Year: 2021

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子どもと一緒に礼拝を献げる恵み

今年は、子どもたちの成長を見ることができた。「子どもの日の礼拝」では、宣教以外はすべて子どもたちが奉仕し、それも一部と二部の二回も立派に成し遂げた。また「キャンドルサービス」では、トーンチャイムで賛美し、降誕劇を演じる姿を見て、これぞ神の大いなる御業であり、「成長させてくださるのは神」であると、深い感動を覚えた。そして上尾教会が取り組んできたことが実を結んでいると確信した。

日本の教会は残念なことに、子どもには説教は難しい、礼拝に出ても騒ぐだけだと勝手に決めつけて、子どもを礼拝から締め出してきたのではないか。その結果、子どもは礼拝の恵みに与る機会を失い、信仰の決心や奉仕する機会も失ってきた。しかし、上尾教会はミッションステートメントで唱えるように、「私たちは、神の栄光をたたえ、こどももおとなも一緒に礼拝を献げます」ということに取り組んできた。その結果、子どもたちは自分の賜物を活かして、神に仕える喜びを見出している。

野村克也・元プロ野球監督が政治家・後藤新平の言葉、「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」を引用して、強いチームを作ったように、まさに教会の働きも「人を残す」人づくりこそ神に求められている。人づくりは、一日一夜にしては成し遂げられない。長い年月、忍耐強く祈り、教え諭していくことが必要である。テモテも「幼い日から聖書に親しんできた」からこそ「純真な信仰」が育まれ、神に大きく用いられたのである。そのために、大人は伴走者として歩むことが何より大切である。「親子聖書日課」を用いて、一緒に信仰を育むことが求められている。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。この「兄弟」を、「子ども」に置き換えるとよい。礼拝に子どもが一緒に出席し、賛美し、祈り、証しする、これほどの恵み、喜びはあるだろうか。幾つになっても、一緒に主を喜び、信仰について語り合える。そこには親子の断絶はない。親子という関係を超えて、主にある兄弟姉妹として、「神のために力を合わせて働く」ことができるからである。そのような麗しい関係を築くためには、もう、遅すぎると諦めてはならない。子どもと一緒に礼拝を献げることは神の御心であるから、「神にはできないことは何一つない」と、天使の言葉を聞いたマリアのように、「お言葉ですから、この身になりますように」と、必死に子どもの救いのために祈ることである教父アウグスティヌスは、母モニカの涙の祈りによって、信仰に立ち返ることができた。涙の祈りを共に捧げよう。

光は闇の中に輝いている

今年も、街にはイルミネーションに飾られ、クリスマス一色になる。誰かに何かをプレゼントしたくなったり、誰かと一緒に食事したくなったりする。しかし、世の中には「クリスマスどころじゃない」という人もいるだろう。職を失い、住む場所を追われ、ホームレスとなった人たちにとっては、クリスマスは「やかましい鐘」に過ぎないのかもしれない。愛する人を亡くした人、暮らしに不安を抱える人、学校に行けないことに苦しむ子ども、引きこもりの子の将来に不安を覚える親、夢破れた若者、病気に苦しむ人、生きる意味を見出せない人、国の将来に不安を覚える人、これらの人々にとっては「クリスマスどころじゃない」が正直な思いだろう。

しかし、だからこそクリスマスは、「クリスマスどころじゃないという人のところにやってきたのだ」と言いたい。イエスの母マリアは、結婚する前に聖霊によって身重になった。一体誰の子どもなのか。どうして自分たちが救い主の両親に選ばれなければならないのか。慎ましく普通の暮らしを考えていたカップルにはあまりにも過酷な現実だった。皇帝の命令で身重の妻と長旅を強いられた。辿り着いたベツレヘムには居場所はなく家畜小屋で出産する羽目になった。ユダヤの王からはいのちを狙われた。巻き添えを食ったベツレヘム周辺の子どもたちが虐殺され、その親たちはまさにクリスマスどころではなかった。イエスの一家は出産後すぐにエジプトに逃亡することになった。しかし、そんな人々の現実の中に救い主は生まれた。

ヨハネ福音書はその事実を端的に語っている。「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」ヨハネ1:5(聖書協会共同訳)。「それどころじゃない」というあなたにクリスマスはやってきた。だから、「メリークリスマス!」と今年も祝うのである。先が見えない不安の中で、この一年も過ぎようとしている。「いつ終わるのか」と祈る思いで過ごしている。「明けない夜はない」と自らを励ますが、夜明けはまだ遠いように思える。しかし聖書は、夜明けを語っていない。「闇が去って光が来る」のではない。「光は闇の中に輝く」のだ。闇は依然としてあり続けているが、その闇のただ中に光はある。私たちは勇気をもって闇を見つめよう。きっと闇の中に光を見出すだろう。それは十字架にいのちを見るように。苦しむ人がいる。悲しむ人がいる。恐れる人がいる。絶望する人がいる。当然、闇を喜ぶことは出来ない。しかし、闇が深いほど私たちはそこに光を見出すことができる、そんなクリスマスを迎えたい。

