Month: 4月 2021

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大丈夫感覚 松原 宏樹(奈良キリスト教会牧師)

人間には持たなければならない大切な感覚が二つあります。

一つは、「自分のことを大切」と思う感覚です。

自分のことを大切と思うのか、逆にいらない人間と思うのかで、その人の人生に大きく影響を及ぼします。

ある少年鑑別所に入っている少年が「俺は両親の避妊の失敗で生まれた」と言ったそうです。

彼は自分のことを「失敗」と受け止めているのです。

聖書は、「あなたは私の目には高価で尊い」と書かれています。

生産性があっても、生産性がなくても、早くても遅くても、健常でも障がいがあっても、神の目には高価で尊い存在なのです。

二つ目は、「どんな時も大丈夫」と思う感覚です。

聖書に「万事相働きて益となる」と書かれています。

人生、右に転んでも左に転んでも神の大いなる手の中での出来事にすぎません。

渡辺和子先生が、幸せのありかと言う本の中で「大丈夫の小石」と言うことを書かれています。

自分の病気が治るかどうかと悩んでいる人に、「大丈夫と書かれた小石」を握らせてあげるそうです。すると、患者さんはとても喜んで「私の病気は治るのですね」と口々に言うそうです。

それに対し「これは、あなたの願っている通りになる、大丈夫の小石ではなく、どちらにころんでも大丈夫と言う小石なのです。」

聖書には、私たちの計画や人生が行き詰まっても、神の計画と神の道は開かれており、大丈夫どころか益になるとまで書かれています。

この二つの感覚は、人生においてなくてはならないものなのです。

 

この町には、わたしの民が大勢いる

私が青年時代、神奈川県の南林間駅の近くにあるカンバーランド長老高座教会を訪問し、牧師先生からお話を伺ったことがあった。当時、まだ人口の少なった町であったが、教会の皆さんがビジョンを抱いて果敢に伝道し、千人近くが礼拝に集う大教会になっていた。すると、スーパーや町の中でも教会員同士がよく出会い、選挙カーからは「キリストの町の皆さん」という呼びかけがあったという。「この町には、キリストの民が大勢いる」ことに、なんとも羨ましく感じたのを憶えている。

しかし、神は、私たち上尾の町にもキリストの民が大勢いることを約束している。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」使徒言行録18:9-10。この御言葉は、パウロがコリントの町で伝道に苦闘していたある夜、主が幻の中でパウロに語られた励ましの言葉である。伝道が進展しないことに、恐れてはならない。「語り続けよ。黙っているな。」とは、時が良くても悪くても福音を語り続けること。教会は沈黙することなく福音を語ることによって、教会となるのである。

主は続けて、「この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と言わた。「この町」とは、私たちの住んでいる町である。まだ現実に見てはいないけれど、キリストの民が大勢いる。伝道の実りを約束する希望に満ちた言葉である。ここに神の予定を読み取る。予定とは単なる教理ではない。神の恵み深い決意であり、神の慈愛のご計画を表す言葉である。神が、主権をもってキリストに属する者を選び定めておられる。

今日の日本は、物質主義的な考え方、生き方が支配的である。だから日本の伝道は難しいと言われている。事実クリスチャンの数は人口の1%にも満たない。それどころか教勢は低下し続けている。これが目に見える現実である。しかし、主は、実は多くの人を信仰に導こうとされている。すでに神のご計画では、多くの民を教会に加えようとされている。ただそれが、私たちには見えないだけである。

主はパウロに「わたしがあなたと共にいる」と言われた。人を救いに導くのは、私たち人間の力では不可能であるが、共におられる主の力によって可能である。この日本には、この上尾の町には、「わたしの民が大勢いる」と言われる。だとしたら恐れずに、黙していないで、語り続けたい。まずこの町の人々のために祈りたい。そして「神はあなたを愛しておられ、人生に素晴らしいご計画を備えておられます」と伝えたい。

8巡目に入る「聖書日課」を新たに始めてみよう!

