Month: 7月 2021

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「教会の約束」を心で唱えよう!

「わたしたちは神の恵みによって、イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けて、主の教会に加わったので、聖霊の導きによって、喜んで互いにこの約束をいたします。

わたしたちは、主にある兄弟姉妹の愛をもって愛し合い、互いの喜びと悲しみを分けあいます。

わたしたちは、教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。主の日の礼拝、そのほかの教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります。わたしたちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典、また聖書の教えと、教会の定めた秩序を守ります。

わたしたちは、この教会をささえ、全世界に主の福音をのべ伝えます。そして、神のみ旨の行われるために喜んで献金をいたします。

個人的な祈りと、家庭の礼拝をつとめ、神よりあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え、また、隣人を救い主に導くため、よい証しをたて、主と会う日まで、この約束を固く守ります。」

私たちの教会は、コロナ感染症が流行する前まで、月に一度、主の晩餐式の時、主への献身と会員相互の交わりが確かになることを願って、上記の『教会の約束』を斉唱してきた。今、改めて、この内容の豊かさに気づかされている。私たちは、ひとりでは生きることはできない。お互いの愛を必要としている。「喜び」は分かち合うことによって大きくなり、「悲しみ」は分かち合うことによって軽くなる。このコロナ禍において、お互いの愛によって、どれほど支えられて来ただろうか。

上尾キリスト教会は、今年、開拓50周年を迎えたが、「人によって成ったもの」なら、とっくに消滅していたのではないか。しかし、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカ12:32と約束してくださったように、「神によって成った」からこそ、神の国の実現をたくさんの恵みを通して見ることができた。

「主の日の礼拝、そのほかの教会の諸集会につとめて出席」できることは、あたり前ではなく、大きな恵みである。対面での礼拝も、またオンラインでの礼拝も出席ができない方がおられる。一緒に礼拝が捧げられる日の来ることを待ち望んで、祈りたい。そして、「この(上尾)教会をささえ、全世界に主の福音をのべ伝え」たい。このコロナ禍において、『教会の約束』を斉唱できなくても、心の中で唱えよう!

 

むしろ自分の弱さを誇りたい

今日の社会は、とても生きづらい時代である。コロナ感染症が続く中で、年間の自殺者数は2万人を越え、引きこもりの人は 115万人に上ると言われる。ひきこもっている人たちが抱える苦悩は計り知れない。「社会に居場所がなくてつらい」「自分はダメ人間だ」「外に出たいこともあるけど、人の目が気になって出られない」「なまけていると思われるのがいやだ」といった声が聞かれ、自分の存在を否定して苦しむのである。

しかし聖書を読む時、自分の弱さをむしろ誇ってもよいことに気が付く。パウロは、「自分の弱さを誇りましょう」「私は弱いときにこそ強い」Ⅱコリント12:9-10と語る。パウロ自身、大きな病を持っていたと考えられる。それが、てんかん、眼病、マラリア等であったかは定かではないが、パウロがその病について「とげ」とか「サタンの使い」と表現していることから想像すると、とてもつらい病であったことは確かである。

彼は病が伝道者としての仕事にとってもマイナスだと考えて、病の回復を真剣に主に祈った。すると、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」Ⅱコリント12:9と語られた。「私の恵みはあなたに十分である」とは、彼が望んたように病が治ることではなかった。それは、病を患うことによって、自分を誇ることが出来ず、ただ神を頼って、謙虚に生きる他はなかったのである。

パウロは病を患うことによって、また他者の苦しみを自分の苦しみとすることが出来た。この「神の前の謙虚さ」「隣人に対する共感」を持つことが出来たことこそ、人間として一番大切なことではないか。彼の肉体のとげ、病は彼の絶望の理由とはならず、神の恵みの働く場所となった。マイナスがプラスに変わったのである。

星野富弘さんの詩はそのことを教えている。「私は傷を持っている。でも、その傷のところからあなたのやさしさがしみてくる。」「喜びが集まったよりも悲しみが集まった方が、幸せに近いような気がする。強い者が集まったよりも弱い者が集まった方が、真実に近いような気がする。幸せが集まったよりも不幸せが集まった方が、愛に近いような気がする。」

本当に強い人、それは神の前で自分の弱さを知った人である。本当に美しい人、それは神の前で自分の罪の深さを知った人である。これが、主の福音の逆説の真理である。パウロのあの強さは、彼の弱さの中にあったのである。主への信仰には、マイナスをプラスに変える力があることを知って、私たちもむしろ自分の弱さを誇りたい。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

「神の国運動」の担い手になろう!

