Year: 2022

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恐れと喜び

聖書に記されたクリスマス物語を見ると、2つの正反対の言葉に出会う。それは「恐れ」「喜び」である。天使は、待ち望んだ子の誕生をザカリアに告げるに当たって、開口一番、「恐れることはない。」と語る。又、マリアに主の受胎を告げた時も、「恐れることはない。」と語る。そして野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちにも、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」ルカ2:10と語る。「恐れるな。」で終わってはいない。その後に、「大きな喜び」が与えられている。その「大きな喜び」こそ、民全体に与えられる救い主イエスの誕生であると、天使は語る。

神が与えてくださる大きな喜びとは、しばしば私たちにとっての恐怖や不安を伴うものである。しかしそれが私たちへの大きな慰めや励ましとなる。神がくださる喜びがそういうものとして与えられるのであれば、私たちに恐れや不安を抱かせるような出来事を、いたずらに嘆き悲しむ必要はない。むしろそこに喜びを与えるようなことが秘められている。私たちは当然のように、恐れや不安と喜びとは決して両立しえないものと思い込むことはないか。ある日、病や事故に出遭う、又、仕事や人間関係に行き詰まる。すると、これまで長い間積み重ねてきた喜びが、アッという間に失われ、私たちが抱く喜びは、恐れに対してなんと無力なものかと感じるのではないか。恐れは、あざ笑うかのように、私たちから喜びを奪っていくものだと・・。

そのような私たちに対して、今日のクリスマス礼拝で耳を傾ける御言葉は、「恐れるな。大きな喜びがある。」と告げる。「恐れを抱くのを恐れてはならない。例え、恐れを抱いても喜びはある。」からである。天使が言う「恐れるな。」とは、それは文字通りの意味で「恐れの否定」ではない。そうではなく、私たちの中に恐れが生じてくることを否定したり、あってはならない事として排除してはいけないということである。恐れが生じるのは当たり前のことなのであって、例え、恐れがあったとしても、それは私たちから喜びを奪うことはできない。ここには決して奪われることのない大きな喜びがある。その大きな喜びをもたらすために、救い主がお生まれになったのである。

この「恐れるな。」という言葉は、その時だけの「恐れるな。」という意味ではない。この言葉は、その後も続けて「恐れるな。」という意味である。つまり「もう恐れる必要はなくなった。これから恐れずに生きていける。」ということである。聖書に「恐れるな。」という言葉がなんと365回も出て来る。毎日、主は「恐れるな。」と励ましてくださる。

 

 

光が輝いた

イエス・キリストの誕生は、紀元前700年前から預言されてきた。イザヤ書には、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」7:14、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」9:5と救い主の誕生が預言されている。それほど古くから預言されていることに驚く。

この預言が記された時代は、アッシリアによって侵略され、権力者の圧政により、人々は飢えと恐怖に苦しんでいた。そのような中で預言者イザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」9:1と、闇の中を歩んでいた民に神の言葉を語る。そこには「大いなる光を見た」「光が輝いた」と、すでに完了した表現を用いて神の約束が語られている。イザヤも、そこに居合わせた民も、この預言が実現することを見ることはできなかった。しかし、この預言こそが人々の希望となって、差別や貧困、不条理の中にあっても、生き抜く力が与えられた。

このイザヤの見つめている「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」の姿は、イザヤの時代だけではない。イザヤの告げる深い闇、死の陰の地に生きる者の姿は、現代社会にも存在しているのではないか。今年はコロナの感染の蔓延だけではなく、ウクライナへのロシアの軍事侵攻、穀物や原油の高騰に伴う物価高、気候変動、差別と偏見、貧困などで孤立し、もがき苦しんでいる人々が世界中に満ちている。

