Month: 4月 2020

Home / 2020 / 4月

パンデミックの後の世界に期待したい

イースターに毎年、献金を捧げてくださる従妹の手紙に、「この新型コロナウイルス感染症の災いを機に、人類として反省すべきを反省し、今一度大事なことは何なのかと改めて考える時なのではと思っています。」と記されていた。私も「アーメン」と思った。「今一度大事なことは何なのか」と深く考えさせられている。

今年の初めは、2020東京オリンピックの年として、個人消費、インバウンド需要が盛り上がり、株価は上昇し、景気は良くなると、日本政府も経済界ももくろんでいた。その上、原発の再稼働や沖縄の辺野古への新基地建設など、被災者や県民の声を無視して、人命よりも経済至上主義に走る姿が今に至るまである。東京新聞の『本音のコラム』で鎌田慧氏が、「今回のパンデミックは、物質主義への逆襲だったかもしれない。」と言ったが、それは宣教研究所の朴先生のウイルスが人間に向かって線を超えてきたのではなく、むしろ私たち人間が守らなければならない線を超えて、ウイルスを招いてしまったというのが、確かな事実です。そういう意味で、結局他者の不幸を餌食にして自分の幸福を追い求めてきた人間の自己中心的なライフスタイルが招いた結果が、他ならぬパンデミックなのです。」(宣研ニュースレター)という言葉にもつながるのではないか。

パンデミックは、人類の歴史の中でも何度となく起きてきた。14世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたと言われる。半世紀にわたるペスト流行の後、ヨーロッパは、平和な時間を迎えたという。そうした中で、ヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。これがペスト後のヨーロッパ世界であった。新型コロナウイルス感染症のパンデミックが今後どのような世界を作り出すのか、現時点では誰も正確に予測することはできないだろう。しかしそれは14世紀のヨーロッパのペストのように、人間の生き方に変革を迫るものになる可能性がある。

左近豊先生は昨年、エレミヤ書を通して、神は御自分の愛するイスラエルの民を滅ぼし、破壊させたが、それは建て、植えるためであった、絶望の後に希望があると話された。それはバビロンに70年間捕囚され、苦しめられたイスラエルの民に対する神の素晴らしい約束に表れる。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。エレミヤ 29:11 。私たちもパンデミックの後の世界に期待したい。

私たちの心を支えるもの

緊急事態宣言が発令された日、NHKの『首都圏ネットワーク』を見ていると、成田山新勝寺が、大本堂での参拝は事前に申込みをした人に限り続けるとのことであった。さすがに1080余年の歴史を持つお寺だと思った。どんな苦難の時代でも参拝だけは中止せず、病気平癒・健康長寿祈願などを願う人々の拠り所となっている。

キリスト教の歴史でも、初期のキリスト者がローマ皇帝の迫害を逃れ、殉教者たちを葬る地下の墓「カタコンベ」を礼拝の場として信仰を守り続けた。また今日、中国では政府の弾圧を逃れて、政府非公認の「地下教会」いわゆる「家の教会」で礼拝を捧げているキリスト者が多い。礼拝はキリスト者にとっては生命線であるので、いつの時代もあらゆる工夫をして捧げてきた。

今、諸教会は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、礼拝を中止せずに続ける工夫を模索している。もし礼拝を中止すれば、礼拝を再開することはもっと難しくなり、信仰から離れていく人が増えていき、信仰の共同体の崩壊に繋がることが懸念されるからである。週に一度、礼拝を捧げることは、信仰の維持のために大切である。

諸教会では、ネット配信による礼拝が拡大しているが、牧師一人によるネット配信は、御言葉は語れても、礼拝を捧げているとは言えないのではないか。礼拝には、御言葉に応答して感謝を捧げる会衆がいる。様々な教会のHPを見て、ネット配信の仕方を調べたが、教役者だけが教会で礼拝を捧げている教会と、数名の礼拝奉仕者が教会で礼拝を捧げている教会があった。バプテスト教会は、後者の場合が多く、「信徒による教会形成」がこの苦難の中でもよく表れている。ネット配信は、今後、病気の方や遠隔地にいる方と礼拝を共にするために、ますます必要になっていくだろうが、ただネット環境にない、特に高齢者の方への配慮を忘れてはならない。

上尾教会での取り組みは、ネット配信だけではなく、礼拝奉仕者が週報やメッセージを届けたり、郵送で送ることにしている。また、メールや電話で安否確認をして、励まし合い、祈り合うことにしている。今、聖書日課では詩編を味っているが、全てをご存知の神が、私たちの心の悩みや苦しみに適切な慰め言葉、励ましの言葉をそこに記してくださっていることに勇気づけられる。「パンは人の心を支える。」詩編104:15。命のパンである御言葉こそ、どんな時も私たちの心を支えるので、日々、味わいたいものである。そしてこの難局を、一緒に乗り越えていこうではないか。

