Month: 3月 2020

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起きよ エルサレム

16世紀のドイツにフィリップ・ニコライという牧師がいた。彼が住んでいたウンナという町は、1597年にペストに襲われ、5千人に満たない町でわずか半年の間に1400人が亡くなった。ニコライは多い日には、30人もの死者を一人で埋葬しなければならなかった。その中には彼の二人の妹もいた。彼は常に死に直面していた。悲惨な現実であった。その中で、ニコライはひたすら市民の慰めを祈った。その祈りから生まれたのが、新生讃美歌257番「起きよ エルサレム」という讃美歌である。
1.「起きよ エルサレム その時来たれり」と ものみらは叫ぶ
「賢き乙女ら いずこにかありや」と 真夜中に響く
立ち上がりて ともし火取れ ハレルヤ 花婿来ませり 備えて迎えよ
2.ものみらの歌に シオンは目をさまし 急ぎ起き立ちぬ
月星輝き 恵みとまこと満ち 喜び溢れる
いざ来れよ イエス神の子 ホザンナ 祝いの宴を いざや分かち合わん
3.み使いと共に 「誉れ神にあれ」と 高らかに歌え
み座を取り囲む 天使らに合わせて 竪琴を鳴らせ 驚くべきこの喜び
たたえよ ハレルヤ絶えせず 主に向かい歌わん
ひたすら祈り、ひたすら聖書(特に、マタイ25:1-13)を読んだニコライは、死の恐怖におののく町の人々に永遠の命の喜びを指し示すために、この讃美歌を作ったのである。人々はこの賛美によって、天に迎えてくださる花婿なるキリストに信頼することによって、明けない夜はないことを知って、深い慰めを得たのである。
今、新型コロナウイルスの感染症によって、世界中の人々が不安や恐怖に慄(おのの)いているのではないか。その中にあって、私たちキリスト者は、ひたすら祈り、ひたすら聖書に親しむことによって、永遠の命の喜びを見い出していきたい。そして、死は終わりではない、主を信じる者には永遠の命が与えられることを、確信をもって宣べ伝えていきたい。上尾教会のサマーキャンプで奉仕してくださったウッズ宣教師の息子さんトレバー君のことを思い出す。トレバー君が10代で白血病に罹り、死を告知されて時、両親に「僕は、死は怖くないよ。天国が待っているから。友だちのいる大好きな仙台の教会に葬ってね」と言い遺していった。死は誰にでも訪れる。しかし、復活の主を信じるなら、死は絶望ではなく、復活の希望を抱かせるものである。

新型コロナウィルス感染症への対応

上尾キリスト教会では、皆様が安心して集えるよう政府の感染症対策の情報に準じ、以下のように対応をしています。

新型コロナウィルスの飛沫感染、接触感染の対策として、マスク着用、出入口での手指の消毒のご協力をお願いしています。また、会堂、トイレ等皆様がご使用になる場所、触れる場所を、次亜塩素酸ナトリウムまたは、エタノールでの消毒を集会前にしています。
厚生労働省が発表している集団感染要因である、3つの条件の①換気の悪い場所、②多数が集まる密集場所、③間近で会話や発声をする密接場面等に対する対応例を鑑み,

サイドルーム折り戸を開け面積を広くし、双方の窓を開けて換気に心がけ、皆さんの席を一つずつ離し、祈祷会では、ひとりひとりの間隔をとり、それぞれの場所で祈りを合わせるようにしています。礼拝時間も短縮し、しばらくの間は教会学校、昼食、主の晩餐、各会をお休みといたします。
体温が37.5度以上ある方、体調がすぐれない方、健康面で心配のある方はお休みいただき、それぞれが置かれた場所で祈りを捧げていただくようお願い申し上げます。

