Year: 2020

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コロナ捕囚の中で「生きよ」

今年は、教会にとって「コロナ捕囚」を経験した。コロナの感染症に、恐れと不安を抱きながら、礼拝を捧げてきた。それは、イスラエルの民がバビロン捕囚で先の見えない苦難を経験したように、教会もコロナに囚われながら一年間を歩んできた。その中で、バビロン捕囚を経験した預言者エレミヤやエゼキエルの言葉にどれほど支えられ、励まされてきたことだろうか。改めて、神の言葉は生きていると感じる。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ29:11。捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかった。しかし、主が見ておられるのは計画の全体であった。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画であった。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは将来に不安を抱く。そして将来を知りたいと願う。しかし、本当に大事なことは、将来を知ることではなく、主の備えておられる計画を知ることである。

捕囚という苦難な状況は、これからも続く。むしろ、苦難は増すかも知れない。しかし、それでも希望を持って生きることができる、と主は言われる。私たちは、この苦しみがもうすぐ終わる、と先が見えている時は耐えることは容易であろう。しかし、この苦しみがいつまで続くのか分からない時、本当に辛く耐え難くなる。

人は生きる意味を見出した時、生きる希望が湧いてくる。エレミヤが、バビロン捕囚の人たちに伝えたのは、この生きる意味である。イスラエルの民は、自分たちは神から見捨てられた、そんな人生に生きる意味があるのかと絶望の中にいた時、エレミヤは言う。いや、あなた方は決して神から見捨てられてはいない。神は、あなた方のために、確かな計画を持っておられる。それは、災いの計画ではなくて、平和の計画なのだ、将来と希望を与えられる計画なのだ、だから生きよ、と言われる。

「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主は言われる。」エゼキエル18:32。コロナ禍が続く中で、将来を悲観して「死にたい」と自らの命を絶つ人が増えていると聞くと心が痛む。「だれの死をも喜ばない」と言われた主は、「立ち帰って、生きよ」とすべての人を招いておられる。主に立ち帰って、生きるなら、災いの計画ではなくて、平和の計画を、苦難の先に見い出すことができるだろう。

 

主イエスこそ共にいてくださる神

神がいるならば、世の中の戦争や迫害、疫病や貧困はどうして起こるのか、「神がいるなら、見せてくれ」と言われる人がいる。このような問いかけによって、神の愛をこの世の現実の中に見いだそうとする人も多い。それに対して聖書は、神の愛は人間の目には隠されているが、信仰の目を持って見るなら、神の愛は見ることができると語る。クリスマスの出来事は、私たちをそういう信仰へと招くのである。

クリスマスの出来事の大事な言葉は「見る」ということである。御使いが羊飼いたちに現れて「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と語り、羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合う。シメオンは幼子を抱いて、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言う。無限の霊である神を、人間は肉眼をもって見ることは出来ない。しかし、主イエスを見るならば、「あなたは神を見た」と言える。

主イエスの素晴らしさは、神ご自身を見せてくれたことである。文字通り「見える神」となられた。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神である。主イエスは私たちと同じように、人間として歩まれた。空腹を覚え、悲しみや嘆きも体験された。涙を流し、怒ることもあった。憐みに心を動かされた。人となられた神は、私たちの傍らにいる神となってくださった。主イエスは、「神は我々と共におられる」という意味で、「インマヌエル」と呼ばれたのである。

ある聖書学者は、「クリスマスは、神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だ。丁度、母親が火事で火を浴びている子供の上に身を投げ出すように、大波に襲われた子供のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ。」と語る。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たちのために身を投げ出して救う神となってくださった。

孤独を味わう時、病む時、辛さと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、主イエスは私たちの傍らに共にいてくださる神である。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださる。父なる神と御子イエスとの深い愛の交わりの中に、あなたも招かれている。今日のクリスマスの良き日に、主イエスを救い主と信じて、その深い愛の交わりの中に生きようではないか。

居場所のあるクリスマス

今年、コロナウイルスの感染拡大で外出の自粛が求められた時、自宅に居場所がなく、孤立を深める少女たちの相談が、支援団体に相次いで寄せられたとのこと。それは少女たちだけではない。「自分にはどこにも居場所がない」という声をよく聞く。家庭に居場所がない、学校に居場所がない、職場に居場所がない、この社会のどこにも自分の居場所がないのである。それは、自分が誰からも必要とされていない、誰からも認められていない、誰からも愛されていない、と言うことでもある。そんな思いを感じる時、私たちは自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じる。

