Day: 2022年1月2日

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祈り合う群れとして歩む

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:19-20。

新しい年を迎えるにあたり、主から示されたことは、「祈り合う群れとして歩む」ということである。私たちが何故、天の父なる神に向かって祈るのか。しかも一人ではなく、二人、三人と集まって祈るのか。それは、二人または三人が主の名によって集まるところに、主も共にいて、共に祈ってくださる。私たちの祈りの輪の真中に、いつも主がいて共に祈ってくださる。いや、私たちに先立って祈ってくださる。先立ち祈る主の祈りに声を合わせて、私たちも祈りを捧げる。ここに教会の祈りがある。

「どんな願い事であれ・・それをかなえてくださる」と言っても、自分の願いがすべてかなえられるという意味ではない。主の御心を願って祈るならば、かなえられるということである。では教会が真っ先に祈るべき願い事とは何か。主はこの御言葉の前に、「迷い出た羊のたとえ」マタイ18:10-14を語る。主がここで強調したことは、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」ということである。「これらの小さな者」とは、迷い出た一匹の羊のこと、羊の群れから離れてしまった羊のことである。主は、羊飼いは99匹を山に残しておいてまで、迷い出た一匹の羊を捜しに行く、そこに教会の姿があると言われた。天の父の御心は、これらの小さな者が一人でも滅びることを願わない。教会は、天の父の御心を映し出す交わりだからである。そして主は、教会の群れから迷い出た一匹の羊が再び教会の群れに立ち帰るための手順を語る。

主は、教会が祈り合う群れとなるために、何故、このような譬えを語られたのか。それは、真の赦し、和解は、祈り合うところから始まるからである。佐々木和之さんが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところとは、仲の良い人同志とは限らない、ツチ族とフツ族といったかつて殺戮し合った人同士の間でも起こりえる。」と言われた。それは「赦し」が「祈り」から始まるからだ。ウマが合う人か合わない人かを越えて、たとえ相手の気持ちや状況を十分わからなくても、その人のために祈り合うことはできる。主は、「はっきり言っておく」と言われた。何と心強い約束か。この御言葉を支えとして、今年も、「祈り合う群れ」として、歩んでいきたい。