Month: 4月 2022

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欲望こそが争いの原因

20世紀は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経たので、「戦争の世紀」と言われた。その教訓を基に、21世紀は「平和な世紀」が訪れるのではないかと期待した。しかし、イラク戦争に始まり、今、ロシアがウクライナに侵略戦争を行い、多くの尊い命が失われていることに心が痛む。なぜ戦いや争いが止まないのか、何がその原因なのか。聖書は、「欲望」こそが戦いや争いの最大の原因だと指摘する。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」ヤコブ4:1-2

「欲望」というのは、端的に言えば何かを自分のものとしたいことである。その欲望を満たすために、他者との間に戦いや争いが生まれる。戦いや争いをもってしても自分の欲望を果たそうとする暴力的な生き方がそこから生まれていく。領土も資源も財産も人の命さえ奪うのである。まさに、欲しても得られず、人を殺します。」

では、「欲望」を捨てることはできるのか。聖書は、欲望に打ち勝つ秘訣を語る。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24。主は、私たちの罪のために十字架につけられた。その十字架に私たちの欲望もつけられた。バプテスマを受けることによって、「キリスト・イエスのもの」とされた私たちは、罪に支配された古き自分を十字架につけた。古き私たちは既に十字架の上で死んだ。もちろん、時には自分の欲に引きずられることもあるが、しかし私たちは、少しずつ主に似た者へと造り変えられ続けていくのである。

『ハイデルベルク信仰問答書』の第1問は、こう問いかける。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」その答えとして、「私が、私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」とあった。主のものとされていることが、「あなたのただ一つの慰めである」と語る。主のものとされた人こそ、欲望から解放されて、本来の自分らしく生きることができる。それこそが、私たちにとっての、唯一最大の慰めではないか。主のものとされて、聖霊に従って歩む時、私たちは、だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」Ⅰコリント10:24という御言葉を実践することができるだろう。

新しい命に生きる

イースターの良き日に、バプテスマを受ける方が起されることほど嬉しいことはない。それはバプテスマが主の復活を象徴しているからである。

「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」ローマ6:4と、パウロは私たちが主の復活の命にあずかるためには、主を信じてバプテスマを受けることが大切であると語る。バプテスマには「浸す」と言う意味がある。それは古い自分に死んで、主の復活の命によって、新しい自分に復活することを表す。その古い自分が主と共に死ぬことによって、罪から解放され、主と共に新しい命に生きる者となる。この「新しい命に生きる」ためには、自分の決意や意気込み、努力によるものではなく、ただ主を信じるところから始まる。これが、救いであり、バプテスマである。

誰でも新しくなりたいと願って生きているのではないか。しかし、どうすればよいか分からず、悩んでいる人もおられるだろう。しかし、主が死から復活してくださったことにより、新しい歩みへの道が開かれるのである。自分の力で頑張ることを止めて、主を信じて、主に全てを委ねるなら、主の大きな愛によって生かされることを見い出すだろう。それが主が与えてくださる「新しい命に生きる」ことである。

バプテスマを受けるとは、罪の中を生きて来た古い自分と決別し、主と共に、新しい歩みを始める出発の時である。その出発の時を、誰もが迎えてほしいと主は願っておられる。古い自分を十字架につけ、主にある復活の命に生かされて行くなら、どれほど生きることが楽になるだろうか。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20と告白して、あらゆる苦難の中でも、共におられる主に希望と喜びと平安を見い出していった。

主が私たちの罪を赦すために、十字架で死なれ、3日目に復活してくださったが故に、私たちはもはや古い自分に戻ることはない。罪の重荷を負って生きる必要はなくなった。罪赦された者として軽やかに生きることができる。主を信じることによって、古い自分に別れを告げ、復活の主の命に生かされて、新しい人生の歩みへと踏み出したい。今日のイースターを、人生のイイスタート(・・・・・・)にしたいものである。

主の十字架は何のため?

