Month: 8月 2021

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平和は「憐れみ」から始まることではないか?     教会員

国際結婚15年目、日本に住んで7年目の私にとって、毎年8月になると複雑な感情を抱きます。なぜかと言うと、今から76年前の8月、この国の人々は地球上、唯一の核兵器により沢山の方が犠牲になった国の悲しい国民になり、その反面、韓国は独立と共に、イデオロギーによって一つだった国・家族が二つの国・家族に分かれた悲しい国の国民になったということについて色々と考えてしまう時期だからです。

過去の私は、大学を卒業する時まで、今では私の第二の故郷であるこの国が嫌いでした。理由も分からず、この国の人も嫌いな人でした。思い返して考えてみると、たぶん「強い力を持つ人が弱い人の物を奪っても大丈夫だ」という思考のナショナリズムとインペリアリズム(帝国主義)が蔓延だったその時代に、強い国に主権を渡した弱い国で生まれた国民であったという理由だけで、相手国とその国の国民が嫌いだったのたと思います。

複雑な日・韓の歴史的な関係で、私たち夫婦は新婚の時、韓・日のスポーツ試合がある場合、お互いに成長環境、文化、教育、価値観の違いによって単純なスポーツ試合であるにもかかわらず意見のトラブルが多かったです。

現在の私は、心深く配慮してくれる沢山の日本人から、その時代の日本人の痛みを知り、その時代の韓・日の国民がお互いに可哀そうな存在だったこと、そして今でもそのままなのだと感じています。

このように憐れに思えたのは、神様が教えてくださった御言葉を通して、お互いに赦し合っていかなければならない関係であることと、両国の国民が愛されるために生まれた存在であることを分かるようになったからです。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」エフェソの信徒への手紙4章32節

서로 친절하게 하며 불쌍히 여기며 서로 용서하기를 그리스도안에서 너희를 용서하심과 같이 하라.에베소서 4 32

神様が私たちを「憐れみ」で愛してくださったように、人との関係や、国と国の関係で「憐れみ」を通して、相手を理解し、愛し、赦すことこそ、平和を守れる根幹になるのではないでしょうか?

 

 

 

正義と平和は口づけし…       教会員

8月15日、76年目の敗戦記念日を迎えるが、沢山の方たちの苦しみは今も続いている。これまで平和を願いながら色々な集まりに参加し、デモや座り込みや、沖縄の「辺野古新基地建設」反対のために首相官邸前でゴスペルを歌う会などに参加してきた。家族やキリスト者の友人や教会の人たちと声を掛け合いながら続けてこられた。小さな平和のための行動であった。

きっかけとなったのは、やはり、前の戦争について釈然としない思いがあったからである。日本の戦争が侵略戦争だったと思うのに、真実や謝罪の歴史が見えない不信感を感じていた。家族ができ子供が与えられると、夫や子供たちが国の都合で戦争に兵隊として取られるのは、絶対に嫌だと思い必死だった時期もある。折しも「靖国国家護持法案」が提出された時代と重なる(5年で廃案になったが)。現在でも国の正義や真実を見張るためには、国の動きから目が離せない。

これらの行動は、平和を祈る祈りの形だと思う。小さな行動でも、「私ひとりがこんな事をしても、何になる?」と自他ともにうっすらと感じることもある。しかし、ツチ族とフツ族の和解のために働いておられる佐々木和之さん(国際ミッションボランティアとしてルワンダへ派遣)の言葉の中に「私たちは、平和のために小さなことしかできないが、平和の主イエス様がそれを繋いでくださる」とあり、支えになっている。

この世界から紛争や戦争が消えることはないと、改めて感じた。これまでは、漠然と平和な世界を求めてきた。神によって、ちりから造られた人間に、創造された素晴らしい世界を「~すべてを支配せよ~」(創世記1:28)と命じられたが、罪に堕落し、神の命令に従い得ないものとなり、自己(の欲望)中心の末に、争いの絶えない人類になったためである。正義を問い、平和を願って歩いてきたが、終ることがないなら、もう歩いていけない!

