Month: 6月 2022

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 世界宣教の使命に生きる教会   野口 日宇満

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」マタイ28:18-20

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書、また使徒言行録によると、復活のキリストの弟子たちに対する命令は、ただ一つ「全世界に出て行って福音を伝えよ」(大宣教命令)でした。それゆえに世界宣教こそ教会の最大の目的であり存在理由です。

教会が世界宣教を使命として掲げ、実際に宣教師を遣わすことによって、また祈りと献金をもって支えるとき、教会自身が主の恵みと祝福に満たされます。なぜなら、すべての民族にキリストの福音が伝えられることこそが主の願いであり、天と地の一切の権威を授かっている主は世界宣教の使命に生きる教会と共におられるからです。私たち日本のバプテスト教会は、アメリカからの宣教師たちの尊い祈りと犠牲によって福音の恵みに与るようになりました。受けるよりも与える方が幸いである、と主が語られたように、福音を受けた者の責任として、福音を喜んで伝えるものとなりたいと願います。

私たち家族は、日本バプテスト連盟の諸教会、伝道所の尊い祈りと献金によって8年前にインドネシアに遣わされました。インドネシアは、世界で最も多くのイスラム教徒が住んでいる国です。また300以上の民族が住んでいる多民族国家です。私たちは、この国に住むすべての人たちが福音を聞く機会が与えられるようにと祈りつつ主と教会に仕えています。

確かに海外宣教は、国内での伝道とは異なった難しさがあります。たとえば言語の習得、食習慣や文化の違い、本国では必要でないビザを毎年更新しなければならないこと、風土病からの守り、母国語でない言語での子どもの教育など様々な困難な課題を乗り越えなければなりません。けれども困難を通して私たちは主に祈り求め、自分の力ではなく聖霊の力と知恵に依り頼むようになります。聖霊に満たされる時に、私たちの内に宣教の情熱が溢れてくるのです。遣わされる者も祈り支える者も聖霊によって一つとされ、主の切なる願いである福音宣教に仕えるものとなりましょう。

 

 

「6・23沖縄慰霊の日」(沖縄〈命どぅ宝〉の日) 祈り                                                                             沖縄から宣教を考える会

1609年 島津氏は武力をもって琉球を侵攻しました。

1879年 明治政府は琉球を沖縄県として日本に併合しました。*「琉球処分」と呼ぶ。

1945年 「本土」防衛・国体護持の時間稼ぎのため、沖縄を戦場にしました。「捨て石作戦」として沖縄を犠牲にしました。

1952年 沖縄を米軍施政権下に残す代わりに、「日本本土」が独立しました。沖縄を差し出しました。

1972年 戦争放棄と人権の尊重を土台とする日本国憲法に信頼し、基地がなくなることを期待して日本に復帰しました。今年で50年目の節目の年となりました。

しかし戦後77年経っても、日本の0.6%の面積の沖縄に在日米軍専用基地の70%以上

が集中しています。日本は帰るべき祖国ではなかったとの声も聞かれます。

今年2月にロシアとウクライナの間で戦争が始まり、今もその砲火は止まないまま、多くの人命が失われ続けています。コロナウイルスの混乱が静まらないこのときに、戦争は起こってしまいました。神様、一刻も早くこの争いを静めてください。私たちが、今、何をなすべきであるのか、お示しください。

神様、あなたは預言者イザヤを通して、そしてまた預言者ミカを通して「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ」と言われました。武器にはさらなる武器をもって対抗しようとする空気を打ち払ってください。暴力には暴力によって対抗しようとする心を悔い改めさせてください。

いつ沖縄に平和憲法が適用されるのでしょうか。適用されないままに、憲法が変えられてしまうのでしょうか。世界一危険と言われる普天間基地を返還するから、新しい基地を造って提供しなさいと、大浦湾を埋め立てて辺野古の新基地建設が強行されています。そしてまた南西諸島に次々と自衛隊基地が新設され、ミサイルや弾薬が運び込まれています。沖縄を再び戦場に差し出そうとするのでしょうか。いつまで沖縄を消費し続けるのでしょうか。

この沖縄に大きな緊張が走っています。バイデン大統領は、台湾有事には、アメリカは武力でこれに対抗すると明言しました。そうなれば日本、とりわけ沖縄が巻き込まれることは必至です。77年前の惨劇を体験した者は少なくなりました。しかし、戦争をしてはならないという、あのおじいやおばあの叫びは、私たちのこの耳に今もしっかりと残っています。この叫びを、私たちは次の世代に伝えます。私たちが、あなたから「神の子」と呼ばれるために

 

自分の「アンコンシャス・バイアス」に気づこう!

