人に与えられた。私たち人間は、神に造られた世界を御心に従って治め、さらに良きものとしていくことが求められている。それが、「神のかたち」として造られた本来の人間の姿である。

 

「迷い悩みも そのままに」主を信じる

クリスチャンになることに、ためらう人はいないか。「私は、聖書を十分に理解していないし、立派な行いは出来ていないし、信仰心もないし」と、そのような理由を挙げる方がいる。しかし、クリスチャンなるには、資格や資質、立派な行いは必要ではない。ただ、「イエス・キリストは私の救い主です」と信じる決心をして、自分の罪の贖い主として受け入れるだけで、だれでもクリスチャンになれる。

遠藤周作が『私にとって神とは』の中で、「信仰を、日本では一般に、100%の確信というふうに考えがちです。そうじゃなくて、前にも述べたように、ベルナノスの言う90%疑って10%希望を持つというのが宗教的人生であり、人生そのものでもあると思うんです。人間というものは、そんなに強かったら宗教は要らないと思います。」と述べているように、聖書を十分に理解できなくても、クリスチャンとして生きていくことに何ら問題はない。「信仰は90%の疑いと10%の希望」という言葉もあるように、信仰には疑いがついてまわるものである。

主の弟子のトマスも、主の復活を徹底的に疑った。主が復活されたという報告に対して、トマスは「自分の指や手を主の手の釘後や刺された脇腹に入れてみなければ、主が復活したことなど絶対信じない」と疑ってかかった。主から信じることを勧められても、不信を抱いてしまう人間の現実が現れているような気がする。「私は神を信じます」という時の主体が人間である限り、疑いのない神への信仰は起こらないのではないか。疑いと信じることとの間を私たちはいつも揺れていると言える。

「主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。」詩編139:4-5。神は私たちのすべてを分かっていてくださり、前からも後ろからも囲んでくださっているという。疑いの晴れない人間のすべてを神が抱えてくださっているのだから、安心して疑いを抱きつつ、神と共に日々歩んでいけばよいのである。「信仰」は「進行形」である。主を信じて一歩ずつ歩んでいくうちに、疑いも晴れていくのである。新生讃美歌461に、「迷い悩みも そのままに たずさえ来よと 憐れみて カルバリの主は カルバリの主は憐れみて 待ちたもう」とあるが、「迷い悩み」が解決してから主を信じるのではなく、それではいつまで経っても信じられないので、「迷い悩みも そのままに」主を信じることが求められている。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネ20:27