受難週を迎えたが、主イエス・キリストは何のために十字架にかかられたのか。それは私たちの罪を贖うためであると共に、私たちを神と和解させ、人と人とを和解させるためであった。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました。」エフェソ2:14。

主が二つの壁を取り壊されたという。この二つの壁は容易に壊されないものである。なぜなら、二つの間には「敵意という隔ての壁」がそそり立っているからである。なぜ、「敵意という隔ての壁」がそそり立っているのか。それは、両者が共に自分たちが正しい、相手が間違っていると主張するからである。その場合には、両者の間には和解というものはなく、相手を攻撃する。それは、国同士や民族間に生じている壁であるが、その壁は私たちの日常的な歩みにもそそり立っている。私たちが、人との関係においてお互いに受け入れることができない時、両者の間に深い断絶がある。

その断絶と壁を主は御自分の肉において取り壊し、二つのものを一つにされた。「御自分の肉において」とは、どのようなことか、16節を見ると「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とある。敵対する両者が、主によって、神と和解することによって、平和を得ることができる。平和が実現するのは、対立する人間同士の間で折り合いをつけ、妥協点を探り、合意することによってではない。先ず神と和解し、自分の罪の赦しを求めていくことこそが、真の和解と平和への道である。言い換えると、主ご自身が、互いに自分たちの正当性を主張していて譲らず、相手を非難している真っただ中で、十字架にかかって、両者の深い傷を癒してくださったのである。「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ53:5

互いの正しさを主張して譲らない時、お互いに相手から傷を負い、深い痛みを感じる。その痛みを主ご自身が負い、和解の出来事を起こしてくださった。それが、主の十字架であった。そのことが分かる時、私たちの深い傷が癒されて、敵対する相手をも受け入れることができる。それは、すぐにはできないと思うことかもしれない。それでも私たちは、主がご自分の命を犠牲にして神と私たちの和解をもたらしてくださった、その歩みに倣って、敵意を乗り越え、平和を築いていくための道を歩み続けたい。「キリストこそ私たちの平和」そこに私たちの歩みを支える希望がある。

日々新たに             教会員

いつの間にか桜も満開となり、新たな春がまた巡って来た。新入学、新社会人、進級…希望を持って春を迎えた方も多いと思う。私は現職場に再就職してから11ヵ月経過、にも関わらず入職1年目は対象とのことで「新任研修」に(還暦を過ぎて!)2日間参加することとなった。何を今更、と硬くなりかけた頭で思ったが、この考え方では自分は何も新たにならず変わっていかない…ということに気づかされた。年齢と共に肉体や頭脳は衰え、どこが痛い、何が出来なくなった…という状況も今後増えるかと思うが、新しく日々を生きるという思いは忘れずにいたい。

4月から、経済的困難を持つ家庭のお子さんに学習支援をしている教室にボランティアで週1回参加させて頂くことになった。指導員(教員経験者)の補助業務で、逆に自分が中学生から教わる状況も十分想定されるが、35年以上もホコリを被っていた教員免許状の、これを取得した頃を思い出し、新たな世界を体験できればと思う。

教会も新たな年度を迎えた。約2年のコロナ対応の礼拝を経て、この群れが現在のように形成された。次にどんな新たな歩みを進められるであろうか?今年度も新たに福音に渇く方を、高価で尊い命をウエルカムできるであろうか?

今年に入り、世界は更にきな臭く、混沌としてきたように思う。SNSで世界とつながれる現代で、リアルタイムで進行する戦争を映像として見ながら、世間には「だから軍備を」「核を持たねば」という声が増すかもしれない。しかし歴史を振り返れば、どんな国も「剣を取るものは皆、剣で」滅びてきた。歴史に学び、イエス様の言葉に耳を傾け、真の平和が人々の心を満たす日が来るよう、祈りつつ新たな日々を歩みたいと思う。

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて真の知識に達するのです。」コロサイ3:10