Month: 10月 2020

Home / 2020 / 10月

上尾教会の将来は大きな希望がある

10年後の教会はどうなっているのか想像したことはあるだろうか。日本基督教団では「2030年問題」が大きく取り上げられている。2030年には、教会員の三分の二が75歳以上になり、信徒数が半減すると予測されるからである。それはバプテスト連盟も似たような傾向にある。連盟の教勢報告を見ると、過去10年間の推移は下降線を辿っている。2009年度と2019年度の各項目をみると、現在会員16,560→13,744、礼拝14,472→11,323、祈祷会3,398→2,914、教会学校

8652→6,455、受浸582→275、ただ唯一増えているのが、召天166→222、

この傾向は、日本の社会が少子高齢化が進んでいく中で、増々、進んでいくだろう。

では、教会は将来に希望がないのだろうか。今、エレミヤ書を聖書日課で学んでいるが、そこから教えられることは、神の民には、バビロン捕囚という現実の苦難の中でも、将来に希望があるということである。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ29:11、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」同31:17。確かに、現実だけ見ると、どこにも希望を見い出すことはできないだろう。しかし、神の御計画に目を留める時、希望を抱くことができる。

『社会に開かれた教会』という本に、下記のように語られていたことが印象に残った。『教会史的に見れば、教会は内外の大きな危機や試練を抱えつつ、生き延び、乗り越えてきました。キリスト教の土台が形成されていったニ世紀から四世紀頃までの初期キリスト教は、内部からは「異端」、外部からは迫害と疫病伝染による死の恐怖と背中合わせの危機の中にありました。しかし、その中で現在の旧新約聖書66巻の正典や「三位一体」などの教理の骨格や信条が定まっていったのです。迫害や疫病は、かえって相互扶助の愛を増させ、国家にもキリスト教撲滅を諦めさせるに至るほどに教会の信仰と絆を強固にしたのです。』

今、コロナ危機の中で、教会が弱くなったかというと、むしろ、強められていると感じている。コロナという疫病が、「かえって相互扶助の愛を増させ・・教会の信仰と絆を強固にしている。」からである。この半年間、礼拝を守るために、献身的に奉仕してくださった方々、背後の祈りで支えてくださった方々、相互の交わりのために時間を割いてくださった方々、など生き生きとした信仰が随所にみられた。自らを聖なる神の宮として建て上げていくなら、上尾教会の将来は大きな希望があると言える。

伝道は神のなさること

いつもの年ですと、10月は会堂○○周年記念と謳って、外部から講師を招き、チラシを配布して、大々的に伝道してきた。しかし今年は、コロナの影響で3月から外に向けての伝道の働きは休止せざるを得なくなった。どのように伝道したらよいのか戸惑っていたが、最近は表立って伝道していないにも関わらず、新来者が次々と来れるようになった。改めて、伝道は神のなさることであると痛感している。

近藤勝彦先生の著書『日本の伝道』という書物の中に、下記のように記されていた。

伝道は神ご自身の御業です。私たち人間の小さな努力が用いられますが、しかしそれは神ご自身がその御計画によって用いてくださるのです。「神の選び」がまずあります。聖書に、神は「世の無に等しい者」(1コリント1:18)を選ばれたとあるように、伝道する者を召すのは、「神の選び」によります。イエス・キリストの御言葉に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)ともあるように、キリストによる神の選びからキリストを信じる信仰も、救いも、そして伝道も始まっています。伝道は、神の御計画に基づき、「神の選び」から始まります。ということは、伝道は本来的な主体は神であるということです。神が伝道されるのです。伝道は「神の伝道」(Missio Dei)です。』

伝道は「教会に委ねられた業」であるから、人間が立てた計画を神は用いてくださると考えてきたのでないか。その一方で、計画が上手くいかず、教勢が上がらないと、失敗だったとか、意味がなかったと、評価してしまうのでないか。しかしその時、「伝道は本来的な主体は神であるということです。神が伝道されるのです。」という視点を見失っているように思う。「神の伝道」に、私たちは選ばれて仕えているのである。神は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっておられる。教会はそれに従っていくだけである。教会は、その神の働きを共に担い、この世に仕える群れである。伝道とはそもそも人間が何かを成し得るようなことではなく、私たちはただ福音の言葉を宣べ伝えることによって、神の御業に参与させて頂くことである。

私たちは、このコロナ危機においても、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」Ⅱテモテ4:2と勧められている。神ご自身が教会の外に出て行って、その救いの業をなさっている。この神に従う教会も出て行かなければならない。毎週の礼拝の最後の「祝福と派遣の祈り」で、私たちはこの世に送り出されるのである。自分の遣わされた場所で、言葉と行いをもって、主を宣べ伝えていこうではないか。

 

私から始める、世界が変わる!

