Month: 8月 2020

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伝えていく義務         教会員

私の母は、1932年(昭和7年)生まれの87歳である。女学校1年生の時に第2次世界大戦の日本の終戦を迎えた。母は、戦争の無情さ、無意味さ、苦しみ、腹立たしさを吐露する。母は、物心ついたころから軍事教育を受け、国民学校5,6年生より教育勅語を唱え、歴代天皇を覚えさせられる。未だにそらんじる母を、気味悪く思う。天皇陛下が現人神だという洗脳教育がなされていき、学校では、毎日「御真影」を拝む。そして大阪で8回にもわたる大阪大空襲に遭遇した。夜間低空爆撃で住宅密集地を標的にされたり、ナパーム弾(大型焼夷弾)をはじめたくさんの焼夷弾が落とされ、大火災が起こったり、転がった死体の上を踏みながら戦火を逃げ惑ったり、一晩中溝で身を潜めたりなどという体験をする。なかでも6回目の大阪大空襲では、母の住んでいた堺をねらった堺大空襲を経験し、それは、大阪南部の都市を一夜にして焼け野原にした。その時に戦闘機の機銃掃射をした操縦席の若い米兵の顔をはっきり覚えているそうだ。彼は、操縦かんを握りゲームのように機銃を打って行ったのだろう。戦争は、理性を動物的な脳に変えていく。花火を見ていつも焼夷弾を思い出し怖がる母を気の毒に思う。

戦争中は、都会では食べるものがなく、体力や思考は限界であったという。栄養失調の中、友との挨拶が、「生きていたらまた逢いましょう。」であったという。大阪では、この空襲で1万人以上の一般市民が死亡し、生き残ったことが奇跡に近い。

さて、今コロナ禍で期限のない恐れ、見えない敵との闘いの只中である。戦争を体験したり、震災を経験したり、新型コロナの世界に遭遇する母の人生を不幸の連続だといっていいのか。いや、それらを通して、本当に大切なものを神様から教えられた母は、ある意味神様に愛されてきたのではないだろうか。この新型コロナで世界中の人々に、「争っている場合ではない。世界が一つになれ!」と神様が警鐘を鳴らしておられるのではないかと思う。やがてこの新型コロナウィルスも抑えられる時が来たら、「死」と向き合った世界中の人々が、本当に大切なものが何であるかを知ることができますように、傷つけ合うより赦し合う世界が来ますように祈りたい。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書16:33

 

#もし75年前にSNSがあったら    教会員

「もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?NHKでは、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の暮らしをTwitterで毎日発信中です。」(広島放送局HPより抜粋)

7月末、この「1945ひろしまタイムライン」というツィッターを知った。早速フォローすると、1945年を生きる新聞記者の一郎さん、主婦のやすこさん、中学一年生のシュンくん(実在した方がモデル)達の呟きが2020年のツィッターに混ざって出てくるようになった。企画物であるとわかっていても、この3人のツィッターを読む時はまるでタイムスリップした感覚になる。しかし私は8月6日に何が起こるかを知っている。前日のツィッターは読む度に「あぁどうしよう、それどころじゃなくなるのに」と落ち着かない気持ちだった。翌朝、「今日もよく晴れている」などの呟きが出る度に心臓がバクバクした。そして「その時」の瞬間の呟きは「ん?」「えっ」…。

やがて混乱、動揺、惨状、家族や友達を心配するツィートがどんどん入ってきた。そして2、3日経った頃の「何だかだるい」「熱がなかなか下がらない」という呟きに、2020年の私は被曝のせいではないだろうかと心配なのだが、当の三人は身体を休めつつ、自身の為すべき仕事に戻ろうと必死だ。

このツィッターは今年いっぱい続くのだそうで、今も実在の日記の日付けに沿って呟きが流れてくる。中でも興味深いのは、やすこさんの心境である。妊娠中のやすこさんは、お腹の赤ちゃんの成長を心配したり、これからの世の中、この子は授かって良かったのだろうかと不安に思ったりする反面、8月15日の敗戦を知った時には「最後の一人になっても戦うんじゃなかったのか」と悔しがる。「命」について両極端な印象を受けるやすこさんのツィートに、私は誰しも持っている危うさを感じた。1945年の三人も2020年の私達も同じように今を一所懸命に生きている。しかし、どの一所懸命を選択するかで未来は変わるのだ。奇しくも今、私たちは日々選択を迫られつつ過ごしている。それは未来に何を残しているのか。私は「主に在る平和」に立って選びとって行きたい。

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。」(平和の祈りより)

キリストの平和         教会員

例年八月の平和月間は、争いのない世界が実現しますように、また、隣人と平和に共存していくことができますように、皆で祈りを合わせる時と思ってきた。今年はコロナウイルス感染拡大に歯止めがかからず、世界が先の見えない不安におびえている。改めて平和とは何か問われている。

聖書には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」エフェソ2:14と書かれている。平和の土台はキリストである。どういう事だろうか。自分の信仰生活を振り返ってみる。信仰生活の初めにおいては罪を悔い改め、キリストを救い主と信じ、神の赦しを実感した。年月を経て、「キリストの十字架わが罪のためなり」の思いが軽く弱くなってきたのではないのか、日々悔い改め、十字架を仰ぐことが形式化しているのではないのか示された。天地の創り主なる神の存在も、時として自分の願いを叶えてもらう小さな存在にしているのではと思わされた。神は全知全能であり、歴史を貫きその御業をなしたもうお方、私たちはその御業のために用いていただく存在である。神の偉大さ、清さ、十字架の死を通して、神と罪人たる私たちを和解させてくださったキリスト。その十字架の広さ深さを思わずにはいられない。

