Month: 11月 2021

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世界バプテスト祈祷週間を迎えて

世界バプテスト祈祷週間は、アメリカ南部バプテストのロティ・ムーン宣教師を記念して始められた。彼女は1873年、33歳の時から70歳で亡くなるまでの37年間、中国での福音宣教に尽力を注いだ。彼女は「中国の人々の救いのために祈ってほしい、中国の人々の暮らしのために献金してほしい、中国に更なる宣教師を送ってほしい。」との願いを南部バプテストの女性たちに伝え、それに応えるかたちで、「ロティ・ムーン・クリスマス献金」の活動がなされた。その信仰を受け継ぎ、1931年に、日本バプテスト女性連合の前身である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきた。

現在、様々な困難に出会いながらも世界各地で下記の方々が宣教に励んでいる。インドネシア派遣宣教師として野口日宇満・佳奈夫妻、カンボジア派遣宣教師として嶋田和幸・薫夫妻、アジア・ミッション・コーディネーターとして伊藤世里江シンガポール国際日本語教会牧師、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之・恵夫妻が働いている。『国外伝道ニュース』に「コロナ感染の収束を願ってきましたが、今年も感染が継続しています。この間、国外伝道の働き人もまた、幾度も訪れる感染の波によって制限を受けながら活動や生活を続け、現在それぞれの状況の中で過ごしています。交流や人の派遣という他の国外伝道の働きにも制限がかかりました。その中でもオンラインでアジア太平洋や世界につながる経験も続けています。世界が苦闘するただ中で、何よりも祈りでつながることができますようお祈りしています。」と記されていた。

「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝ることができよう。」ローマ10:14-15と語られるように、いつの時代も「宣べ伝る人」「遣わされる人」が必要である。そのために、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」1コリント9:23と語ったパウロのように、福音のために私たちも自分にできることを喜んで行っていきたい。それは、日々の生活の中で、福音を宣べ伝え、世界宣教の働きを覚えて祈りと献金を捧げることである。それによって私たちも世界宣教につながることができる。女性連合は今年度、目標献金額を4,000万円とし、私たち上尾教会の女性会は、18万円の献金目標額を掲げたので、献金を捧げ、惣菜バザーの収益を捧げたい。又『世の光』10月号の祈祷週間の祈りの課題に沿って、共に祈りを捧げていきたい。

 

 

 

主につながって生きる群れ  

聖書日課で、ヨハネ福音書から御言葉を聴いてきたが、その中でわたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネ15:5という主の言葉が、私の心に深く残った。

私たちは「枝」として主というぶどう木につながる時に、主から命や愛、恵みや祝福を頂いて、豊かな実を結ぶことができる。主と私たちとの関係は、木と枝という深いつながりの中にあるが、その関係に安住せず、積極的に「主につながっていなさい」と主は言われた。私たちが豊かな実をつけるには、日々、主につながっていることが求められている。辛い時、悲しい時、試練の中にある時、絶望の淵にある時、いかなる時も主から離れず、御言葉に聴従して、主につながっていることである。

では「主につながる」とはどういことか。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」同15:9、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」同15:12、と教えられたように、主につながるとは、主の愛に留まり、その愛によって互いに愛し合うことである。もちろん、私たちは罪人であり、自分の力では愛することはできない。ここで主は、驚くべきことにご自分の方から「わたしもあなたがたにつながっている。」同15:4と言われた。主が私たちにつながっていてくださるからこそ、私たちも主につながることができる。だからこそ、主の愛に留まり、互いに愛し合うことができるのである。

上尾教会は、「主につながって生きる群れ」であることを最近つくづくと感じている。高齢化が進み、自分の足で礼拝に来ることが難しくなってきている人も多い。そこで、送迎をしたり、訪問をしたりしながら、支え合う交わりが生まれている。又、コロナの影響もあって、施設や病院におられる方は、教会に来ることができない。そこで、礼拝をライブ配信し、又、ラインで励まし合っている。それも個人ではなく、チームで支え合っている。互いに愛し合うということは、互いに仕え合うことであるが、それが上尾教会の中で実践されていることは嬉しい。この主の愛の業は、教会の外にいる人々まで広がっている。世のすべての人が主の救いの対象であり、神の愛の対象である。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ヨハネ3:16。「主につながって生きる群れ」として、主の愛を証していきたい。

 