しかし、聖書に「…正義と平和は口づけし…」(詩編85:10)「平和の君」(イザヤ書9:5)とある。すなわち、やがてイエス様が「平和の王」として統治なさる時がくると預言されている。私たち人類は神の命令「~すべてを支配せよ~」に従い得なく、争いが絶えないが、やがて必ず「平和の王」が統治するときが来るのである。何と素晴らしい時かと思う。その時を望みつつ平和を作っていきたい。「平和を実現する(つくる)人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

 

平和、川のように                教会員

「平和」を辞書で調べてみた。「戦争や紛争がなく世の中が穏やかな状態であること」とある。なるほど敗戦から76年間、この国は戦争をしない約束を守ってきた。でも、戦争のない平和なはずのこの国に暮らしている私たちは、果たして穏やかに過ごしているのだろうか。もう少し突っ込んでみようと思い「平」と「和」に分解してみた。

「平」→たくさんの解説の中で「偏りがない、傾斜がない」というのが目に止まった。

「和」→これもたくさんの意味があったが「性質の違うものが一緒に溶けあう」というのは興味深く感じた。

そして、両方の字に共通していた意味は「穏やか」だった。少しずつ私の中で漠然としていた「平和」の輪郭が見えてきた気がした。

神様は誰一人として同じ人間はお造りにならない。何十億という人間はみんなオンリーワンだ。もっと言うなら人類が始まって以来、誰かのリメイクだった人なんて一人もいない。それだけでも今在る命には必ず意味があると思わずにはいられないのだが、そんな膨大な数の性質の違う人間、命を神様は地球という一つの星で一緒に生きるようにと送り続けておられる。私の小さな頭では、そんなにたくさんの違う者同士が一緒になったらそりゃいざこざも起こるでしょ、と思うのだが、なんせ人知を遥かに超えた神様のなさること。神様ブランドのオンリーワンの命たちが送られる先の民族の持つ歴史や慣習はそれぞれ、肌の色も目の色も髪の毛の色もそれぞれ、思考が似ている人もいれば違う人もいる。また、一人ひとり神様からプレゼントされている得意な事もいろいろだ。勉強だったり運動だったり、音楽や美術、料理や掃除、ダンスやお笑い…挙げたらキリがない。そしてお金をたくさん持っているとかいないとか、住む家があるとか無いとか、心身の病気や障害があるとか無いとか、ありとあらゆる違いを持ったオンリーワンたちが偏らないで混ざり合いながら、時に混ざり合うことでその命はもっともっと豊かに生きる。神様はそう期待し続けておられるのではないだろうか。偏りがなく性質の違うものが一緒に溶けあう、そんな「平和」が人々の間を川のように尽きることなく流れて命を成長させてくれますように。

「平和、川のように 心に」

私にとっての平和           教会員

「平和」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。戦争、苦しみ、笑顔、子ども、家族、・・・。人によって思い浮かべることは違うと思います。小学生に聞くと、戦争がなく普通の生活を送ることが平和だと感じている子が多いです。学校では、国語の教科書に戦争を題材にした物語が載っていたり、社会の授業で歴史について学んだり、資料館などへ見学に行って話を聞くなど、戦争や平和について考える機会があります。戦争していた時代の世の中の考え方、人々の暮らし、子どもたちの生活など、現在との違いに驚き、命の尊さについて考え、戦争のない現在が平和であると実感します。私もそうして平和学習をしてきました。

しかし今、「平和」と聞いて、私は一番に「神様」を思い浮かべました。戦争などのすべての争いは一人一人の小さな醜い感情から始まり、広がっていくと思います。自分にも醜い感情があり、他者を傷付けてしまうことや、自己中心的な考えで行動することがあります。教会や神様から離れる時期もありました。しかしそんな私でも礼拝に導かれ、聖書の言葉と向き合い、賛美をすると、崩れていた心が落ち着いていくようでした。幼いころから神様を信じ、神様に繋がっていた私は、平和とは自分の心が平穏である状態、「心の平和」と感じるようになったのです。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」ルカによる福音書6章20~21節

神は私たちの心に寄り添い、満たしてくださる方です。そのことに気づいた時、心の平安を感じ、すべてを委ねて生きていく決心がついたように思います。自分の心が乱れて平穏でない時も、神に祈り求めていきたいです。自分だけでなく、家族や友人、そしてすべての人が「平和」と聞いて、「神様」を思い浮かべるようになることを祈ります。