このイザヤの言葉は、まさにそのような闇の中に、「光が輝いた」と宣言する。闇が去ったので、「光が輝いた」のではない。依然として闇に覆われている。その中で輝く光とは、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。」ことによってもたらされた光である。イスラエルの民は、自分たちを救ってくれる、新しい王の誕生を待ち望んでいた。ダビデ王家から救い主が生まれ、ダビデ王家が末永く続くことで、平和な社会、苦しみのない世界が訪れると思った。しかしイザヤは、地上の王ではなく、神が私たちに与えてくださる、「ひとりのみどりご」の誕生を告げる。この救い主の誕生によって、闇の中に閉ざされ、死の陰の地にあって、涙を流し、悲しみを背負い、生きる望みを失った者たちに、大いなる光が差し込み、「人々は御前に喜び祝った。」9:2と告げる。その救いの光に照らされて、自分の人生を喜び祝うことができた。まさに、ここにクリスマスの光は輝いている。この時期、主がこの世に遣わされた意味と喜びを、静まって黙想の中で受け止めていきたい。

誰かのために自分を捧げたい

いつもこの季節になると、『靴屋のマルチン』という物語を思い起こす。よく教会学校のクリスマス会などでこの劇を行った。皆さんもよくご存じではないか。

主人公のマルチンは妻に先立たれ、一人息子にも先立たれた。そんなマルチンに、ある人が聖書をプレゼントする。マルチンは靴屋の仕事が終わると、聖書を熱心に読んだ。そしてある日、「明日あなたの所へ行きます」という主の言葉を聞く。マルチンは、いつ主が来ても良いようにお茶を沸かし、料理を作り、部屋を暖かくして待った。しかし、マルチンが見るのは、寒さの中で道を掃除する人だったり、リンゴを盗む少年だったり、乳飲み子を抱える貧しい母親だった。彼はその人々を家に入れ、主のために用意していたお茶や料理をごちそうした。そして一日が終わった。主は来なかったとがっかりしていたマルチンは、いつものように聖書を読んだ。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25;40。この御言葉によってマルチンは、「今日、確かにイエス様は私の所に来てくださった」という喜びに包まれたというのである。

マルチン自身、世間から見れば「最も小さい者の一人」なのかもしれない。しかし彼は、この御言葉を「自分は社会から、人々から、親切にしてもらうのが当然なんだ」という風には読まなかった。そうではなくて、今日、主を待っていたら、困っている人が次々と目の前に来て、自分は良いことをしているという意識も持たず、自分にできる小さな親切をした。しかし、主はそのことを自分にしてくれたこととして、喜んで受け取ってくださった。マルチンの喜びはそこにあった。神の愛を知ったマルチンは、人を愛する者へと変えられ、結果として神をもてなしていた。

救い主は、みすぼらしい「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」として見い出された。それがクリスマスの出来事である。救い主は、どこにおられるか、どこに探すべきか。救い主は、貧しさ中に、弱き人の中におられる。病気に悩む人、貧しさに打ちひしがれた人の中に、私たちが声をかけることを、手を差し伸べることを待っておられる。主は、私たちの心を新しく生まれ変わらせてくださるために誕生された。マルチンが悲しみから立ち直り、生まれ変わったように、私たちも、少しでも周りの人々の必要を感じ取ることができる人へと創り変えていただき、誰かのために自分の時間や心を捧げることができればと願う。今年はそんなクリスマスでありたい。

 

神は光を造り、闇を創造された

「光の祭典 クリスマス!」というキャッチフレーズに出会う。クリスマスは、確かにキリストの誕生という圧倒的な光の宣言である。希望と喜びに満ちた天使の受胎告知、マリアの賛歌、シメオンの幼子への祝福、どれも光輝いている。しかし、一方でヘロデは救い主の出現を恐れ、幼児を虐殺し、生まれたばかりのイエスはエジプトに難を逃れなくてはならなった。クリスマスには、「光と闇」が存在していた。

