Month: 7月 2020

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神の栄光のために

私がバプテスマを受けた時、教会の方々からお祝の言葉が記された色紙を戴いた。その言葉の中に、「恥はわがもの、栄光は主のもの」とあった。私はこの言葉にいたく感激して、「私の人生は、恥をかいてでも、主に栄光を現していこう。」と決意した。あれから、半世紀が経ったが、今もその決意は変わることはない。神は、私の罪深さや過ち、失敗や弱さを用いて、栄光を現してくださるのである。なんと感謝なことか。

私たちの人生の目的は何か、『ウェストミンスター小教理問答書』では下記のように記されていた。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と、人間の生きる目的を、「神の栄光をあらわすこと」「永遠に神を喜ぶこと」であると語る。そして、「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」と、聖書の御言葉こそ唯一の指針であると語る。

「神は御自分にかたどって人を創造された。」創世記1:27。「わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」イザヤ43:7。私たち人間は、自分の栄光を現すためにではなく、神の栄光を現すために創造された。つまり、神がいかに偉大であり、聖く、力強く、慈しみ深いお方であるかを、私たちの人生を通して現し、神を喜びとし、主を賛美していくことである。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」Ⅰコリント6:20。つまり、主の十字架の贖いによって救われた人生を用いて、神の栄光を現す生き方をすることである。それは自分の力だけではできないが、私たちの内に働いてくださる主の力によってできるのである。

私たちは教会生活で、神の栄光を現そうとしてはいないか。礼拝を捧げ、祈りを捧げ、献金を捧げることは、神の栄光を現すことであるが、それだけでは不十分である。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31「食べるにも、飲むにも、何をするにも」とあるように、生活の隅々にまで、神の栄光を現して生きることが求められている。飲食が普通にできるならば、神の栄光を現すことも普通にできる。日々の生活のただ中で、家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、神の栄光を現すことが求められている。神の栄光のために、私たちにできることは沢山ある。神を喜ぶとは何か、真剣に求めたい。そして、神の栄光のために、人生を明け渡していきたい。バッハが楽譜の最後に「ただ神の栄光のために」と記したように、私たちの人生もそう記したいものである。

 

イエスこそ私たちの主

アシュラムでは、「イエスは主なり」という挨拶をよく交わすが、この挨拶は、アシュラムの専売特許ではない。初代教会では、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」フィリピ2:11と言って、「イエスは主である」と呼んだ。又、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9と言って、救いにあずかるために最低限必要な信仰告白の内容が、「イエスは主である」であった。

「イエスは主である」とは、私たちとってどんな意味があるか。第一に、私たちに希望と慰めを与える。『ハイデルベルク信仰問答』「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」の問いに対して、その答えとして、わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。とあった。人間の最大の問題は、聖書によると、罪と死である。罪は死という結果を招き、誰も死から逃れられない。しかし、主は天と地の一切の権能を持っておられるので、罪も死も私たちを神の愛から引き裂いて滅ぼすことはできない。生きている時も死ぬ時も、主は私たちを捉え、私たちを何ものにも渡されない。

第二に、私たちは主イエス以外の何ものをも主とせず、それに従わない。イエスを主と告白することは、私たちの身も魂も主のものであり、主イエス以外に私の主人はいないという意味である。しかし、この世には、私たちを支配し、私たちの主になろうとするものがいっぱいあるのではないか。気をつけないと、仕事や趣味や娯楽が方が主になり、いつの間にか時間も体も心も奪われ、信仰生活が二の次になることが起こり得る。「イエスは主である」とは、「イエスこそ主である」という告白であって、「イエスも主である」という告白では決してない。「イエスは主なり イエスは主なり 仕えまつらん ひたすら 主なるイエスに」新生讃美歌287を、わが信仰告白として賛美したい。

第三に、「イエスが主である」との告白が、教会の正しいあり方を教える。『使徒信条』では、「私の」主イエスではなく、「我らの」主イエスと語る。私たち一人一人は主を信じても、意見の相違が起って、誤解を生んだり、対立することがある。しかし、主イエスに対する信仰を失わない限り、トラブルが起きても、修復できる。一番大切なことは、「イエスこそ私たちの主である」という信仰である。これさえあれば、少々のことがあっても、教会は立ち続ける。「我らの主イエス・キリストを信ず」を大事にしたい。

 

心を一つにして祈り合おう!