毎年上尾教会では、10月16日の「世界食料デー」の働きを礼拝の中で覚え、祈りを捧げ、献金を「日本国際飢餓対策機構」に送っている。世界の死亡原因の第一位は「飢餓」である。一分間に17人(その内12人が子供)が飢餓で亡くなっている。日本では考られないことであるが、今も世界では6億9千万人が、飢餓で苦しむ。それは世界の11人に1人、アフリカ全体では4人に1人に当たる。

その原因は、穀物が不足しているからではない。世界では、穀物だけでも世界中の人が生きでいくのに必要な量の倍近く生産されている。それなのに世界の飢餓人口は減るどころか増え続けている。それはなぜか。世界人口の18%が暮らす先進国の人たちが、世界の穀物の39%を消費しているからである。言いかえると、世界のおよそ5分の1の先進国の人が、世界中の穀物の5分の2を消費していることになる。そして世界人口の5分の4が開発途上と言われる国に住み、世界の5分の3の穀物で暮らしている。今、アフリカ東部では、干ばつによって作物の収穫が少なく、深刻な食糧難に陥っている。とりわけ子供や女性の栄養不足は深刻である。

 

飢餓の原因は、食料不足ではなく、災害や紛争であったり、人間の貪欲さであったり、社会の不平等さや貧困であったりする。ボンヘッファーは、「誰かが自分のパンを自分のためにだけ取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の掟である」と警告を鳴らす。飢餓状態にある子供の80%は、余剰食糧を生産している国の子供たちである。輸出用(日本などの先進食糧輸入国)の食糧を生産している隣りで、食べることがままならないという状態で過ごさなくてはならない子供たちが大勢いる。つまり、食糧支援を行うだけでは、根本的な解決には繋がらない。

日本国際飢餓対策機構の標語に、「私から始める、世界が変わる」とあった。何を「私から始める」と良いのか。それは「Go Toイート」に関心をもつ以上に、飢餓で苦しむ人々に関心をもつことである。「愛の反対は、憎しみではなく無関心です。」とマザー・テレサが語ったように、愛は、相手に関心をもつことから始まる。すると「主の祈り」も、飢餓で一人も命を失うことがないように、「我らの日々の糧を今日も与えたまえ」という思いを込めて捧げるようになるだろう。私たちは、自分に与えられたパンを、自分のためにだけ取っておこうとするのではなく、他者のために用いていきたい。「受けるよりは与える方が幸いである」使徒言行録20:35、との主の言葉に生きたい。

人生の四季を豊かに生きる

自然に四季があるように、人生にも四季がある。すべてが新しく芽生える春のように、すべてがうっそうと茂る夏のように、すべてが豊かに実る秋のように、すべてが深く眠る冬のように、私たちの人生にも四季がある。スイス人の医師ポール・トゥルニエによると、春は20歳まで、夏は40歳まで、秋は60歳まで、冬はそれ以後だと言う。しかし、現代は人生100年時代を迎えているので、春は20歳まで、夏は50歳まで、秋は80歳まで、冬はそれ以後だと呼んでもよいと思う。

春は、人生の準備段階である。この春の時期に充分準備段階を経た人は、夏を謳歌することができる。夏は、活動の時期である。自立して何でもすることができる時期、失敗したり喜んだり、挫折して苦しんだり、それが夏の時期である。秋は、収穫の時期である。春と夏を経て、様々なことを成し遂げ、自分の人生の使命を果たす時期である。冬は、成熟の時期、人生の総括の時期である。それまでの人生を総括して、いぶし銀のような人生の実を結び、多くの人に分け与えることができる時期である。

人生のそれぞれの時期を、ふさわしく過ごすことができたら幸いである。しかし、私たちはなかなかそのように歩むことができない。例えば、春(子供)の時期、充分な信頼関係や愛・優しさを学ぶことができなかった場合、希薄な人間関係が身についてしまい、自分がどういう人間かも分からなくなってしまう。その結果として、夏の時期になっても、伸び伸びと活動することができない。「もっと元気を出しなさい」とか「若いんだから」などと言われても、その力がでないので、苦しくなるだけである。

この時期に得るべき力を得ないままに、その年代を通り過ぎて来てしまったとしたら、どうしたら良いのか。たとえ春の時期に充分な愛を受けることができなかったとしても、「わたしの目にあなたは価高く、貴く」イザヤ43:4と言われた神の愛を頂くことによって、神は私たちの内に欠けていた春を、夏、秋を再現してくださり、どの時期にあっても、いぶし銀のように輝く人生をもたらしてくださるのである。ある人は「老年とは喪失の時代だ」と言う。確かに、体力を失い、職を失い、収入を失い、楽しみを失い、妻や夫まで失って、最後には自分の命まで失う。しかし、ポール・トゥルニエは、「冬は終わりではなくて、春から始めて来た多くの養分が蓄えられて、たくさんの永遠の実を結び、完成される時であり、それが老境の時である。」と言う。主を信じる者にとっては、冬は喪失で終わらない。「たくさんの永遠の実を結ぶ」希望の時である。