Month: 5月 2021

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救いの喜びを伝えよう!

主の弟子たちが聖霊の力を頂いて、主を大胆に証ししたように、私たちも証しすることが求められている。しかし、証しを頼まれた時、自分はクリスチャンとして立派な生き方をしていないから、とても証しなどできないと敬遠することはないか。しかし証しは、自分の立派な生き方を語ることではない。自分の内に、主がどんなことをしてくださったか、その救いの喜びを伝えることである。悪霊に取りつかれたゲラサ人が主に癒された時、主は「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない。」マルコ5:19と言われた。

大宮溥牧師も『教会生活の手引き 伝道』の中で次のように語る。「証しというと、何か劇的な回心の経験や、生きるか死ぬかという危機的な状況を信仰によって乗り切ったというような、特別な話のように考える人がありますが、それは間違いです。もちろん、そのような劇的な経験も、神の大きな恵みの証しになります。しかし証しをそれだけに限定してしまうと、大多数のクリスチャンは証しができなくなってしまいますし、その上、証しを聞く方でも、なるほど立派なことだけれども、自分たち凡人にはとても及ばないことだという印象をもつのではないでしょうか。証しは自分の宗教経験を発表することに目的があるのではなく、自分に与えられた神の導きと恵みを語ることです。ですから、人間としては隣人と変わらない、弱さや破れのある普通の人間であることをいつも自覚していなければなりません。そのような人間としての共感、あるいは人より劣り、欠けの多い自分であることを率直に認める態度を持つ時、隣人は親近感と共感を持つのです。そのように人間的には特に優れているわけではない我々に、慰めとなり励ましとなり、あるいは叱責として、神の働きかけが与えられます。」

なぜ、『アメージング・グレース』という賛美歌が世界中の人々に親しまれているのだろうか。それは、作詞者のジョン・ニュートンの飾らない信仰告白が記されているからである。彼は奴隷船の船長として、アフリカから奴隷をヨーロッパに輸送して莫大な富を得ていた。しかし、嵐に遭遇して生死の境をさ迷った時に、主に助けられる経験をした。その時、自分の犯してきた罪に気づき、悔い改めて主を信じるのである。そして、牧師となり、主の深い愛を人々に伝える生涯を送るのである。

『アメージング・グレース』の一節は、次のような内容である。「何と美しい響きであろうか。私のような者までも救ってくださる。道を踏み外しさまよっていた私を、神は救い上げてくださり、今まで見えなかった神の恵みを、今は見出すことができる。」

私たちの上にも聖霊が降る

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

使徒言行録2:4。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ「三大祭」と言われながら影が薄いのは、2千年前の出来事にしてしまっているからではないか。しかし、ペンテコステの日に弟子たちの上に降った聖霊は、今日の私たちの上にも降っている。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」同1:8という主の約束が実現していくのを見るのである。

ペンテコステは、「伝道の始まり」と言える。主の救いを、直接主と生活を共にした弟子たちだけの出来事に終わらせず、世界中の人々に関わる出来事として語り広める伝道の働きが、この時から始まった。その意味で、ペンテコステの日に弟子たちが「ほかの国々の言葉で話しだした」とあることは大変重要である。ウィクリフ聖書翻訳協会では、新約聖書のみの翻訳が完成した言語は、1550に迫る勢いだが、しかし世界には7千以上の言語があり、世界の5人に1人は、母語で聖書を読むことができない。聖霊の働きによって、更に多くの言語に翻訳されることを期待したい。

ペンテコステは、「バプテスマを決心し、教会に加わる時」とも言える。時々、「私のような罪深い人間は、皆さんのように立派なクリスチャンにはなれない。」「私のような不信仰な人間は、とても救われることはできない。」という声を聞くことがある。その時、福音が相手の心に届いていないと感じる。私たちは罪深く、不信仰な人間であるからこそ、主の救いが必要なのであって、自分の力で主の教えを守ることはできない。だから、ペンテコステの日のペトロの説教は、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。」同2:38であった。