6月より、祈祷会も再開され、熱心に祈りが捧げられている。祈りは「神との対話である」と言われるように、御言葉を聴き、祈りの課題に添って祈り合う。ただ、密にならないように、組祈祷は避けて、一斉に各自で祈り、最後に「主の祈り」で閉じる。祈祷会は、教会にとって、礼拝と並ぶほど大切なものである。それは船の機関室のようなものである。機関室は、奥まった小さな部屋にあるが、それによって船が動かされるように、教会の働きも祈祷会によって動かされる。祈祷会の盛んな教会は、生き生きとした働きを生み出すが、祈祷会の衰えた教会は、教会の働きも衰退していく。

祈りは力である。神が私たちの祈りを聞いてくださり、その祈りに対して神が働いてくださる。私たちは、祈ることによって、力を与えられる。祈りこそ力の源であることに気づく。そして祈祷会の必要性を感じる。祈祷会に参加したくてもできない方から、「自分も含めて祈祷会に参加できない人が大勢いるけれども、教会がそういう人々を覚えて祈りを捧げてくれていることが、それぞれの場で生活している一人一人を支え励ます大きな力となっています。」という声を聞いた。執り成しの祈りを必要としている人々が沢山いる。教会は、その場にいない人のためにも祈る使命が与えられている。

パウロも、「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。」ローマ15:30と言った。私たちは、お互いのために祈り合うことである。それだけではなく、自分のことも祈ってもらうことである。聖書協会共同訳では、「どうか、私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください。」とあった。「私と一緒に戦ってください。」とは、祈りが戦いであることを示す。ヤコブが神の使いと組み打ちした場面(創世記32章)では、ヤコブが神の使いと戦ったのは、祈りであったと言われる。ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません。」と言って、神の使いから離れることをしなかったので、神の祝福にあずかった。私たちも神にしがみついて祈っていきたい。

祈祷会に参加することによって、教会や教会に集う方々の様々の課題を知り、そのために心を合わせ祈ることができる。祈り合うことによって、周りの人や世界のために執り成し、教会でなくてはできない大切な使命を果たしていくことができる。御言葉によって主の御心を知り、祈り合っていく時、その祈りは必ず叶えられるだろう。祈り合うことは沢山ある。祈祷会に参加して、心を一つにして祈り合おうではないか。

 

いつも通りの礼拝

コロナ感染症の対応で、礼拝の持ち方は大きく変わった。賛美が少なくなった、主の晩餐式が御言葉だけになった、礼拝時間も短かくなった、挨拶も控えめになった、座席数を少なくしたので礼拝を二回行うようになった、マスク着用で声を出しづらくなった、礼拝後の食事を共にすることがなくなった。本来の伸び伸びした礼拝からするなら、寂しさやもどかしさを感じるが、礼拝の本質的なことは変わってはいない。

東日本大震災後の最中、礼拝を捧げてきた、ある牧師の言葉が印象的であった。「互いの命を喜び合うこと。弱さを大切にすること。支え合って生きること。共に祈ること。私たちが大切にし、目指してきた、“いつも通り”のことを、より確かに、より真摯に、より深く、多くの人たちと共になしていくことを確かめ合うことができた礼拝でした。それから、被災支援の働きがあり、お葬式があり、多くの悲しみの中を教会の歩みは“いつも通りに”重ねています。教会の歩みはいつの時代にも、様々な困難の中を“いつも通りに”聖書のメッセージに導かれながら、命を守り育て、命を共に生き、命とお別れする時を重ねてきたのです。時に涙し、時に笑いながら、私たちの命に働かれる神の御業を発見し続けてきたのです。」

震災前も後も、コロナ感染症の前も今も、礼拝の本質的なことは変わることはない。大事なことは、どんなに困難と思える時でも、「いつも通り」のことが行えるかどうかである。上尾教会は、緊急事態宣言の中でも、「いつも通り」の礼拝を、休止したり、中止することはなかった。むしろ、そのような時にこそ、命の言葉に与る大切さを感じて、礼拝を粛々と捧げてきた。それによって、一人一人の信仰が強められ、教会の存在意義と使命を再確認させられた。神が私たちを礼拝へ招いてくださるのだから、自分の都合を優先させることなく、これからも「いつも通り」の礼拝を捧げていきたい。

「神の愛への応答として私たちが行う礼拝とは何でしょう。それは神をほめたたえることであり、その憐れみと恵みに感謝することです。またそれは神が創造された世界を愛し、神が創造された隣人を愛することです。私たちが毎週、礼拝の中で行っていること、感謝の祈り、賛美の歌、執り成しの祈り、神への捧げもの、祝福を受けること、そして祝福を隣人と共に分かち合うこと、そのためにこの世に派遣されること・・・。これらすべては礼拝の中に常に備わっているものです。“いつも通り”の礼拝の中に、キリスト教の信仰、キリスト者の生き方の本質が込められています。私たちはそうしたことを礼拝の中で、また日々の生活の中で、“いつも通り”に行うのです。」『今、礼拝を考える』(越川弘英著)