【教会でともに礼拝を捧げられずもどかしい想いをされている方々へ】

たとえ教会に足を運ぶことができなくとも、私たちは神の家族であり一つの共同体です。このような不安が押し寄せる中だからこそ、どうにかして皆さんにみ言葉を届けられないかと思い、礼拝での宣教を書面でご用意してお届けすることにいたしました。み言葉から得られた恵みや分からないことを、教会のメンバーと連絡を取り、分かち合うのも良いでしょう。また、皆様の方でも困ったこと、心配なことがありましたら、遠慮なく牧師や執事にご相談ください。

しかし、ウィルスの感染の状況は、変動していきます。従って、上尾キリスト教会での対応もそれに伴い変更していきますことをご理解ください。また、その都度変更点は、迅速に対応させて頂き、皆様にお知らせいたします。

一刻も早くこの新型コロナウィルスによる感染症が収束していきますようお祈りいたしますとともに、上尾教会につながる方すべてが、主のもとで互いに苦しみを分け合い励ましつつ、共に歩み乗り越えていけますよう願います。

上尾キリスト教会
執事会一同

 

 

祝福を受け継ぐ

結婚式の翌日、家族全員で上尾教会の礼拝に出席することができた。日頃、それぞれの教会で主に仕えているので、私たち夫婦と5人の子供夫妻とその孫、21名が一緒に礼拝を捧げることは初めてのことだったので、感無量であった。私たち夫婦が結婚する時、主から与えられた御言葉は、ヨシュア記24:15「わたしとわたしの家は主に仕えます。」であった。教会の2階にも、この御言葉を木彫で掲げている。私だけが、また私たち夫婦だけが、「主に仕えます」と告白するのではなく、「わたしの家」である子供や孫たちも、「主に仕えます」と告白してほしい、そう願って祈りを絶やさず歩んできた。その甲斐があってか、子供たちも「主に仕える」ことを喜びとして歩んできた。
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」1ペトロ3:9と記されている。私たちが何を受け継ぐのかといえば、それは「祝福を受け継ぐ」ことである。しかし、神の祝福を子供に受け継いで欲しいと願いながら、子供はさっぱり魅力を感じないということはないか。祝福を受け継ぐということを考える時、まず、神からいただく祝福がどれほど素晴らしいか、自らが真の魅力を感じることである。自らが祝福に与ることによって、周りの人にも祝福が及ぶ、そこに祝福が受け継がれていく秘訣がある。まず自らが祝福を受けることから始めたい。何を受けたかがその人の在り方を決めていくとするなら、何を受けてきたかを問わざるを得ない。ところが、私たちは往々にして良いものよりも、悪いものを受け継いでしまうことはないか。
批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします。敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います。ひやかしを受けて育った子は、はにかみやになります。ねたみを受けて育った子は、いつも悪いことをしている気持ちになります。心が豊かな人の中で育った子は、我慢強くなります。励ましを受けて育った子は、自信をもちます。ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。公明正大な中で育った子は、正義心をもちます。思いやりの中で育った子は、信仰心をもちます。人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大切にします。他者の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます。「インデアンの詩」
何を受け継ぐかは大切である。神の祝福を受け継ぐなら、祝福に満ちた人生を歩むことができる。アブラハムが「祝福の源」になったからこそ、彼の子孫も祝福を受け継ぎ、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」創世記22:18、ことができた。この連鎖は、私たちの家庭や教会、この社会をも変えていくのである。