ペンテコステは、又「教会の誕生日」とも言われる。聖霊が降った弟子たちは、神の力によって結ばれ、新しい共同体となった。この時、弟子たちの集まりはただの集団ではなくなり、互いに深い絆で結ばれた共同体としての「教会」が生まれた。それは弟子たちだけの閉ざされた共同体ではなく、伝道によって絶えず新しい仲間が加えられていく、民族や文化、性別をも超えた共同体であった。「汝の敵を愛せよ」と言われた主は、「十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2:16。報復ではなく修復のために、福音は全ての人に必要である。それ故、福音を特定の民族、特定の地域だけに留めることなく、「地の果てに至るまで」伝える使命が私たちにはある。

 

逆境にはこう考えよ!

人生には「3つの坂」があると言われる。1つ目は「上り坂」。順調に歩んでいる時で、成績が伸び、実績が上がっている時のことである。その時は「嬉しい時」である。2つ目は「下り坂」。今度は逆にうまくいかない時で、成績が落ち、実績が下降している時のことである。その時は「悲しい時」である。3つ目は「まさか(坂)」。人生には「まさかこんなことが起きるなんて‥」という時がある。突然の事故で身内を失ったり、信じていた人に裏切られたり、良かれと思ってしたことが、かえって悪い結果を生んだりした時のことである。その時は大変「辛い時」である。この「まさか」は急に出現し、予測不可能である。その時、私たちは奈落の底に突き落とされる。

この3つの坂は、私たちが人生を歩んでいる限り、必ずといっていいほど出合う。「下り坂」や「まさか」だけは、避けて通りたいと願っても、自分の都合でどうにでもなるものではない。私たちは、この「下り坂」や「まさか」も引き受けながら生きていかなければならない。私たちは「上り坂」の時、自分の力を過信し、うぬぼれてしまってはいないだろうか。「下り坂」や「まさか」の時、「自分なんてどうせだめだ」と投げやりになり、「神も仏もあるものか」と怒りの矛先を神に向けてはいないだろうか。しかし、コヘレト書には、順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。」7:14記されている。

アウシュビッツ収容所の経験を書いた『夜と霧』の著者ビクトリア・フランクルは、「それでも人生にイエスと言う。」「それでも人生にイエスと言う。」と記す。前者の意味は、「たとえどれほど逆境に追い込まれたとしても、私はその逆境を引き受けて生き抜こう。」それに対して後者の意味は、「たとえどれほど逆境に追い込まれたとしても、人生は私を決して見捨てない。」そして、「これらの両者が不可欠である。どんな運命に見舞われようとも、人生には無条件に意味がある。」とフランクルは言う。

私たちの人生はかけがえがなく、一度限りである。その人生を、主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20と約束してくださっている。だから「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」Ⅱコリント4:9とのパウロの言葉に共感できるのではないか。主により頼みながら、「3つの坂」を引き受けて生きていきたい。そして「人生には無条件に意味がある。」ことに気づきたいものである。

 