毎週の礼拝こそ、子ども祝福式

今日、「子ども祝福式」を迎えたが、この式は子どもが神の祝福にあずかるだけではなく、子どもを通して、両親も教会も祝福にあずかる時である。それは神の祝福にあずかった「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」ルカ2:40ことを一緒に経験し、将来、神と人に愛される立派な信仰者に育つ姿を見るからである。幼児期に植え付けられたものは、生涯の人格を決定づける。この大切な時期に、御言葉と祈りをもって子どもを育てることが求められている。そうすれば、子どもの人生に試練が押し寄せてきても、そこから逃れる術を見出すであろう。「若者を歩むべき道の始めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」箴言22:6

『教会の約束』には、「神よりあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え育て」とある。これは決して親たちだけの誓約ではない。教会全体の誓約である。その意味で、教会の中で私たちは皆、子どもを託されている。「わたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」マルコ10:14と主は命じられ、子どもたちを御許に招き、祝福された。教会は、「神に礼拝を捧げる信仰の共同体」であり、子どもたちは神の家族のかけがえのない一員である。子どもたちも礼拝を通して、御言葉の恵みと祝福にあずかる権利を持っている。礼拝は、子どもにとっても神との出会いの場になり、信仰が育まれる場となる。

他の教会の方が私たちの教会に来て驚かれることは、子どもたちが礼拝の中で大人と同じように、いやそれ以上に、奉仕をしている姿である。賛美リーダー、献金の祈り、OHP係り、特別賛美、証、司会・・・。子どもたちは礼拝に招かれているだけではなく、奉仕の場が与えられている。子どもたちが奉仕することによって、信仰は大きく成長し、信仰の共同体の一員としての役割と立場を自覚するだろう。

子どもたちの礼拝出席を整えていくためは、日々の家庭礼拝が鍵となる。我が家も子どもが幼い頃から、「親子聖書日課」を用いて、家庭礼拝を捧げてきた。その甲斐があって、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」マタイ22:37との主の第一の掟を子どもたちの心に刻むことができたと思う。子どもの幸せを願うなら、まず神を愛し、そして隣人を愛することを教えなくてはならない。子どもと日頃から聖書に親しみ、一緒に礼拝を捧げることによって、信仰告白に導かれる日が来るだろう。毎週の礼拝こそ、子ども祝福式と言える。

「聖書日課」に親しむ恵み

「ビジョン」に記された「上尾教会50周年の恵み」を読んで、たくさんの主の恵みに気づかされた。その中で、皆さんが『聖書日課』に親しんでくださっていることは嬉しい。「毎朝聖書を『聖書日課』にそって読むこと。祈ること。」「寝る前には、家族で聖書の朗読が日課となっていました。目をこすりながら、家族で一緒に聖書を朗読したことも、今では大切な習慣だったと感じています。」「家で聖書を読みますと、教えてくださること、考えさせられることがたくさん書いてあります。」「最高の恵みは、キリストの体としての教会の部分として召し集められた一人一人の成長が、『親子聖書日課』によって育まれていることではないかと思います。」「『聖書日課』これこそ上尾教会の宝である。」

『聖書日課』を通して、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」詩編119:105となり、「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。」エレミヤ15:16となっている。日々、御言葉に慰められ、励まされ、導かれ、問いかけられ、生き生きとした信仰が養われている。トマス・ア・ケンピスは『キリストに倣いて』の中で、「聖書の中に求めるべきことは、真理であって雄弁ではない。…ただ純粋な真理への愛にひかれて読むべきである。誰がこれを語るかを問うことなく、何が語られるかに心をとめなさい。」と記したが、主イエスならどう生きられるか、その答えを求めながら御言葉を聴くことが大切である。すると、必ず、最善の道が開かれる。

瞬きの詩人と言われた水野源三さんは、「朝静かに この一日の御恵みを祈りおれば わが心にあふれくる 主イエスにあるやすらぎ」と歌った。重い障害を抱え、自分一人では、体を動かすことができず、横になれば横になったまま、座れば座ったままの一日。しかし、そのような日々の中で、毎朝、御言葉を聴き、祈り、主と親しく交わった。「わが心にあふれくる 主イエスにあるやすらぎ」は、健康で順風満帆に進んでいるからではない。ただ御言葉を日々聴いて、主に従うところから生まれる。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」哀歌3:-22-23。その主の慈しみ、主の憐れみを朝ごとに経験するためには、朝めざめた時に、まず御言葉に聴き、祈ることである。すると、この主の恵みが注がれる。「アシュラム」では、「朝の15分があなたを変える!」を合言葉にしているが、本当に変えられる。『聖書日課』を用いて、「主イエスにあるやすらぎ」に与ろう。

聖書朝の祈りのときを持ちましょう。