Month: 2月 2021

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共に担う幸い    瑞穂キリスト教会牧師  秋山 義也

昨年4月から、瑞穂教会は「聖書日課」を始めました。コロナで会堂礼拝に集まれる人が減って行く中で、「礼拝とは何か?」を問われ、祈りの内に「毎日が礼拝!」という思いが与えられました。1日1章ずつ毎日の聖書箇所と牧師の短いメッセージ、祈りの課題、それに新生讃美歌を1番から順番に歌えるようにしたB5版のものを週報に挟んでいます。オンライン礼拝の方用にPDFでも送っています。7月から聖書通読にチャレンジ。2/22現在、士師記からルツ記に入るところです。聞くところによると、瑞穂教会で聖書通読に取り組んだことは初めてのことらしく、「コロナのおかげ」と何人かの方々は嬉々として取り組んでいます。教会季刊誌において「聖書日課に取り組んでみて」を特集し、数名の方が寄稿してくださったので、上尾教会にも数部お分けします。
毎週の聖書日課作成はもう大分ルーティンになってきましたが、上尾教会の「親子聖書日課」をよく思い起しています。毎日、毎週、毎年。何十年にも亘る聖書通読の取り組みに、作成者(牧師)に対しても、それに取り組む皆さんにも頭が下がる思いです。まだ始めて間もないのですが、今、新しい発想を与えられています。コロナ危機の中で再読する恵みの与えられた1冊に『断片の神学』(関田寛雄著)があります。その中で、礼拝説教の個所(書簡)を、牧師が一人で決めてしまうのではなく、執事会で話し合って決めることにより、神の言葉であり、教会の言葉となる説教をより豊かに体験できたことが記されてありました。「御言葉」に関わることを、牧師と信徒が一から話し合う。本当に豊かです。
瑞穂教会では、2019年度から礼拝の中で子どもメッセージを始め、今年度からは、教会学校奉仕者にも加わってもらいました。「子どもメッセージ」の全体での学びの機会や、個別に「どんな話しをする?」と計画する時間は本当に面白かったです。本日、瑞穂の礼拝宣教を担う執事と一か月前に原稿を見ながら共に準備をしました。「どうしてこの個所にしたのですか?」「誰に届けるイメージでこの言葉を選びましたか?」と問いかけ、応答を重ねる時間は御言葉を聴くことと語ることが一つとなる珠玉の時です。共に準備する中で牧師として、自分の説教も新たに問われ、学ぶ姿勢をいただきます。ですから聖書日課もいつの日か、信徒と牧師が協働して作ってみたら面白いと思っています。上尾教会の「親子聖書日課」のこれからを伺えることも、楽しみにしています。

スチュワードシップ~奏楽編~      教会員

昨年から上尾教会の奏楽グループに新メンバーが加わってくれた。私の「そういえば、ピアノ弾けたよね?奏楽やってみない?」との無茶ぶりに、「いいですよ」と即答してくれた。感謝である。現在、さらに1名が常連奏楽者になるため準備中である。期待しつつ、皆さんにはぜひ祈りに覚えていただきたい。

奏楽者にとって一番大事なことは、神様への賛美を心からささげる姿勢だと思う。もちろん最低限の技術は必要だが、奏楽にチャレンジしてみることで、神様はその賜物をさらに豊かに用いてくださる。ソロで弾くのとは違って、皆さんの声を聴きながら弾くのは少々コツがいるが、やればやるほど会衆の呼吸が分かるようになってくる。これが奏楽の楽しいところである。

先日、名古屋の瑞穂教会から奏楽者研修の講師依頼があり、zoom(オンライン)で開催した。まず奏楽者としての心得を話し、その後実践とアレンジ紹介をした。コロナ禍ということもあり、直接会ってというわけにはいかなかったが、カメラで鍵盤を映し出してなんとか共に学ぶ機会を持つことができた。遠く離れた場所にも、教会音楽にこんな熱い思いをもって取り組んでいる仲間がいるのだと、とても励まされた。また、オンラインであれば、距離の問題をクリアできるので、今後は教会の垣根を超えた奏楽者の学び会や懇親会も可能なのではないかと思った。今まで私が培ってきた技術や、上尾教会での経験が奏楽者の育成に役立てるとなれば、それは本望である。ぜひ、神様には私の賜物を存分に使っていただきたいものだ。

奏楽はなにもピアノやオルガンといった鍵盤楽器に限定されるものではない。聖書の中にも琴、ラッパ、シンバル、角笛など様々な楽器が登場する。現に、上尾教会でも深沢姉がデジタルホーンで奏楽を担ってくださっている。先ほど紹介した瑞穂教会でもハープやトロンボーンが礼拝の中で用いられていると聞いた。もちろん私たちの声も教会音楽には欠かせない。歌声のいいところは、なんといっても「言葉」を表現できることである。現在はコロナ対策でマスク着用のため、なかなか声が響かない状況であるが、神様のところにはしっかりと私たちの歌声が届いていることだろう。以前のように、通称「心の中のメロディー」の時間を復活させて、コイノニアコンサートやクリスマスの行事を再開できる日が待ち遠しい。コロナの収束を祈りつつ、賛美で溢れる毎日を過ごしていきたい。

