Month: 6月 2020

Home / 2020 / 6月

神学校が教会に来る時代

日本バプテスト連盟には現在三つの神学校がある。教派神学校である西南学院大学神学部、そして、3地方連合立(北関東・東京・神奈川)の東京バプテスト神学校、また、九州4地方連合の支援による九州バプテスト神学校である。神学校週間に捧げられる神学校献金は、上尾教会の場合は、全国壮年連合を通して、この三つの神学校で学ぶ神学生の奨学金と、東京バプテスト神学校の運営費して用いられる。

現在、牧師の高齢化と共に、無牧師の教会が30近くあり、伝道者養成は益々重要になってきているが、神学生の減少は著しい。西南学院大学神学部の入学者は2年連続ゼロという現状である。その理由は、献身者を生み出す諸教会の力が弱くなってきていること、又、牧師をフルタイムで支えることができる教会が減少し、退路を断ってまで献身しようという決断に至らないケースが増えてきていることが考えられる。このままでいくと、「牧師」という職業は、消えていくのでないかと心配される。

しかし、御言葉を解き明かして、信徒を整えて奉仕ができるように助け、キリストの体である教会を造り上げるために、牧師の働きは、いつの時代にも重要である。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」との主の声を聞いて、イザヤのように、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」イザヤ6:8と応答して、神学校に行く方が一人でも多く起こされることを期待したい。それは、牧師としての召しを受けた人だけではない。東京バプテスト神学校では、伝道者の養成だけではなく、信徒リーダーの養成も行っている。今日の教会は、多様な働き人を求めている。教会音楽や教会教育のリーダーが養成されることによって、豊かな礼拝や教会学校が造り上げられていく。神学校は牧師になる人が入るところだと思い込んでいる人が多いが、教会に仕える人であれば、誰でも神学校で学ぶことができる。そして、その学びを通して、主の働き人としての召しを頂く人も起こされるに違いない。

今年は、コロナ感染症の影響で、神学校もオンライン授業が主流となり、家庭だけではなく、教会でも学べる。神学校に行く時代から、神学校が教会に来る時代になった。東京バプテスト神学校「夏期公開講座」は8月13~14日、上尾教会ではオンラインで受講する。テーマは「現代に創世記をどう読むか」、講師は、旧約学が専門の月本昭男先生である。神学校と神学生を支えるだけではなく、自ら神学校で学び、それを教会を造り上げるために、用いて頂きたいと願っている。

今日における教会の使命

新型コロナウイルスは、世界中に潜在的にあった格差や貧困、差別や分断を明るみにさらけ出したのではないか。非正規雇用者への雇止めや解雇も、アメリカで起きた黒人男性の暴行死を受けての抗議活動も、人権を無視した不当な差別がそこにはある。このような時代の中で、教会の使命はどこにあるのか。教会の使命は、ただ主を礼拝することだけではない。主を信じる者は、主と共に生きることが求められている。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」マタイ4:23。主がなさったことは、大きく分けて2つ、「御国の福音を宣べ伝える」ことと、「病気や患いをいやす」ことであった。「御国の福音」とは、主が十字架と復活において成し遂げてくださった救いの御業である。人は、自分の犯した罪を贖うことはできない。だから罪責感に苦しむのである。しかし、主が十字架で私たちの罪を贖うことによって、罪の赦しを与えてくださった。又、人は必ず死を迎える。だから死に怯え、絶望する。しかし、主は3日目に復活して、死に勝利してくださった。この主を信じることによって、永遠の命が与えられ、死を越えて生きる希望が与えられる。「御国の福音を宣べ伝える」使命は大きい。
「病気や患いをいやす」ことも、主の使命であり、教会の使命である。主は、病人を癒されただけではなく、抑圧された人々や弱い立場に追いやられた人々と共に生きられた。それによって、体と心の病や痛み、様々な試練や問題を癒してくださるのである。社会的弱者と共に生きることが、この地上に神の救いを実現することであった。下記の世界教会協議会(WCC)「教会の役割に関する声明」がそのことを表している。
「ウイルスの⼤流⾏は、世界的に影響を与えているという点において、ある意味では平等でしたが、私たちの社会における根深い分断、不正義、経済的不平等、⼈種差別を露呈させ、悪化させてもいます。慢性疾患に苦しむ⼈々、⾼齢者、貧しい⼈々、⼈種的マイノリティ、先住⺠、障害を持っている⼈々、移⺠、避難⺠、そして社会の周縁で⽣きている全ての⼈々など、ウイルスは最も弱くされた⼈々をことさら脅かしているのです。教会と信仰共同体は、最も弱くされた⼈々や共同体に同伴し、互いに連帯するように神から招かれています。私たちの主イエス・キリストは、気遣い、ケア、思いやりがあらゆる境界を超えるということを、彼の⼈⽣、教え、⾏動をもって私たちに⽰しました。危機と恐れと分断の時期にあって、社会の変⾰のために希望と癒しをもたらすことがキリスト者としての私たちの使命です。」