誰にとっても自分の居場所が必要である。人と一緒にいても自分だけ居場所がないと感じる時の寂しさ、惨めさほど辛いものはない。だから、人は自分の居場所ということにとても敏感で、闇の中でさ迷うように、自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きている。「あなたは大事な存在なのだ」「あなたが必要なのだ」と、ありのままを受け入れてくれる、そんな存在を求めている。

主イエスは「居場所のない人」だった。ローマの皇帝の人口調査の勅令のために、マリアとヨセフはベツレヘムに旅をしなければならなかった。その上、ベツレヘムに来てみると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ルカ2:7。更に、ヘロデ王の迫害を恐れて、エジプトへ避難しなければならなかった。イエスは「ホームレス」となり、「難民」となった。「あなたはここに来るべきではない」「あなたはここに居るべきではない」そうやって、誰からも迎え入れてもらえず、はじき出され、追い出された。

そんなイエスこそ、クリスマスの意義を豊かに示してくれている。なぜなら、同じようにこの社会から締め出され、自分の居場所を失っている人の友となるために、「あなたはここに居ていいのだ」「あなたにここに居てほしい」と願って、イエスは飼い葉桶の中でお生まれになった。居場所を失い痛みを抱えた人が、そんなイエスに出会う中で、「私と共に生きてくれる人がいる」と、人生を回復することができるのである。

私たちも、主イエスに従って、「居場所のない人」のために生きることが求められている。主イエスにこそ、私たちの居場所、人生の居場所があると、周りの人々に伝えるクリスマスにしたい。「ここにあなたの居場所がある」と、この会堂を、ベツレヘムの宿屋とすることなく、神の国を少しでも表す飼い葉桶として用いていきたい。

 

定期集会のご案内

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日曜日

主日礼拝(子どもと一緒に)

   第1礼拝     9:00~9:50    

   第2礼拝      10:30 〜12:00    

 

水曜日

聖書の学びと祈りの会(朝の部)10:00 ~ 11:00 

聖書の学びと祈りの会(夜の部)19:30 ~ 20:30 

 

                                                          

 

主の愛の深さに気づくクリスマス

今年は降誕劇の練習がないのは、何とも寂しいと思っていたが、先週礼拝後、子供たちと数名の大人が降誕劇の衣装を身にまとって、写真撮影していた。今年は、24日のキャンドルサービスの時に、映像になって登場するようで、今から楽しみである。
今、アドベントの2週目を迎えた。日本語では「主の降誕を待ち望む」ことだが、元々アドベントは「到来」を意味する。その到来は、二重の意味がある。2千年前に主イエスが世に来られたこと、そして、再臨の時、栄光の内に来られることである。「もろびとこぞりて」の賛美の中で、「主は来ませリ、主は来ませリ、主は、主は来ませリ」と繰り返すが、「主よ、来てください、来てください」という切実な叫びが、私たちの中にもある。
コロナの影響で、健康を害している人、経済的な打撃を受けている人、仕事を失った人、孤立してしまう人、自死にまで追い込まれてしまう人・・救いを切実に必要としている人が世界中にいる。又、戦争やテロ、人権侵害や差別、暴力やハラスメント、貧困や飢餓に苦しんでいる人がいる。「主よ、来てください、主よ、助けてください」と、神が苦しむ人たちに救いを与えてくださいと、私たちは祈らずにはいられない。
しかし、一方で、「主はもう来られた」ということも確かである。救い主を待ち望んでいるだけではない。私たちの救い主は、もう2千年も前に来られている。これこそキリスト教の確信である。私たちはそのことを、アドベントから祝うのである。私たちは今、救われていない部分、救い主を必死に待ち望んでいる部分と、もうすでに救い主に出会って救われている部分、その両方がある。その両方を味わうのである。
主イエスの生涯は、アドベントのローソクに似ている。光を輝かせるために、ローソクは段々短くなっていく。身を削って輝くローソクのように、イエス・キリストも私たちを罪と死から救うために、命を削られて、十字架の道を歩まれたのである。
「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」ヨハネ1:5(聖書協会共同訳)。闇が暗ければ暗いほど、光が輝いていることがよくわかる。今年は、世界中が暗闇でクリスマスを迎えている。しかし、その闇の中にも、真の光であるイエス・キリストが到来されるのである。「イエスキリストが今私の心に生まれた、その愛の深さに気づくこのクリスマス」という素敵な賛美があるが、クリスマスを単に祝うだけではなく、是非、自分の心に救い主としてお迎えして、主を信じ、主の深い愛を受け取って頂きたい。