上尾教会の特徴の一つである「聖書日課」は、今週で8巡目を迎える。1988年、33年前、マタイによる福音書から始めて、旧約のマラキ書まで通読する聖書の旅は、約4年半で一巡する長旅であった。一号から今日まで欠かさず提出してくださっている佐川好子さんは、「聖書日課は私の宝です」と言って、聖書日課に励んでくださっていることは、作成する者としても嬉しい限りである。又、ご夫婦で新たに始めてくださった方もおられ、聖書日課がイスラエルの民を約束の地に導いた「雲の柱」「火の柱」のような存在になっていることに、深い感動を覚えるものである。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイ4:4と主が言われたように、神の言葉は、「日々の糧」として今日生きる力を私たちに与えるのである。私たちは、神の言葉を聖書からいつでも聞くことができる。しかし、御言葉を聞くのは、礼拝の時だけという「サンデークリスチャン」になってしまうことはないか。これでは、神の力に与ることはできない。私たちは本来、神の言葉から離れては生きていけない。私たちが自分勝手に生きる時、そこには混乱が生じ、争いが生まれ、生きがいが喪失し、不平不満が生まれ、平安が失われる。

現代社会が抱えている多くの問題は、まさにこの神の言葉の欠乏から生じているのではないか。預言者アモスはすでにそのことを預言していた。「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもな

く 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」アモス8:11。ここに描かれていることは、人がパンに飢えることでも、水に渇くことでもない。実に、人が主の御言葉に飢え渇くということである。

「御言葉への飢え渇き」は、私たちの生活のうちにいろいろな形で臨む。聖書を読んでも理解できない。そのうちに読むことすら止めてしまう。礼拝を軽んじるようになり、やがてそれが何の苦にもならなくなっていく。それはすべて神に対する不従順な態度から来る。神が、私たちに心を閉ざされることはない。神の言葉が、神の方から断たれることはない。今日の私たちには、繁栄と豊かさ、一見平和そうに見えるものの、その心の最も奥底において、全く空虚で、霊的に渇き切った姿があるのではないか。神の言葉にひたすら耳を傾け、霊的なものを求めていきたい。そのために、今週から8巡目に入る「聖書日課」を新たに始めてみようではないか。

 

キリストの復活を信じる

私たちにとって、主の十字架は語りやすいが、主の復活は語りにくいのではないか。それは「人間が復活するなんて非科学的で信じられない」と、拒絶する方が多いからである。かつて赤岩栄という牧師は、「復活などは実際に起こったことではない。それは弟子達の幻影にすぎない。大事なことは、復活の事実ではなく、その意味を読みとることだ」と言ったが、いつの時代にもそのような考えを持つ人がいる。

しかし、パウロはⅠコリント 15:3-4 で、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と語っている。クリスチャンにとって、何よりも大切なことは、キリストの復活が事実であったと信じることである。キリストの復活は、それがなければキリスト教はなく、それを信じていなければクリスチャンではないと言ってよい。

パウロは、復活の事実がなければ、宣べ伝えていることは、それがどんなに立派で良いことであっても、中味のないものになる、私たちのキリストへの信仰がどんなに真面目で、真剣なものであっても、意味のないものになると語る。そればかりか、「キリストを神が復活させた」というメッセージは、もし、それが作り話であるなら、神に逆らう証言となり、神を冒とくすることになると語る。

実際、パウロがかつてクリスチャンを迫害したのは、復活してもいないイエスが復活したと言い、イエスをキリストだと言っているクリスチャンの偽りの罪を見逃せなかったからである。しかし、パウロは後に復活したキリストに出会い、罪を犯していたのは、キリストの復活を否定していた自分の方だということに気付いた。

もし、キリストの復活が事実でなければ、復活の希望を抱く私たちの「信仰はむなしく」「すべての人の中で最も惨めな者」になるだろう。しかし、キリストは復活され、今も生きておられるので、主を信じる私たちは、キリストの復活によって死にさえも打ち勝つ人生の勝利者となり、永遠の命を約束された最も希望に満ちた者になれる。56歳で召された鈴木正久牧師は死の直前、「自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ。それが本当に輝かしい明日なのだ」と語られた。私たちもキリストの復活を信じることによって、「輝かしい明日」を迎えたい。