父と母を敬う

母の日は、100年以上前に、米国の教会から生まれた。アン・ジャービスさんが20数年間、教会学校の教師として、常々「父と母を敬え」という十戒の中にある教えを子どもたちに教えていた。その彼女が1905年に召天し、娘のアンナ・ジャービスさんが、母親の記念会で、母を敬う気持ちで白いカーネーションを参列者に配った。その話に感動したジョン・ワナメーカーさん(百貨店王)が、自分のデパートで母の日のイベントを行い、これが全米に浸透していくことになり、1914年の連邦議会で、5月の第二日曜日を母の日と定めた。ちなみに日本には、宣教師から伝えられ、森永製菓が1937年、豊島園で母の日のイベントをしたのが全国的に広まるきっかけになった。ともかく母の日は教会から始まり、しかも「十戒」の第5番目の戒めである「あなたの父母を敬え。」出エジプト記20:12という教えがその基になっていた。
「十戒」には、人が神を愛し、人が人を愛して生きていくための方法が10の戒めにまとめられている。昔ユダヤにおいて、家庭という場所は神の言葉を教える所で、「父と母」は子どもたちにとっては、神から与えられた教師であった。ユダヤ人は「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という考えを持っていた。だから、「父と母を敬う」ということは、現代の私たちが考えている以上に大切なことであった。
現代は、「父と母を敬うことを通して、神を敬うことを学ぶ」という側面が軽んじられているのではないか。しかし、母親は、生まれて最初に出会う人間関係であるので、しっかり抱きしめて、愛情を注ぐなら、「母親が大事にしている信仰を、私も大事にしたい」という子どもが育つのではないか。「父と母を敬う」ことによって、子どもは愛を知る。子どもは、父と母を愛することを通して、神と他者への愛を学んでいく。
聖書は、両親を敬うばかりでなく、年老いた両親を世話することも命じている。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」Ⅰテモテ5:8。神を敬っていれば、両親の世話をしなくてよいということではない。父と母というのは、自分の両親だけにとどまらず、広い意味では、周りにいる年長者をも含む。教会は神の家族である。地上では肉親はいなくなっている方も、教会には神の家族がいる。そういう意味では、教会の中には敬うべき方々が、世話をすべき方々が大勢いる。母の日をきっかけに、両親を敬い、年長者を敬う心を新たにし、家族の絆をよりいっそう深めていきたいものである。

 

信仰の継承のために何が必要か

クリスチャンの親にとって最大の願いは、わが子への信仰の継承ではないだろうか。信仰さえあれば、どんな境遇の中にあっても、喜びと感謝をもって生きていくことができるからだ。しかし、信仰の継承ほど難しいものはないことを私たちは経験する。たとえ受浸したとしても、生涯信仰生活を全うする子どもは少ないからだ。

アシュラムで奉仕してくださった山下萬里先生が、『信仰は教えこむことも、譲り渡すこともできません。私たちは、これが信仰だと思っているものを、自分で持っていると考えます。そこで「信仰のことは、私が教えてあげます」などと言うのです。しかし、どんなに偉い牧師であれ、先輩であれ、教えることのできるのは、知識であって、信仰ではありません。又、この信仰だけが私の財産だからこれを譲りたいと言っても、そうすることはできないのです。ですから、信仰者の子どもは必ず、信仰者になるとは限りません。私は、「子どもを信仰に導くことができなかったから、私の信仰は駄目なんだ」と落ち込んでいる人に、「そんなに落ち込んだりしなくてもよいのです」と申し上げたいのです。信仰は、主イエス・キリストから与えられるものです。ですから、問題は、私たちが主イエス・キリストに出会っているかどうかです。又、出会いの機会を備えることが大事なのです。』と語られたことに励まされる。

本日の「子ども礼拝」は、まさに子どもに主との出会いの機会を備えることである。主のために、司会や奏楽や祈りの奉仕をすることによって、緊張感は伴うだろうが、主は子どもたちの心に「よくやったね」と語りかけてくださるだろう。

上尾教会には、信仰の継承のために「親子聖書日課」という良いテキストがある。我が家でも5人の子どもたちと一緒に、聖書日課に親しんできた。子どもたちは、最初は一緒に聖書を読めたという喜びを見いだし、次に問題の答えを見つけたという喜びを見いだし、最後は聖書それ自体の中身を知る喜びを見いだしていった。子どもにはこんな出来事は知らせたくないという聖書箇所はいくつもあるが、子どもなりに受け止め、人間は罪深い者であることを悟っていった。

アルフレッド・テニソンは、「聖書を読むことそのことが教育なのである。」と言いったが、本当にそうだと思う。子どもたちが聖書に親しむことによって、思考力や判断力が身に付き、歴史にも興味を抱くようになり、何よりも豊かな心が育っていくのである。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことは楽しいひと時である。その醍醐味を味わいたい。さぁ「親子聖書日課」を始めてみよう!