 

天に栄光、地に平和

主の降誕の知らせを羊飼いたちに告げた天使に、天の軍勢が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14と神を賛美した。ラテン語では前半は「グローリア・インエクセルシス・デオ」となり、新生讃美歌165番の「荒野にはてに」の繰り返しで歌う有名な賛美である。

「天には栄光」は、神の性質を表わす極めて重要な言葉である。神は天で光に満ちて溢れ、栄光に輝く存在として表現されている。又、「地には平和」は、神と人間の関係、人と人との関係を表わす極めて重要な言葉である。平和とは、食べ物や着る物や住まいが与えられ、基本的人権が守られることであり、人と人の間に争いがなく、民族や国の間に戦争がないということである。それと同時に、「平和」という言葉は「平安」という意味をも表す。すなわち、心の内側に「不安」ではなく、「平安」があって、人と人の間に「平和」な関係が築かれていくことである。

私たちはこの地に、平和を求めているのに、平和が実現しないことに、深い悲しみと憤りを感じているのではないか。ミャンマーや香港や新疆ウイグル自治区でも市民が弾圧され、アフガニスタンでも女性や子供の人権が抑圧されている。それは国外のことだけではない。国内でも、沖縄において、軍事基地が市民の反対を押し切って、次々と建設されている。それは辺野古新基地だけではない。南西諸島と呼ばれる鹿児島から台湾までの1200キロの島々(奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島など)に自衛隊のミサイル基地が作られ、島民の住居から100mしか離れていない所に弾薬庫が作られている。もし有事になれば、米軍基地が集中する沖縄やミサイル要塞の島々は真っ先に標的になると、島民は恐れている。本州では市民の反対でミサイル基地を断念しても、南西諸島へは、国家権力で強引に押し付ける。

では、この地にどうしたら平和が築かれるのか。この天使の賛美は、天における神の栄光と、地における人間の平和とは、その関係において不可分であることを語る。つまり、地の平和は私たち人間の努力によって打ち立てられるものではなくて、天の神の栄光によってこそ実現するのである。神の栄光、神の愛こそが、この地に平和をもたらすのである。主がこの地上にお生まれになったのは、罪の支配下にある私たちに、神の栄光を現し、その栄光の力によって救いを与え、私たちに本当の平和をもたらすためであった。主は、天の栄光と地の平和とを結びつける唯一のお方である。

 

居場所のあるクリスマス

現代は、「自分にはどこにも居場所がない」と悩んでいる人が大勢いる。学校や職場、そして家庭‥・どこで誰と接していても、自分が居心地のいい場所だとは思えない。どこかよそよそしく、落ち着かない。 居場所がなければ、心から休まる瞬間が得られない。「自分の居場所」がないことほどつらいことはない。だから、人は自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きている。「あなたは大事な存在なのだ」と、ありのままを受け入れてくれる、そんな居場所を求めている。誰でも人間が人間として生きていくには、「自分の居場所」が必要である。

主イエスは「居場所のない人」だった。ローマ皇帝の人口調査の勅令のために、マリアとヨセフはベツレヘムに旅をしなければならなかった。その上、ベツレヘムに来てみると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ルカ2:7。更に、ヘロデ王の迫害を恐れて、エジプトへ避難しなければならなかった。イエスは「ホームレス」となり、「難民」となった。「あなたはここに居るべきではない」そうやって、誰からも迎え入れてもらえず、はじき出され、追い出された。

そんなイエスだからこそ、クリスマスの意義を豊かに示してくれている。なぜなら、同じように自分の居場所を失っている人の友となるために、「あなたはここに居ていいのだ」「あなたにここに居てほしい」と願って、イエスは飼い葉桶の中でお生まれになった。居場所を失い痛みを抱えた人が、そんなイエスに出会う中で、「私と共に生きてくれる人がいる」と、人生を回復することができるのである。

私たちも、イエスに倣って、「居場所のない人」のために生きることが求められている。イエスにこそ、私たちの居場所、人生の居場所があると、周りの人々に伝えるクリスマスにしたい。「ここにあなたの居場所がある」と、上尾教会を、ベツレヘムの宿屋とすることなく、神の国を表す「飼い葉桶」として用いていきたい。

光が地上を見下ろすと あたり一面闇だった 「あそこに行こう」と光は言った

平和が地上を見下ろすと 戦争が目に留まった 「あそこに行こう」と平和は言った

愛が地上を見下ろすと 憎しみが目に映った 「あそこに行こう」と愛は言った

こうして光は地上に降りて 暗闇を追い払った こうして平和は地上に降りて 戦争を終わらせた こうして愛は地上に降りて 命がもたらされた 言葉は肉となって私たちに宿られた

ジョゼッペ・ペッレグリーノ『光が地上を見下ろすと』