 

死は勝利にのみ込まれた

今年のイースターは、イエス・キリストの復活の喜びを祝うムードはどこにも見られない。むしろ、新型コロナウイルスの感染の脅威に世界中が死の恐怖と戦っているのが現実である。しかし、そのような暗い現実があるにも関わらず、いや、それを乗り越える事実がキリストの復活にはある。パウロは、それを、「死は勝利にのみ込まれた」と表現している。何と素晴らしい言葉、何と励ましに満ちた言葉であろうか。

死の力の前に、私たち人間は絶望し、敗北し続けてきた。愛する人を亡くした悲しみの涙を見る度に、どんな人間も死には無力であると痛感する。しかし、パウロはこの死に対する勝利を確信した。それは、キリストが復活することによって、死に打ち勝ったからである。そして、私たちも死に対する勝利を得られるとパウロは喜びをもって語る。キリストを復活させてくださった神は、将来、私たちをも必ず復活させてくださる。この約束を確信する時、私たちも死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54-55と、高らかに勝利宣言をすることができる。

キリストの十字架と復活の出来事を見る時、打ち負かされたのは、キリストではなく、死であることがわかる。なぜなら、キリストは3日目に死から復活されたからである。私たちが将来与えられる復活の命を望み見る時、私たちは、自分がこれまで積み重ねてきたものは、決して無駄にならないことを知る。死の先には、復活がある。又、死によって絶たれた関係は、復活を通して回復する。キリストが再び来られる日、復活した私たちは、愛する人々と再び出会い、死によって絶たれた関係を回復する。

復活信仰」というのは、死なない信仰ではない。死んでも神が復活させてくださるという信仰である。死んでも大丈夫だという信仰である。聖書は、死は終わりではなく、新しい命の始まりであると説く。復活されたキリストと結ばれた私たちは、「朽ちるべきもの」肉の体から、「朽ちないもの」霊の体に変えられる。クリスチャンになった椎名麟三という作家は、自分は復活を信じられるようになって、「これで安心して“じたばたして”死ねる」といったそうである。死は勝利にのみ込まれてしまったということは、こういう死に方ができるということではないか。復活の主を信じる者は、「恐れと不安の中で、“じたばたして”死ぬ」のではない。「安心して“じたばたして”死ねる」のである。やがて私たちにも死は訪れる。その時、「死は勝利にのみ込まれた」という信仰に生きるなら、死は絶望ではなく、復活の希望をもたらしてくれると確信できる。

あなたがたに平和があるように

中世のキリスト教会は、2~4月の「受難節(レント)」の時期には、キリストの十字架上での苦しみを偲び、断食したり、自分の罪を悔い改めたり、身を慎んで過ごすように心がける季節として守られてきた。しかし、今年の受難節は、新型コロナウイルスにより、世界中が大変な受難を受けている。世界中が、今まで経験したことのない大きな危機に直面する中で、私たちをお創りになり、愛してやまない神は、私たちに何を語り、どう行動するよう求めておられるのか。この時、主から頂く、「信仰」とは、「教会」とは何なのか。なぜ私たちは「主日礼拝」に、「祈祷会」に集うのか。それぞれが御言葉に深く聴き、場所は離れていても祈りを共に捧げていきたい。

この時、教会は、ひたすら祈ることが求められている。新型コロナウイルスに罹患し、命を脅かされている方々の癒しを、懸命に治療に励んでおられる医療関係者の働きを、このウイルス拡散が抑えられ、この病の恐れから解き放たれる日が来ることを、そして安心して礼拝が捧げられる日が来ることを、共に祈ろう。そして、闇の中を歩む私たちを照らすために来てくださった主を見上げて共に歩んでいこう。

今日からの「受難週」、主はどのような一週間を過ごされたのか、その足取りを辿り、自らの生き方を顧みたい。この日曜日、主がエルサレムに入られた日である。ご自分の死に場所、最期の時を知って、なお進んで行かれた主の姿は、どのようなものであったのか。御言葉によれば、そのみ顔はしっかりとエルサレムに向けられていたとある。揺るぎはなかった。それに比べて、私たちは弟子たちと同じように、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、信仰までも萎縮してしまう弱さを感じているのではないか。様々な情報に、心が打ちひしがれ、復活の主を信じていながら、主にすべてをお委ねすることができない。そのような私たちが、この受難週を通して主を見上げ、死から勝利された主の復活の日を、喜びをもって迎えたい。

水曜日の祈祷会では、最後の晩餐の再現をし、主の十字架の血潮をしっかり心に刻みたいと思う。復活の主が、死を恐れる弟子たちに現れた時、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:26と言われた。主の平和(シャローム)に与った弟子たちは、永遠の命が与えられた喜びに溢れて、福音のために死をいとわず殉教していくのである。すべてのことを主にお委ねしていきたいものである。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。」Ⅰペトロ5:7