真の平安をもたらすもの

「コロナ」という言葉は、ラテン語で「王冠」を意味する。コロナウイルスには、王冠のような球状の表面突起があるので、そう付けられた。聖書の中には、たくさんの王冠が記される。その中で、イエス・キリストは黄金の冠を戴いた王ではなく、茨の冠を戴いた王として登場する。十字架につけられた主の頭には、輝かしい栄光に満ちた王冠ではなく、血まみれになった茨の冠がかぶせられた。そして、主の遺体は直ちに墓に運ばれた。これで万事休すと思えたが、三日後には、主が墓の扉を一気に開かれたのである。誰もが想像することができない死を克服する出来事を、主は三日目の復活によって成し遂げられた。それによって、死に完全に勝利されたのである。

その勝利について、パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」ローマ8:35-37と語る。復活の信仰に生きるということは、ただ単に将来の死後の事柄ではない。それは他ならぬ、「今、この状況の中で、いかに生きるか」という事柄である。たとえ『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』という不安と恐怖心にさらされていても、その状況の中で耐えることができるのは、復活の力によって、死に打ち勝って勝利を収められた主が、今も私たちと共にいてくださるという確信があるからである。

イタリアの医師ジュリアン・アーバンさんはその確信を得た一人である。「私は2週間前まで無神論でした。しかし、自分たちにできることはもはやなく、人々は次々に死んでいき、同僚2人も亡くなりました。ようやく、神に助けを求めなければいけないということに気づき、今は、日々主の平安を求め、病気の人を助けることが出来るように医療行為を続ける力を与えてくださいと、主に祈っているのです。昨日召された75歳の牧師は、自分が大変な状態にも関わらず、希望を失っていた私たち医師に平安をもたらしてくれました。」この証を読んだ医療従事者からのお便りに、イタリア人医師の手記は、非常に心に迫るものでした。このような惨状にならないようにと考えていましたが、そこに医師としておかれたことを考えると、どれだけ辛い状況か、その中にあって信仰の力を知ることができました。」とあった。真の平安は、今も主が共にいてくださると信じるところから生まれる。

 

大切にすべき教会の姿

礼拝に集えなかった自粛期間、自分にとって教会とは何かを改めて問い直すことができたのではないか。教会は自分の心を支えるために「不要」ではない、「必要」不可欠な所だと感じたのではないか。ペンテコステの日に誕生した教会の中に、私たちが「必要」不可欠な所だと感じる、大切にすべき教会の姿が示されている。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」使徒言行録2:42

何を大切にすべきか、まず第一に、「使徒の教え」に熱心であった。使徒の教えとは、使徒たちを通して伝えられた主の教えのことで、やがてこれが新約聖書として記される。どんなことがあっても主の教えを熱心に守ろうとした。私たちも人々が何と言っているか、この世の常識がどうかではなく、神の言葉は何と言っているか、イエス様ならどう生きられるか、その聖書の言葉に堅く立つことが求められている。

第二に、「相互の交わり」に熱心であった。信仰生活においては交わりが大切である。この交わりとは、親睦会といったものとは違う。この交わりとは「コイノニア」という言葉で、「共有」という意味がある。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」同2:44とあるが、彼らは、お互いに与えられたものを共有した。それは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ローマ12:15とあるように、喜びも悲しみも共有することである。失望する時、自分のことを支えてくれる人がいたら、どれほど勇気づけられることか。私たちは一人ぼっちではない、共に分かち合って生きる。

第三に、「パンを裂くこと」に熱心であった。これは「主の晩餐式」のことである。主の晩餐は、主が十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったことを覚えるために、いつの時代も教会は礼拝と共に大切に守ってきた。私はこんなにも主から愛されているという確信が与えられる時である。それが私たちの信仰の力となる。今日から「エアーコミュニオン」という形で行うが、私たちは十字架の贖いに感謝したい。

第四に、「祈ること」に熱心であった。信者たちは集まって何をしていたのかというと、いつも祈りを捧げていた。コロナウイルスの感染で困難な時代、私たちの教会に求められていることは、世界中の人々の命と生活が守られ、主の救いが与えられるように祈ることである。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:20。二人三人と集まって祈る時、主が共にいて、その祈りを叶えてくださる。一人で悩まないで、共に祈り合おうではないか。