Year: 2022

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平和月間に思う          教会員

八月は平和月間である。普段、深く考えることの少ない平和について思い巡らしたい。今年は特にロシアのウクライナ侵攻によって、戦争の悲惨さを改めて知ることになった。なぜ戦争や争いが起きるのか?話し合いや外交努力によって解決できないのか?いつも疑問に思う。

4月から東京バプテスト神学校の公開講座、山口里子さんの「虹は私たちの間に」を受講している。虹は平和の象徴である。イエス・キリストが生きた時代、その社会はどんなものだったのか、「イエス運動」がどのように誕生していったのか、めざすものは何だったのか、いろいろ考え思い巡らす機会を与えられている。

当時はロ-マ帝国が広大な領土を所有し皇帝の権力も絶対であった。帝国の支配下にあるユダヤでイエスは誕生した。皇帝を頂点とするピラミッド型の家父長制度の下では支配層は一部の男性エリ-ト達だった。女性を含む一般庶民は差別、抑圧に苦しんでいた。また、奴隷制度も存在していた。「イエス運動」といわれる最初期のキリスト教共同体(エクレシア)は民族、身分、性別の違いに関わらず、誰でも共同体に参加し、発言権を持つというラジカルな平等主義を実践する集まりだったという。それ故に差別や抑圧に痛みや憤りを感じ、また、そのような状況に抵抗して生きようとする人々にとって共同体は大きな支え、励ましだった。「イエス運動」は小さな集まりからキリスト教に発展し、帝国の国教となっていく。(ただし、内容はかなり変えられていく)

イエス・キリストによって示された神様の愛は、抑圧された人たちと共に歩み、共感し、共に苦しみ、あらゆる人々(女性や性的少数者を含む)を受け入れるものだった。イエスにおいては差別も偏見もない。現代の私たちは、この最初期のキリストが示された神様の愛から、遠く離れてしまったように思う。もう一度キリストの愛を心に深く受け止めたい。最初期のエクレシアには多くの女弟子がいた。男性編集者が聖書を編集する過程で、いつのまにか変えられていったらしい。マグダラのマリアは優れた女弟子であったにも関わらず、悔い改めた売春婦にされている。

神様の愛の広さ、高さ、深さを思い、ささやかであってもキリストに倣う生き方をしていきたい。それが平和を実現する道であると思う。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ3:28

 

 

 

2022年の平和月間     教会員

例年8月は平和月間として守り、かつては実際に戦争の時代を体験された方々からお話を伺う機会もあった。8月は広島長崎への原子爆弾投下があり、日本の終戦(敗戦)があった月で、実際にその時を体験された世代の方々には感慨深いものがあるに違いないと思う。

今年で1945年から77年目の夏となった。私のような“もうすぐ高齢者”世代ですら実際に戦争の時を経験せず、映像、本、伝承をもってしか知らない。戦後の平和な国に生まれた世代として、「平和でない」世界というのは何か他人事に近いような感覚が自分にも今まであったのではないかと思う。

ウクライナへのロシアの侵略が起きてもう半年となる。現代のようにデジタル技術が進展し、個人が目の前で起きている事実をそのまま瞬時に世界に伝えられる時代では、技術は争いをも抑止できるのでは?との期待も持っていたが、独裁者の愚かな暴力の下には、それも幻想であったことを思い知らされた。

何のために争うのか?自国の領土のため?自国の経済が脅かされるから?自分の力を誇るため?自らが食べられない、生きていけないから?…おそらくそこには、本当に最低限必要なもののためでは無く、「共に生きる」ことを忘れた人間が、自らの中に存在する「欲望」「悪」のために争うのではないか?と思う。

脱線するが、昨年より畑を借り有機農業の真似を趣味で始めたが、時として目にも見えない程の小さな種から作物が実り、人間の食物となるとは、何という神の恵みであり、また平和の礎なのだと感じることもあり、感謝して頂いている。

私たちに与えられているものを主に感謝し、主に依り頼むとき、そこから自からの内なる平和、また他者、他国との間の平和が与えられるのではないだろうか?

