Month: 9月 2020

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「死への準備教育」の必要性

日本で「死への準備教育」の普及に努め、「死生学」を定着させたアルフォンス・デーケン先生(カトリックの神父)が今月6日、88歳で召天された。先生は、死には4つの側面があると言う。第一に、心理的な死。生きる意欲が一切なくなったら、肉体的に死ぬ前から死んでいる。第二は、社会的な死。人間は、社会との関りがなくなると、独りぼっちになり、社会的な死を招く。第三は、文化的な死。文化的に潤いがなければ、ただ生きているだけであって、人間的に生きているとは言えない。第四は、肉体的な死。医療の進歩により、日本は世界一の長寿国になったが、長生きすることが、必ずしも人間らしく最後まで豊かに生きることにはならない。生涯、健康的に長生きできるように、生き甲斐と潤いのある文化的な生活と、友人との語らい、家族や親戚とも仲良く暮らせるよう努力や工夫を重ねることが大切である。

死は誰にでも必ず訪れる普遍的、かつ絶対的な現実である。私たちは生きている限り、いつかは親しい人の死を体験し、最終的には自らの死に直面する。もちろん、死そのものを事前に経験することはできない。それでも身近なテーマとして自覚し、確実に訪れるその現実を受け入れるための心構えを習得することは誰にでも必要である。デーケン先生は、「日本人は試験前には熱心に準備するが、人生最大の試練と考えられる死に対してだけは全く準備しようとせず、ほとんどの人が何の心構えもないまま死に臨んでいる。」と指摘する。それは、死を忌み嫌うものとして、タブー視してきたからではないか。しかし、「死への準備教育」こそ、よりよく生きるための教育だと言う。死への準備教育は、第一に、時間の大切さを発見できる。第二に、命の尊さを改めて考えられる。死と向き合うことは、限りある時間と命の尊さに気づくことだと言う。

デーケン先生は、様々な危機や価値観の転換に見舞われる中年期を過ぎた時期を、豊かな老いを生きていくための「第3の人生」と呼び、6つの課題を示した。1.過去の肩書きなどを手放し、前向きに生きる。2.人を赦し、わだかまりを残さない。3.自分の人生を支えてくれた多くの人たちに感謝する。4.旅立ちの挨拶をちゃんとしておく。4.遺された人たちに配慮して、適正な遺言状を作成する。自分なりの葬儀方法を考え、周囲に知らせておく。どれも後回しにしてはいないか。神様との出会いは死後の約束ですから、大切な人との再会の希望と喜び、天国の魅力について想います。自分の死について考える時、最後まで人のために役に立つことを希望しています。」そんな生き方を私たちもしたい。

 

 

最上のわざ 

最上のわざ

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み

しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し

従順に、平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけてもねたまず

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも 親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後のみがきをかける

まことの故郷へ行くために

おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と。

上記は、ヘルマン・ホイヴェルス(カトリックの神父、上智大学元学長)が書いた『人生の秋に』に紹介されている「最上のわざ」という詩である。「老いの重荷」は「神の賜物」として与えられているという。さらに私たちには、神が最後まで残してくださった「祈り」という「最上のわざ」を捧げることができるという。この一言一言が心に沁みてくる。人生の最終段階において、たとえ何もできなくなったとしても、最後まで祈りを捧げることができるということは、何と感謝なことか。「病気で寝たっきりになっても、私にはやることがあって、これでも毎日忙しいですよ。」と、お見舞いに行った方から言われた。お聞きすると、毎日、御言葉を聴いた後に、信仰の友のために、教会のために、人々の救いのために、一時間は祈るとのこと。「美しく老いる」という言葉があるが、この方の生き方は、まさにそのように年を重ねる姿ではないか。「最後まで合掌できる」私たちも、このように年を取りたいものである。

あなたの未来には希望がある

今、「聖書日課」を通して、エレミヤ書を学んでいる。エレミヤは祭司の子として生まれ、紀元前627年から約45年間、活動を続けた預言者であった。その期間は、北王国を滅ぼしたアッシリヤの攻撃が南王国ユダに迫ってきた頃から、バビロンによって滅ぼされる時(前586)にまで及んでいる。つまりユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代、まさに動乱の時代に神の言葉を語ることがエレミヤに託された使命であった。それ故に、背信の民である同胞から非難され、迫害され、投獄されるが、その同胞と共に運命を共有しようとした。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほどに、悲しみを体験した預言者でもあった。