最近、「アンコンシャス・バイアス(unconscious bias)」という言葉をよく耳にする。日本語では、「無意識の思い込み」「無意識の偏見」などの言葉で表現される概念である。「アンコンシャス・バイアス」は無意識であるため、なかなか自分では気づきにくいが、「決めつけ」や「押しつけ」の言動となって表れる。「男性は○○であるべき」「女性は○○するのが普通だ」と決めつけることは、「アンコンシャス・バイアス」で、その思いが行動となって表れ、人を無意識のうちに傷つけてしまうのである。

女性の権利が日本より一歩進んでいると思われるアメリカですら、南部バプテスト連盟では、現在でも女性牧師を認めていない。その理由は、聖書にはそう書いてあるからだというのである。「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。」Ⅰコリント14:34。「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」Ⅰテモテ2:12。南部バプテスト連盟の中の、逐語霊感説に基づいた原理主義的な捉え方によって、「女性が牧師になることは、女性が男性の上に立つこと以外の何物でもない」ので、そんな考えを持っている牧師・宣教師は「追放してしまわなくてはいけない」という考えに支配されて、日本に来ていた宣教師も心を痛めて辞めざるを得なかった。しかし、聖書をよく読むと、「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。」Ⅰコリント11:5と、女性が教会で「祈ったり、預言したりする」ことは、全く問題視してはいないことが分かる。「無意識の思い込み」「無意識の偏見」によって聖書を読むことで、人を傷つけ、差別を生む恐ろしさがある。

生まれも生い立ちも生き方も違う私たちは、「アンコンシャス・バイアス」に影響を受けている。「アンコンシャス・バイアス」は誰にでもあるし、それ自体は問題ではない。問題は自分は「正しい」と思い込み、自分の「アンコンシャス・バイアス」に気づかないことにある。だから「気づこうとする意識があるかどうか」が何より大切である。気づくことで、豊かな人間関係が広がっていく。自分自身の「普通」や「当たり前」を見つめ直すことで、無意識に人を傷つけることをなくし、多様な価値観を認め合える社会の一助を担うことができる。自分の「アンコンシャス・バイアス」を積極的に開示する姿や、自分が変わろうとする姿を見せることは、やがて周りを巻き込んでいくことへと繋がり、社会がより良くなっていくことに繋がると期待するものである。

すべての人を一つにしてくださる聖霊

ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降り、主の福音が大胆に語られ、そこに集まった人々が主を信じ、教会が誕生したと使徒言行録2章に記されている。聖霊は、特別な人たちだけに降ったわけではない。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」使徒言行録2:17と、私たち一人一人にも降るのである。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・地の果てに至るまで、私の証人となる。」同1:8と主が約束されたように、聖霊降臨によって、聖霊の力を頂いた人々は、主の証人として、世界中の人々に福音を伝えることができる。もし、聖霊降臨という出来事がなければ、私たちの所にまで福音は届けられなかったであろう。

そこには、様々な国の人がいて、様々な言語で福音が語られたが、聖霊の働きによって、皆の心が通じた。それは今日にも言える。聖霊が降る時、生い立ちも性格も考え方も生き方も違う一人一人に、主を信じる信仰が与えられ、その結果、皆の心に一致が生まれる。バベルの塔以来、人と人との心は通じなくなっていたが、ペンテコステの日から、神と人、人と人とが一つに結ばれ、互いに理解し合い、尊重し合う歩みが始まった。聖霊が降る所には、どこでも罪の赦しと和解が生まれる。

聖霊は、たった一人に降ったのではない「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」同2:1とある。この集まりの上に聖霊が降った。教会がこの集まり(礼拝)を大切にするのは、そこに聖霊が降って、互いの違いを超えて一致することができる。一緒に礼拝を捧げる時、他者との壊れた関係も再び結び合わされ、修復することができる。「すべての人を一つにしてください。」ヨハネ17:21と祈られた主は、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2:16。そのために、神はペンテコステの日に教会を誕生させて、私たちに和解の務めを託してくださった。敵対する者を愛せるのは、聖霊の働きである。

聖霊が降っても、その聖霊の力に与っているとは限らない。霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22を結んでない自分を見ることはないか。その時、自分には聖霊がまだ降っていないからだと思い込み、「聖霊、来たれり」と祈ることはないか。しかし、聖霊はすでに私たちの所に来てくださった。だから「聖霊に満たしてください」と祈って、聖霊の導きに従って歩めばよい。聖霊に満たされた時、「愛、喜び、平和」といった霊の実を結ぶ主の証人になれる。