聖書に記されたクリスマス物語を見ると、2つの正反対の言葉に出会う。それは「恐れ」と「喜び」である。天使は、待ち望んだ子の誕生をザカリアに告げるに当たって、開口一番、「恐れることはない。」と語る。又、マリアに主の受胎を告げた時も、「恐れることはない。」と語る。そして野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちにも、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」ルカ2:10と語る。「恐れるな。」で終わってはいない。その後に、「大きな喜び」が与えられている。その「大きな喜び」こそ、民全体に与えられる救い主イエスの誕生であると、天使は語る。
神が与えてくださる大きな喜びとは、しばしば私たちにとっての恐怖や不安を伴うものである。しかしそれが私たちへの大きな慰めや励ましとなる。神がくださる喜びがそういうものとして与えられるのであれば、私たちに恐れや不安を抱かせるような出来事を、いたずらに嘆き悲しむ必要はない。むしろそこに喜びを与えるようなことが秘められている。私たちは当然のように、恐れや不安と喜びとは決して両立しえないものと思い込むことはないか。ある日、病や事故に出遭う、又、仕事や人間関係に行き詰まる。すると、これまで長い間積み重ねてきた喜びが、アッという間に失われ、私たちが抱く喜びは、恐れに対してなんと無力なものかと感じるのではないか。恐れは、あざ笑うかのように、私たちから喜びを奪っていくものだと・・。
そのような私たちに対して、今日のクリスマス礼拝で耳を傾ける御言葉は、「恐れるな。大きな喜びがある。」と告げる。「恐れを抱くのを恐れてはならない。例え、恐れを抱いても喜びはある。」からである。天使が言う「恐れるな。」とは、それは文字通りの意味で「恐れの否定」ではない。そうではなく、私たちの中に恐れが生じてくることを否定したり、あってはならない事として排除してはいけないということである。恐れが生じるのは当たり前のことなのであって、例え、恐れがあったとしても、それは私たちから喜びを奪うことはできない。ここには決して奪われることのない大きな喜びがある。その大きな喜びをもたらすために、救い主がお生まれになったのである。
この「恐れるな。」という言葉は、その時だけの「恐れるな。」という意味ではない。この言葉は、その後も続けて「恐れるな。」という意味である。つまり「もう恐れる必要はなくなった。これから恐れずに生きていける。」ということである。聖書に「恐れるな。」という言葉がなんと365回も出て来る。毎日、主は「恐れるな。」と励ましてくださる。