先の戦争の犠牲により与えられた、この国が守り続けている平和憲法、争いをすべて避け、武力を放棄し、平和を求め続ける…ということは簡単ではない。単なる理想、絵空事、という声も特に今年になってから社会で強まったかもしれない。しかし、歴史において強大であった帝国の殆どが、歴史の下で滅びたことを思えば、己が力、己が知恵のみを頼みとすることの浅はかさが想像でき、聖書の語る「主にある平和」の大切さが理解して貰えるのではと思う。

福音書でイエス様は「あなたがたに平和があるように」と何度か語られ、パウロも書簡の中で「(イエスキリストからの)恵みと平和があるように」と語っている。キリストにある平和を常に受けて日々を歩みたいと思う。

マインド・コントロールとは

今月、連合牧師・主事会の折り、参加していたある牧師が青年時代に統一教会に入り、40万円もする印鑑を借金してまで買わされたことを話された。その時は、これが神の喜ばれることだと不思議に思わなかったが、今にして思えば、自分でも気がつかないうちに他の価値観をすべて否定し、教祖だけを全面的に信頼してしまうマインド・コントロールの恐ろしさに陥ったとのことである。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、マインド・コントロールを巧みに利用して勧誘する。まず「あなただけに伝える」「せっかくいい先生が来ているから」「月にたった1回しか会えない人だ」などと希少性を強調して「1時間だけどう?」などと声をかける。そこから団体名を言わないうちに、教義が教え込まれていく。それでも怪しいと感じて誘いを断ると、今度は「あの時、こう言ったよね」「約束したよね」と持ちかけて、話が違うことを責める。こうして人間の心理を巧みに利用した挙げ句、「恐怖説得」を仕掛けてくる。「せっかく宗教的指導者に会えたのに」「こんなに大事な教えを知ったのに」という、いかにもおもんばかる言葉から「ここで辞めたら地獄に堕ちる」「○○さんはここで辞めて事故にあった」などと脅して、抜け出せなくする。そして、偉い先生が推薦していると宣伝する。9月に安倍氏の国葬が決まったが、「日本の国葬になった人も教祖様に敬意を表しているのよ」「だから家や土地を売ってでもお金を寄付しましょうね」と言って勧誘してくるに違いない。安倍氏の国葬でもっとも得をするのは旧統一教会かもしれない。

聖書は、人の心を恐怖心で支配するマインド・コントロールは否定するが、マインド(心)をコントロールすることについては語っている。それは、神の霊において悔い改めて新しくされること、罪に支配された人生に代わり、キリストによってもたらされる自由と喜びと希望に満ちた生活に変えられることである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」マルコ 12:30この「精神を尽くし」という言葉は、聖書協会共同訳では「知恵を尽くし」と訳す。つまり「考え、理解し、判断する知力の全てを尽くして神を愛しなさい」という意味である。このように見てくると、知性は信仰生活上、重要な要素の一つである。「知識がなければ信仰は迷信に移りやすく、信仰がなければ知識は冷淡に終わる」と内村鑑三は言う。知性を欠く時、信仰は迷信に落ち入りやすいことを肝に銘じたい。

希望に満ちた慰めの書「イエス・キリストの黙示」

「聖書日課」は新約聖書の最後の「ヨハネの黙示録」に来た。黙示録を読み始めると、難しい、分かりにくいという印象を持つのではないか。その主な原因は、黙示文学というわかりにくい形式で書かれているからである。「黙示」とは、覆いを取り去って、隠されていたものを明らかにするという意味である。人間が直接知ることのできない世界の始まりや終末、神の意志を、例え話で説明する形式である。