奉仕の恵みーキリストのからだとしての教会   教会員

昨年の四月から成人クラスの分級のリーダーとして奉仕しています。引き受けた時は正直、不安でした。コミュニケーション力が弱く、人前で話すのも苦手で、祈祷会の分かち合いでも気が付くと下ばかり向いて話しているのです。こんな状態ですので、分級はおろか人との関係性を結ぶ事は長年の難題でした。日々、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」Ⅱコリント3:18と解っていても、変わらない人生に打つ手はありませんでした。
そんな朝に、何とか解決をと思い、同じように祈っていた時、「あれ?」と思う間に、主が静かに語りかけてくださり自分が変えられているのに気が付いたのです。人間関係のABCが分かったのです。嬉しくなり感謝しました。長年(50年位)の願いがかなったのです。これまでの人間関係の苦手感が逆転していて、愛(いと)おしくなったのです。人間関係のABCとは、『人と話す時は、相手の顔をしっかりと見つめ、声音を感じながら、表情や仕草からも伝わるものを感じながら相手の話をよく聞く。そして自分の内側から真にうなずいて、言葉に気をつけながら受け止めながら話す』と言うことだと気づかされたのです。苦手意識は取り去られ、これからは人間関係を喜べる新しい人生が待っている感じがしています。
しかし、個人として変えられるだけではなく、日々変えられて、主の再臨の時、完成されるのは、キリストのからだなる教会が一つとしてであることが分かりました。皆で一つのからだとして教会が丸ごと完成されるのです。何と素晴らしい希望でしょうか。先の人も後からの人も一つのからだとして共に成長させられ、キリストのからだなる教会としての完成の望みなのです。
”教会にとっての「からだ」とは・・・「キリストにある交わり」の形成という努めを委ねられていることです。・・・私たちは違いを否定的に捕らえ過ぎてしまいがちです。むしろ、違いを積極的、肯定的に受け止め、違う者が聖霊によって一つとされる豊かさを喜ぶことで、キリストの体なる教会を形成することが大切です。私たちがキリストを主と信じて告白したとき、聖霊を受け、その聖霊によってキリストの十字架に示された神の無条件のゆるしの愛に心を向ける限り、教会の交わりは成長し続けるのです。”「神の同労者」P118~120
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」フィリピ3:21

神様からのチャレンジ       教会員

2019年度、私は神様から新しいチャレンジを3つ与えられました。まず、年度が始まってすぐに開店休業中だった小羊会が再開しました。かなり長期の休業だったので対象のちびっ子達は小羊会の「こ」の字も知らず、むしろ新規開店。とにかく「小羊会=楽しい!」がメンバーに定着することを願いつつ回を重ね、対外行事にも出かけ、教会でお泊まり会もしました。すぐに壊れると思っていた段ボールのお迎えバス「こひつじ号」は、今や小羊たちの自主運営で今も大活躍中です。小羊たちの豊かな感性、パワーに圧されつつ、私はこの時間をどうプログラムしていくか、とても問われるこの頃です。

次に8月から、礼拝でいつも使っている「新生讃美歌」の検討委員会に陪席をさせていただいています。この讃美歌は刊行から16年経ちますが、委員会では次世代に向けて一曲一曲、歌詞やメロディなど細かく再検討しています。知らなかった背景、初めて歌う讃美歌また問題点など、その新しい出会いにワクワクします。今委員会で検討しているのはクリスマスの曲の辺りなので、今年のクリスマスの賛美に還元したいと思っています。

そして、この2月から私にとって教会生活初めての「受付」という奉仕が始まりました。月一回ですが、これが何とも新鮮で待ち遠しい奉仕となりました。いつもの私はバタバタと教会に駆け込んで分級室へ入り、分級が終わったらまたバタバタと奏楽の準備へ。オルガンからは皆さんのお顔がよく見えるのですが、礼拝後はまたバタバタと何かしらの事に追われて、気づいたら一緒に礼拝をしていても言葉を交わすことなく時が経ってしまっている方もいるという始末です。

さて、受付に座ってその日の聖書や讃美歌を整えながら、朝のご挨拶と共に皆さんをお迎え。普段なかなかお話できない方ともご挨拶ができて私の心はホッコリ。それぞれの分級室へ向かうのを見送りながらひと段落すると、あちこちから賛美が聞こえ、その後ロビーはとても静かな空間になりました。時折聞こえてくる笑い声をBGMに私はゆっくり「バプテスト誌」などに目を通す。なんて贅沢な時間!そして10時10分、宴もたけなわの中、分級終了のベルがよく聞こえるように、だけどうるさくならないようにとちょっとドキドキしながら鳴らして歩きました。次回はどんな時間になるでしょう。私の新しい三つのお役目を感謝します!

「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント信徒への手紙10:31