Day: 2022年1月23日

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何によって義とされるのか?

「主の教えを立派に行わなければ、クリスチャンになれない」と思っている人がいるが、

むしろ、主の教えを立派に行えないからこそ、クリスチャンになれるのである。パウロはローマ書の中で、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」3:28と述べる。これは「信仰義認」の教えである。

この「信仰義認」は、主イエスの教えに由来する。主はファリサイ派の人の律法主義を批判し、ファリサイ派の人と徴税人の神殿での祈りをルカ18章で取り上げる。ファリサイ派の人は「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、自分が律法をいかによく守っているかということを祈った。これに対して、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈った。主は、「義とされた」のはこの徴税人の方であったと告げる。

実は、こうした主の宣言は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、とんでもないことであった。元々「義とされる」というのは、「正しい者」とされる、無罪とされるという意味で、律法を正しく守ることとは切っても切り離せない言葉であった。律法を守る良い行ないによって神に義と認められることは、ユダヤ教にとって、当然の常識だった。しかし、主はその建前とその内実との大きな溝をよくご存知であった。自分たちは律法を完全に守っているのだという、その自己欺瞞の事実に目覚め、それを率直に認め、罪人が義とされるのは自ら罪人である人間の不完全な業によってではなく、ただ神ご自身によるその罪の贖いの業によるしかないと知るべきである。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」ガラテヤ2:16。ここではローマ3:28「信仰によって」が、「イエス・キリストへの信仰によって」となっている。ここは「イエス・キリストに対する信仰」と対格の意味にではなく、「イエス・キリスト信仰」と主格の意味に取ることもできる。「信仰」と訳されるギリシア語「ピスティス」「真実」という意味の言葉なので、イエス・キリストの真実によって義とされる」と訳すこともできる。そうすると、「信仰によって義とされる」という教えを、「私たちが義とされるのは私たち罪人に対するイエス・キリストの「真実」によってである。」と言い換えることができる。罪人である私たちに対する神の恵みによって、それを実現するため十字架でその命を差し出してくださった主イエスの私たちへの愛の真実によって、私たちは「義とされる」のである。