Month: 5月 2020

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緊急事態宣言解除に伴う礼拝と祈祷会のお知らせ

6月より、礼拝と祈祷会を再開いたします。

〈礼拝〉

礼拝は、三つの密を避けるため日曜日に2回捧げます。

第一礼拝  午前  9:00― 9:50

第二礼拝  午前 10:30―11:20

 

〈祈祷会〉

祈祷会は、午前、午後行いますがご都合の良い時間をお選びください。

水曜日  午前  10:00―11:00

午後  19:30―20:30

 

尚、教会学校、その他の集会はしばらくお休みします。

 

新型コロナウィルス感染対策といたしまして、消毒、換気に心がけると共に「三つの密」を避けるなど感染防止に心がけていますので安心してお越しください。

礼拝、祈祷会にお越しの際は、マスク着用をお願いいたします。(小さいお子様は含めません)

平安と希望をもたらすペンテコステ

今日、緊急事態宣言が解除されたことで、久しぶりに礼拝を一緒に捧げてくださる方がいることは嬉しい。折しも今日は、「一同が一つに集まっている」と言われた「ペンテコステ(聖霊降臨日)」を迎えた。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

ペンテコステの日に弟子たちが集まっているところに、「風が吹いて来るような音」がしたと言う。この風とは「息」という意味の言葉である。まさに神の息吹が吹いてきた。更に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と言う。この舌とは、「言葉」という意味である。だから熱い言葉が一人一人の上にとどまって、神の息で満たされた。これが聖霊である。つまり聖霊は、神の言葉と共に働く。更にその言葉は、弟子たちの心を熱くして、他者にその言葉を伝えようとする宣教の思いを起こした。ここから教会が誕生したのである。この信仰の喜びを語り出すところに教会が形作られ、私たちも聖霊に満たされ、主の証人として力強く歩めるのである。

緊急事態宣言は解除されたといえ、新型コロナウイルスは、私たちの社会に「不安と失望」という暗い影を落としている。感染の恐怖と、それによる経済の停滞は生活不安を招いている。長く続くコロナ禍がストレスとなり、家庭不和や家庭内暴力という更なる不安を生じさせている。このような不安や失望の只中にあっても、神は聖霊降臨によって、「平安と希望」をもって生きる秘訣を「言葉と業」で示してくださった。

復活の主が弟子たちに現れた時、「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:22と彼らに息を吹きかけて言われ、又、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハネ14:16と言われた。主は永遠に私たちと一緒にいてくださることを確かなものとするために、「弁護者」である聖霊を送ってくださると約束してくださった。この聖霊は、私たちの新たな日常に「平安と希望」を与えてくださる。そして、この聖霊の力にあずかる時、共に励まし支え合いながら、不安と失望の暗闇をくぐり抜けて行けるようにしてくださる。聖霊が降臨したことに、心から感謝したい。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」ローマ5:5

 

なぜ共に産みの苦しみを味わうのか

最近、「ウィズ(with)コロナ」という言葉を聞く。それは、新型コロナウイルスと共存していくということである。ワクチンが開発されていない新種のウイルスは、一旦は感染が収まっても、第二波、第三波という新たな感染の波となって襲ってくると予測される。だから、コロナウイルスの終息は長期戦になるので、私たちの生活や仕事の有り様を今までとは大きく変えていく「新しい生活様式」を身につける必要がある。新型コロナウイルスに対して、「闘い」ではなく、「共生」が求められている。

そもそも新型コロナウイルスは、一説によればコウモリを自然宿主とすると言われるが、コウモリとは平和に共存していたはずである。人間が原生林を切り開き、野生動物と家畜や人間が接触する中で、ウイルスは伝播し、人獣共通感染症が広がっていった。そのように考えれば、人間が地球全体に開発の手を広げ、過度の都市化、集住化を進めることで、自ら災厄を招いたといえる。そして、この災厄によって、人間が生きるために本当に必要なものや、本来的な生き方が明確になっていくような気がする。14世紀にヨーロッパで大流行したペストが封建社会の旧秩序の解体を加速したように、コロナ感染症が、社会変革の先駆けとなることを期待する。

私たちはこれらのことから何を読み取るべきなのか。聖書は「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」ローマ8:22と語る。被造物とは自然界全体のことで、動物も植物もこの地上に存在する全てものが今、共にうめいている。しかし、そのうめきは「産みの苦しみ」であると語る。産みの苦しみというのは、妊婦が新しい生命を産み出す時に経験する陣痛のことである。だから、この苦しみは無意味な苦しみではない。全く新しい世界を産み出すための苦しみを今経験しているわけで、それ故に、大きな希望がある。

私たちは、被造物の「うめき」「産みの苦しみ」であることを知らされた者として、見えざる感染症に怯えるのではなく、見えざる神を畏れる生き方をしたい。折しも来週は、「ペンテコステ」を迎える。復活後、天に昇られた主が、50日目に聖霊として弟子たちの所に降り、怯えていた弟子たちがその聖霊の力に満たされて、全世界に出て行って、大胆に福音を語ったのである。今、世界は異常気象や疫病や災害が次々と起こり、終末が近づいていると言えるが、主を信じる者には、主が再臨して、朽ちない霊の体に復活するという大きな希望が与えられていることを伝えたい。