コロナ禍の中で part Ⅱ           教会員

「お元気ですか?」とりあえずの挨拶の定型文、何気ない会話の始まり…だと思っていた。この一言がこんなに重く大切な言葉だったとは。昨年の今頃、コロナ騒動の火蓋が切って落とされたのだと、誰が想像しただろう。そして、まぁ一年も経てばいろいろ落ち着いて、泣く泣く延期した行事もできるだろうと考えていたことが、とんでもなく甘い考えであったと思い知るのである。

世界中の人がもれなく見舞われているコロナウィルスの恐れだが、そんな中で世の中のオンライン化は目覚ましく、その浸透ぶりに人間のたくましさを感じる。私自身、北関東連合の教会音楽委員会も、神学校の公開講座もその他諸々、zoomで参加している。最初はおっかなびっくりだった私が、今やそれなりに使える成長ぶりだ。

先日、その教会音楽の公開講座で大きな気づきが与えられた。今、飛沫感染防止のために讃美歌を歌うことについて様々な工夫がなされている。歌わずに奏楽を聴きながら歌詞を味わう、または司式者が歌詞を読む、讃美歌の節を減らす、小さな声又はハミングで、等々。教会に行くこともままならず、思い切り賛美できない寂しさを訴える声がある中で「コロナ禍における賛美」の講義では

・賛美は自分が楽しむため? ・賛美は声で歌うことだけ?

・歌う事が苦痛な人もいるのではないか? という視点が示された。

讃美歌は歌うことが大前提、歌って主を賛美することはみんなが求めるうれしい事と思っていた。しかし讃美歌の大前提は「神様を讃える」ことであって「私の満足」のためではないのだった。そして私の中に歌う事が苦痛な人への思い至りが全くなかったことに愕然とした。オンリーワンの個性は神様からの贈り物。だとしたら「賛美」一つとってもいろんな捧げ方があって良いのだと気づかされた。これは今まで「歌う」事が辛い人を置いてきぼりにしてきたということだ。

コロナ禍を肯定的には捉えられないけれど、変化を恐れずなんとか礼拝を捧げよう、神様を賛美しようと手探りでやってきた足跡と置いてきぼりの事柄に気づけたのは、これからの礼拝をより豊かにいろんな人と繋がっていく大切な一歩の種であり、この種の「良い管理人」になる使命が私たちにはある。

「神はこの歴史の流れをみこころのうちにおいておられるのである。(略)われわれにとっては生き方、処し方が問題である。」榎本保郎著『一日一章』より

コロナ禍の中で          教会員

コロナウイルス感染拡大が、依然として止まらない。自覚症状のない軽症者も多いが、在宅治療者があっという間に死亡に至るケ-スもある。私たちにできる対策として三密の回避、マスクの着用、こまめな換気、手指消毒、ソーシャルディスタンスの実施等が奨励されている。これらのことを実行しながらも、感染の恐怖、いつ終息するのか予測できない不安に怯える。一緒に食事をしたり、思いっきりおしゃべりをしたり、笑いあったり、人間としての基本生活が制限され、人間関係の希薄化が生じているように思う。

一月のミニアシュラムで、講師の岩波先生はマタイによる福音書2章から、イエス・キリストの誕生の出来事を通して、人間は二つの心に分かれると話された。一つはヘロデ王の心。自己保身に固執し、不安と恐れから悪事を遂行してしまう生き方。もう一つは神の言葉の真実に従う生き方。占星術の博士たちのように御子との出会いを求め、旅の不安や恐れを乗り越え神の導きに従った時、そこには、感謝、喜び、賛美があふれていた。両者の何という違い。しかし、現実の私たちは神を信じつつも、時として不安や恐怖にかられる。神の言葉に聴くよりも自分の努力で何とかしようと思ったり、様々な情報に惑わされてしまう。感染者の日々の数だけに関心がいくと絶望か諦めしかないように思ってしまう。

光を創造し、闇を創造するのは神である。すべてを創造し御業をなすのは神である。神のご計画の中では人間は小さな有限の存在にすぎない。このような状況の中でも教会で礼拝をささげ、祈禱会で祈りを合わせ、日々聖書のみ言葉に聴くことのできる幸いに感謝したい。ウイルスを恐れず、神を畏れ、現実を受け入れつつ、いつも通りの信仰生活を全うしたい。恐れや不安に右往左往するのではなく、真実の神を畏れ、神の御業を待ちつつ、希望をいだいて歩みたい。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」                   ヨハネによる福音書16章33節