私たちの人生も、また「光と闇」が存在しているのではないか。人生の不条理や悲しみ、この世界の苦しみを前にして、時に私たちは言葉を失い、これをどう捉えてよいかわからず、うろたえたちすくむ一年ではなかったか。こんな時に、拠りどころとなる御言葉に出会う。「光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」イザヤ45:7 私たちの神は、光を造られた神であると同時に、闇も造られた。そして神は平和を造られ、同時に、災いも造られた。

それが私たちの神である。実際、イザヤ書はイスラエルが現実に闇に生きるうちに記された書物である。バビロン捕囚という奴隷にされた「闇」、そして、キュロスというペルシアによっての解放としての「光」。バビロンによって苦しめられたことも、キュロスに助けられたことも、すべては、世界の創造主である神の出来事だと言う。神は困難の時にも共におられ、そこから光の道に導いてくださる。だから、私たちの目の前の困難も、その闇も、その災いも、創造主なる神が造られていると言う。

私たちはどれだけ、この御言葉を受け入れているか。特に、今、目の前が困難で立ちふさがれている時、その困難が、神によるものであることなど、受け入れられないのではないか。自然災害や突然の事故や病気に見舞われる時、私たちは神を見失い、神の愛を感じ取れなくなるのではないか。そのような思いに答えをくれた詩がある。

病まなければ ささげ得ない祈りがある 病まなければ 信じ得ない奇蹟がある

病まなければ 聞き得ない御言葉がある 病まなければ 近付き得ない聖所がある

病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある

おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない

ここでは苦難が見事に恵みの出来事に変っている。「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです。」詩篇119・71(口語訳)という聖句を思い出させる信仰の詩である。

 

 

 

世界バプテスト祈祷週間を迎えて

世界バプテスト祈祷週間は、アメリカ南部バプテストのロティ・ムーン宣教師を記念して始められた。彼女は1873年、33歳の時から70歳で召されるまで37年間、中国での福音宣教に励んだ。彼女は「中国の人々の救いのために祈ってほしい、中国の人々の暮らしのために献金してほしい、中国に更なる宣教師を送ってほしい。」との願いを南部バプテストの女性たちに伝え、それに応えるかたちで、「ロティ・ムーン・クリスマス献金」の活動がなされた。その信仰を受け継ぎ、1931年に、日本バプテスト女性連合の前身である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきた。

現在、世界各地で下記の方々が宣教に励んでいる。6月に上尾教会で奉仕してくださった野口日宇満・佳奈インドネシア派遣宣教師は、神学校と教会に仕え、伝道者の育成に励んでいる。嶋田和幸・薫カンボジア派遣宣教師は、子ども伝道に尽くしているが、来年3月に8年間の働きを終える。国際ミッション・ボランティアの佐々木和之さんは、ルワンダの大学で平和学を教え、平和を担う若者を育て、恵さんは、和解と共生のためにツチ、フツの女性たちと「ウムチョ・ニャンザストア」を運営している。そこで生まれた素敵な製品をネットでも購入できる。17年間、タイ派遣宣教師であった日高嘉彦さんは、昨年「新・聖書ヘブライ語―タイ語辞書」を出版し、神学校で用いられている。今でも日本からオンラインでタイの神学生に旧約聖書を教えている。それぞれの国へ、必要している働き人を日本バプテスト連盟から派遣しているが、益々、働き人を送ってほしいとのリクエストが来ている。

「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝ることができよう。」ローマ10:14-15と語られるように、いつの時代も「宣べ伝る人」「遣わされる人」が必要である。そのために、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」Ⅰコリント9:23と語ったパウロのように、福音のために私たちも自分にできることを喜んで行っていきたい。それは、日々の生活の中で、福音を宣べ伝え、世界宣教の働きを覚えて祈りと献金を捧げることである。それによって私たちも世界宣教につながることができる。女性連合は今年度、目標献金額を3,500万円とし、上尾教会の女性会は、15万円の献金目標額を掲げ、惣菜バザーも行い、祈りつつ捧げて行きたい。