洗礼者ヨハネの宣教の第一声も、主イエスの宣教の第一声も、「悔い改めよ。天の国は近づいた」マタイ3:2、4:17であった。イエスの宣教活動は、洗礼者ヨハネの行っ

た「神の国運動」を継続したともいえる。しかし、ヨハネの行っていた「神の国運動」をそのまま継続したのではなく、イエス独自の使命に基づく「神の国運動」を展開した。それは、ヨハネが行った「神の国運動」は、「裁き」が中心であったに対して、イエスの行った「神の国運動」は、「赦し」が中心であったと考えられる。

ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」マタイ3:8「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」3:10と言って、義人として歩むことのできる人々にとっては救いとなり得るが、そのように生きることのできない社会の底辺、最下層の人々にとっては、ヨハネの言葉は恐ろしい「裁き」の言葉に聞こえたのではないか。

イエスは、そのことに気付く。そして、どのような人も神に愛されている者として生きていけるということを示すために、社会の底辺、最下層の一人一人の心と体をいやしていくという活動を展開された。社会から差別され、排除された人々は、ヨハネが荒野に留まっている限り、ヨハネのもとに行くことができなかったのに対して、イエスはむしろ、これらの人々のもとに自ら出て行かれた。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」マタイ9:35。イエスの宣教は、病人をいやし、悪霊を追い出すという力ある業をもって、神の国の福音が、生の全領域に及ぶことを示された。ルカ9-10章を見ると、12弟子に、更に、72人の弟子に、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気をいやすための権能を授けている。その務めは、今日の私たちにも託されている。代々の教会は、病院や福祉施設を作って、宣教の働きを担ってきた。

「神の国運動」と言えば、賀川豊彦を思い出す。賀川豊彦は若き神学生時代、神戸のスラムに身を投じて貧しい人々の救済に専念し、壮年時代には、労働組合運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合共済運動に献身し、生涯を通じて「神の国運動」に力を尽くした。そこには「群衆が飼い主のいない羊のよ

うに弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」マタイ9:36との主のまなざしが彼にも与えられたからではないか。神の国の福音に与った私たちも、「神の国運動」の担い手になりたい。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21

家族の救いのために執り成す

「あなたの願いは何ですか」と質問すると、「夫(妻)が救われることです。子どもが救われることです。」という返事が返ってくることが多い。家族の救いほど大きな願いはない。しかし、同時に、家族の救いほど困難に感じることはないという方も多い。しかし、安心してほしい。主イエスもまた「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とヨハネ4:44と言われ、家族伝道に苦労されたのである。

むしろ、聖書を読む時、家族の救いのために執り成す者があれば、神は、その家族全体を救済されるという箇所がたくさんあることに気が付く。例えば、アブラハムが、正しい者が悪い者と共に滅ぼされるのかと神に問うた時、神は、ソドムのために執り成す正しい者が少数でもいれば、ソドムの町は滅ぼさないと言われた。パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒言行録16:31と語り、また「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。」1コリント7:14と語って、家族の一人が救われることは、その救いが家族全体に及ぶことを示している。

平山正美先生は、『ともに生きる家族と信仰の継承』の本の中で次のように語る。「これまで、プロテスタント教会は、どちらかというと、信仰問題を取り上げるにあたって共同体よりも個人の決断と責任を重んじる傾向が強かったと言えるのではないだろうか。日本では、まだ家族ぐるみでキリスト教に帰依しているクリスチャンホームは少ない。そのため信仰告白がはっきりしていない家族の一人が死んだ時、その人はどうなるのだろうかということがよく問題になる。私の周囲にも、牧師から『あなたは、クリスチャンだから天国に行けるとしても、ノンクリスチャンの親子、兄弟は地獄に行く』と指導されうつ病になった人がいる。個人の信仰を家族共同体と結びつけず、独立したものと捉えると、このような結論になる。しかし、聖書における救いの対象は、個人よりも家族共同体の方に重点が置かれているように思えてならない。勿論、神はその中核となる個人の信仰と責任も問われるであろうが。」

家族の救いのために執り成していれば、例え、家族が信仰告白をすることなく召されたとしても、失望することはない。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」Ⅰペトロ4:6。主は死んだ人にも福音を告げ知らされる「セカンドチャンス」があるとの約束は、私たちに大きな希望をもたらしてくれる。