そのようなエレミヤが、祖国が滅ぼされ、多くの同胞が殺され、捕囚となった破局の只中で、希望を語ることさえ躊躇われる中で、「あなたの未来には希望がある」と宣言するのである。すべてを失って茫然とする人達に向けて、もはや生きる希望も未来もないと嘆き悲しむ人達の傍で、泣く声が聞こえるその只中で、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられると、主は言われる。あなたの未来には希望がある。」エレミヤ31:16-17(抜粋)と、神からの希望の言葉を伝えるのである。

しかし、その言葉は悲嘆にくれる人々には理解されなかった。エレミヤは激しい非難にさらされて孤立する。彼もまた苦悩に満ちて嘆き悲しみ、涙する。「泣くな。目から涙をぬぐえ。苦しみは報われる。希望はある。」という慰めは、誰よりもまずエレミヤその人をも励ます言葉であった。彼自身がこの言葉によって支えられ、未来に希望を抱いて立ち上っていればこそ、彼はこの言葉を人々に伝えずにはいられなかった。

エレミヤが生きたのは今から2600年前だが、その時代の人々と同じように、現代の私たちも、経済力や政治力、軍事力こそが要であると考えて、神によって生かされていることを自覚して慎み深く生き、お互いを大切にすることを疎んじて生きてはいないだろうか。人はとかく自らの力のみに依り頼み、それが危うくされると無力感にさいなまれ、希望を見失うのである。そうであればこそ、私たちは命の源である全能の神に揺るぎないご支配があることを心に刻み、「あなたの未来には希望がある」と告げる神に応えて、その責任を果たす者でありたい。「それ(知恵)を見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」箴言24:14。畏れと慎みを知る真の知恵ある者には、未来があり、希望がある。その希望を抱いて生きていきたい。

 

ヨベルの年に向けて

旧約聖書のレビ記には、「ヨベルの年」が定められている。この「ヨベル」とは、角笛のことで、年の初めに、角笛を吹き鳴らすことからそう呼ばれた。その音は、多くの人にとって解放の知らせであった。「この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。」レビ記25:10。ヨベルの年がやってくると、負債は解消され、失った所有地も戻り、奴隷の身分になっていた者も自由の身に解放される、喜びの年、恵みの年である。人生のリセットが定められているのである。

上尾教会は来年、開拓50周年を迎える。1971年1月11日に、大原宅で開拓伝道が始まった。まさに上尾教会にとっては、来年がヨベルの年である。もちろん、今ある負債が解消されるという意味ではない。(そうであればよいのだが‥・)。かつて罪の奴隷であった私たちが、主の贖いによって赦され、神の恵みに生きる者にされたことを振り返る、喜びの年、恵みの年である。何度も不信仰に陥る私たちを、イスラエルの民に対するように、神は昼は雲の柱、夜は火の柱となって忍耐強く導いてくださった。その恵みに感謝し、新たな出発の時にしたいと願っている。

今年、コロナ禍の中で、信仰とは何か、教会とは何か、礼拝とは何か、私たちは立ち止まって深く考える時が与えられているのではないか。「ステイホーム」と叫ばれる自粛期間も、又、Go To トラベルキャンペーン」で出かけることが奨励される現在も、私たちは「ステイチャーチ」を選び取っている。それは、一途に「神を喜ぶ」ことを大切にしたいと願っているからである。神を喜ぶことこそ、今日を生きる力となるので、礼拝を第一とするのである。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ記8:10

「神を喜ぶ」ということは、「神を喜ばせる」ことではない。アシュラムで中谷哲造先生の語られた言葉を思い出す。中谷先生が赴任した教会の過去を振り返った時、教勢が急激に減った時期があった。その事を調べていくと、教会員は様々な奉仕活動には熱心に励んでいたが、御言葉を聴くことには疎かであった。「主を喜ばせることに熱心」ではあったが、「神を喜ぶことには熱心」ではなかった、そこに信仰から離れていく原因があったと指摘された。これは私たちの教会でも過去に起った教訓である。「必要なことはただ一つだけである。」ルカ10:42と、マリアのように、御言葉に聴き入ることを主は私たちに求めておられる。その事を、今日の礼拝から始めたい。