教会は、キリストをかしらとするキリストのからだである。私たち一人ひとりはその肢体である。十字架の恵みを安価な軽いものにしてはいけない。キリストを土台として平和を祈る者でありたい。教会はこの世のただ中にあって世に属さず、クリスチャンもこの世のただ中に遣わされているが、キリストのものとされている。

私は礼拝には出ています、祈禱会にも出ています、毎朝聖書を読み祈っています、それだけでは自己満足の信仰生活ではないのか問われているように思う。仕事も退職し、今、さまざまに問い直す機会が与えられ、感謝である。そういう中で改めてアシュラムの働きにすごさを覚えている。御言葉への聴従、御言葉に聴き従うこと。自己中心的な信仰から神中心の信仰生活へと転換をしていきたい。主に希望をおき、キリストの平和の実現のため祈っていきたい。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節

石を投げてはならない            教会員

皆さんの記憶にも新しいと思いますが、7月に母親が3歳の娘を家に残して旅行に行き、残された娘が餓死をするという事件がありました。あまりにも可哀そうで胸が引き裂かれそうでした。当然、ネット上ではこの母親に対して誹謗中傷の言葉が溢れ、まるで悪魔のように取り扱われていました。私もこんな人に母親になる資格はないと思いました。しかし、自分の母親っぷりを思い返してみたとき、私は決して彼女を責めることはできないと思いました。もし私もたった一人で子供を育てていたとしたら、どうなっていたかはわかりません。何度「ママ」でいることから逃げたいと思ったことでしょう。一人になりたい、自由な時間が欲しい、これは子育て真っ最中のお母さんなら、誰でも思うことではないでしょうか。もちろん彼女が犯してしまったことは、取り返しのつかないことです。しかし、彼女を責めるだけでは何も解決しません。

近年、こうしたネット上での誹謗中傷は社会問題になっています。場合によっては相手を死に追いやることもあります。私たちの言葉は剣よりも鋭い凶器になる可能性があるのです。顔見知りであれば言わないようなことも、相手が誰だかわからないのをいいことに、精神がボロボロになるまでひどい言葉をあびせ続ける。ここには人間の罪深さがよく表れていると思います。

現在、日本は、基本的人権が憲法で保障されています。しかし、私たちはハラスメントや差別、誹謗中傷など、手でつかむことができない空気や言葉による攻撃に怯えながら生きているように感じます。冒頭でお伝えした事件について色々と考えたとき、イエス様の言葉がふと頭に浮かびました。ヨハネによる福音書8章は、「姦淫の罪を犯した女」の箇所です。周囲の人々が石打の刑を望む中、イエス様はこう言われます。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」このイエス様の言葉に、平和を創り出す者として生きるヒントが隠されているように思います。自分のことは棚に上げ、何か気に食わないことがある度に相手を責めていては、いつまでたっても平和な世界は訪れないでしょう。まずは自分自身の行いに目を向け、投げかける言葉をよく吟味し、相手の気持ちに寄り添う。そういう人になりなさいと、イエス様は今日も語り語りかけてくださっていると思います。

イエスは再び言われた.。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」ヨハネによる福音書8章12節

 

 

平和月間を迎えて―平和を作る試み    教会員

コロナ感染は増えたのだろうか?と不安を感じながらスマホやネットで確認するのが日課になった。オンライン授業をしている大学等を除いた小・中・高校とも再開されている最近では、各自が意識しながら感染を防衛している。

戦後75年過ぎて、世界は平和を願いつつ歩んでは来たものの、経済中心の競争社会が頂点に達して混沌とした有様でもがき行き先を見失っている気がする。結果、自然破壊も頂点に達し人間性喪失に支配され誰もが孤独に過ごし、『戦争』と名付けられなくても内実的に冷え切った世界を生きているのかも知れない。はからずも新型コロナ感染症で世界中が試練の中に置かれ始めたが、そんな中、教会では平和月間が設けられて、今を見つめなおす時が与えられて感謝である。

世界中の感染状況に胸ふさぎながらも身近なところでは、感染を経験しなかった近所や教会に繫がる家族などでも、自粛生活や様々な不安感からくるストレスから逃れるのは困難を極めた試練だと思う。しかし薄々ではあるが、多くの人は身近な人々との共存を願い、物に支配されない人間性の回復を模索し始めていると思う。すっかり孤独になって寂しい社会から、生身の体・心・魂をさらけ出していいのだと気づき始めてはいないだろうか。孤独をスマホやネットで埋めるのではなく、しばらくは「三密」を避けるスタイルでも生身の体・声・言葉を交わし始めることが必要である。それは共存とか、助け合い、隣人愛ともいえる。ぶつかり合いもあってもいい。

ただし、最も見失っていけないのは「自分」である。一人一人が神様に創られた人格である。特質も弱さもある素晴らしさは、一緒に・共に生きれば活かされると思う。一人一人が「自分」を持ち、各々心に「自分の領域」を与えられている。「自分の領域」は「自分」しか分からない。話す相手やコミュニケーションをとる相手にお互い誤解を感じたら(「自分」の領域を踏みにじられたと感じたら)きっぱりと違うと伝える。伝えないと、例えば足を踏んづけている相手に痛いですよと言わないのと同じで伝わらないし、「自分を曲げる」結果になり、痛みから解放されることはない。一人でできなければ大声出して他に助けてもらってもいい。話し合いなど繰り返し助け合う時、平和の主が助けて解決してくださる。

「戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。」箴言19章16節