 

主の晩餐式の危機を乗り越えるには

上尾教会では、コロナウイルスの感染防止の観点から3月より「主の晩餐式」を中止している。主の晩餐式が、今の状況では、中止もやむなしと諦めていることに対して、ある牧師の「礼典の危機を危機と感じないことこそ危機」との指摘が目に留まった。私自身、主の晩餐式に対する必要性が希薄になっていると反省させられた。

主の晩餐式は、主イエスが十字架で裂かれた体、流された血潮を記念して私たちがいただくもので、主に命じられたように、いつの時代も教会はこの礼典を大切に守って来た。それは、パンと杯に与ることよって、主の贖いの恵みを深く味わい、罪を悔い改めて、主と一つになることを再確認してきた。主の晩餐式がコミュニオン」と言われるのは、ここにこそ主との交わり、主とのつながりがあるからである。

礼拝の中心は「御言葉」「礼典」である。礼典(主の晩餐とバプテスマ)は、「見える神の言葉」と言われるほど大切なものである。礼典の執行は、教会の生命線とも言える。とはいえ、礼典の危機を危機と感じたとしても、今は執行できない、あるいはすべきでない状況にあることも確かである。しかし、何か月も主の晩餐の恵み無き礼拝が続くのは、教会の命を失うことになりはしないかと危惧するのである。

諸教会は、コロナウイルスの感染の拡大に伴い、主の晩餐式に対して、様々な試みをしている。ある教会では、「エアー・コミュニオン」を会堂で行う。パンと杯はなく、御言葉と祈りで、主の血と体を覚え、互いが一つであることを感謝する。又、ある教会ではネット配信で「遠隔主の晩餐(テレ・コミュニオン)」を行う。各家庭でパンとブドウ液を準備し、牧師がパンと杯の祈りを捧げると、それに応えてパンと杯に与る。又、牧師や執事が信徒宅を訪ねて「訪問晩餐(デリバリー・コミュニオン)を行う。

これらは「物質性なき主の晩餐」「実在共有性なき主の晩餐」である。どちらも本来の主の晩餐式ではなく、緊急事態下における主の晩餐式の一形態にすぎない。しかし、このような主の晩餐式の形態を、今回の緊急事態下に限定することはない。病院や施設に入り、教会に来たくても来れない教会員が増えていく中で、「訪問晩餐」は、上尾教会でもすでに行ってきており、「遠隔主の晩餐」も、ネットのZoomを使えば、多くの教会員の参加も可能である。教会に共に集い、共に主の晩餐の恵みに与ることが当たり前でないとしたら、様々な工夫をして、主の晩餐式を試みることもよいだろう。礼典の危機を危機と感じることが、新たな道を開くのである。

「非日常」を「日常」化させないために

今日は「母の日」を迎えた。教会の働きから始まった母の日を、上尾教会では毎年、お祝いしてきた。子供たちがお母さんに、教会学校で制作したものをプレゼントして、感謝を表してきた。それが今年は、新型コロナウイルスの影響で、教会学校はお休みとなり、母の日をお祝いするという大切なことが失われようとしていた。しかし、工夫をすればできるのではないかと、アイデアを募ったところ、家庭でお母さんの似顔絵を描いてもらい、それを今日の礼拝でお母さんに差し上げることになった。

今、自粛ムードが続く中で、教会活動が次々と休止に追いやられるという「非日常」の中に身を置いている。しかし、その期間が長くなればなるほど、以前のように教会活動をするという「日常」を取り戻すには、大きな時間とエネルギーが必要になるのではないか。人間は楽な方に流れやすい。面倒なことは、この機会に止めようと思っても不思議ではない。今、「非日常」「日常」化させないために、今まで行ってきた教会活動を工夫をしながら、たんたんと行っていくことの大切さを改めて感じている。

しかし同時に、今まで当たり前のように行ってきた教会活動を休止することによって、見えてくるものがあるのではないか。例えば「教会にとって一番大切なことは何なのか」「本当にこの活動は、教会にとって必要なものなのか」など、「日常」の教会活動の中で何気なく行ってきたことを見直すよい機会になるのではないか。今後、教会がどうなっていくかを見通すことは難しい。しかし、既に学校ではオンライン授業が導入され、企業では在宅勤務が進んでいる。それは、「非日常」「日常」になっていかないために、今までの「日常」とは異なる「新しい日常」が生まれてきているのである。

そのために、ラインホルド・ニーバーの以下の祈りに倣いたい。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を私たちに与えてください。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えてください。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えてください。 一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。アーメン」

 

「緊急事態宣言」を受けての対応

新型コロナウィルス感染拡大防止に受け、「緊急事態宣言」が延長されましたので、上尾キリスト教会では、さらに5月末日までの期間、礼拝、祈祷会、その他の集会は、お休みいたします。

尚、教会員の皆さんには、礼拝の動画をお送りいたします。

一日も早く収束し、世界中の人々が安心して生活ができる日の来ることを、お祈りいたします。