著者のヨハネは、当時迫害に遭い、エーゲ海の孤島パトモス島に流されていた。ある日、ヨハネは神の啓示によって未来の出来事を目にし、あらゆる災い、戦乱や飢饉、大地震などを記し、天使と悪魔の戦いや最後の審判の様子も記す。又、象徴的な数字や生き物が幾つも出てくる。最も有名なのは、獣の数字とされる「666」(13:18)。映画や小説で悪魔を指すとされるこの数字が、「ヨハネの黙示録」では具体名の記述はないものの、人間を指していると記される。その筆頭候補は、暴君として有名なネロ帝(在位紀元54~68年)。ネロの名前をヘブライ文字で表し、それを置き換えた数字を全て足すと「666」になると言われる。ほかにも、淫乱な女性の姿で表された「大淫婦バビロン」は、首都ローマを示しているとも言われる。

「ヨハネの黙示録」が、当時迫害を強めていたローマ帝国から各地の信徒を励ます目的で書かれたとすれば、信徒にはわかるが、ローマ人にはわからないようにするために、黙示文学が使われたのである。しかし一方で、「ヨハネの黙示録」に書かれていることは文字通り全て真実で、書かれている通りに世界の終末が遠からず来ると信じる人々が今でも後を絶たない。核兵器やテロの恐怖、新型コロナウイルスなどの疫病、地球温暖化などの環境問題、現在、世界が抱える問題は、その証拠だと考えるのだが、そのような文字主義に陥ることは、正しい理解とは言えない。

この書の目的は、苦悩する同時代の人々の「私たちの苦しみに意味があるのか」と言う問いに答えようとしたのであり、多難な出来事は決して無意味な悲劇ではなく、歴史の背後にあって、それを必ず完成させる力のある神の摂理の鎖の一環であること、各自には救いの歴史の完成に寄与する生き方があることを教え、主への信頼のうちに、その愛に踏み留まるように励ますことである。このことを私たちの中に留めることが出来た時、「ヨハネの黙示録」は、恐怖の終末を告げる予言書ではなく、希望に満ちた慰めの書「イエス・キリストの黙示」(1:1)であることがわかる。

逃れる道をも備えていてくださる神

私たちの人生には、自分の力ではどうにもならないことが沢山あるのではないか。重い病に侵される、良好な人間関係が失われる、仕事を失い経済的に破綻する、など、奈落の底に突き落とされることがある。その時は、誰しも健康な時の自分に戻りたい、良好な人間関係を築きたい、仕事に復帰して経済的に安定したいと、もがくのであるが、もがけばもがくほど、状況は悪くなり、希望や平安を失うことはないか。

そんな時、星野富弘さんの言葉を思い出したい。星野さんのは怪我をして全く動けないままに将来の事を思い悩んだ時、ふと、「激流に流されながら元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか。流されている私に今出来る一番良い事をすればいいんだ。そのころから、私を支配していた闘病という意識が少しずつうすれていったように思っている。歩けない足と動かない手と向き合って、刃をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。」と語る。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか。流されている私に今出来る一番良い事をすればいいんだ。」と気づき、口に筆をくわえて、花の絵と詩を描くようになった。

実は、流されることによって星野さんは、あんなに速かった流れも、私をのみこむほど高かった波も静まり、毎日眺めている渡良瀬川に戻ってしまったのである。下流に向かってしばらく流され、見はからって足で川底を探ってみると、なんのことはない、もうすでに底は私の股ほどもない深さの所だった。私は流された恐ろしさもあったが、それよりも、あの恐ろしかった流れから、脱出できたことの喜びに浸った。」と、喜びを見い出すのである。

私たちも、「激流に流されながら元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿」に困惑することがあるが、かつての自分に戻ろうとしなくてもよい、流れに任せればよい。主は必ず、浅瀬に導き、試練から逃れるの道を備えてくださる。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」コリント10:13。試練と共に、逃れの道も、神がその時その時に与えてくださる。何故なら、「神は真実な方」愛する独り子を十字架につけてまで、私たちを救ってくださったからである。何とかしようと自分の力でもがくのではなく、この真実な神を信頼して、信仰の道を歩んでいきたい。