上尾教会の特徴の一つである「聖書日課」は、今週で8巡目を迎える。1988年、33年前、マタイによる福音書から始めて、旧約のマラキ書まで通読する聖書の旅は、約4年半で一巡する長旅であった。一号から今日まで欠かさず提出してくださっている佐川好子さんは、「聖書日課は私の宝です」と言って、聖書日課に励んでくださっていることは、作成する者としても嬉しい限りである。又、ご夫婦で新たに始めてくださった方もおられ、聖書日課がイスラエルの民を約束の地に導いた「雲の柱」「火の柱」のような存在になっていることに、深い感動を覚えるものである。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイ4:4と主が言われたように、神の言葉は、「日々の糧」として今日生きる力を私たちに与えるのである。私たちは、神の言葉を聖書からいつでも聞くことができる。しかし、御言葉を聞くのは、礼拝の時だけという「サンデークリスチャン」になってしまうことはないか。これでは、神の力に与ることはできない。私たちは本来、神の言葉から離れては生きていけない。私たちが自分勝手に生きる時、そこには混乱が生じ、争いが生まれ、生きがいが喪失し、不平不満が生まれ、平安が失われる。
現代社会が抱えている多くの問題は、まさにこの神の言葉の欠乏から生じているのではないか。預言者アモスはすでにそのことを預言していた。「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもな
く 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」アモス8:11。ここに描かれていることは、人がパンに飢えることでも、水に渇くことでもない。実に、人が主の御言葉に飢え渇くということである。
「御言葉への飢え渇き」は、私たちの生活のうちにいろいろな形で臨む。聖書を読んでも理解できない。そのうちに読むことすら止めてしまう。礼拝を軽んじるようになり、やがてそれが何の苦にもならなくなっていく。それはすべて神に対する不従順な態度から来る。神が、私たちに心を閉ざされることはない。神の言葉が、神の方から断たれることはない。今日の私たちには、繁栄と豊かさ、一見平和そうに見えるものの、その心の最も奥底において、全く空虚で、霊的に渇き切った姿があるのではないか。神の言葉にひたすら耳を傾け、霊的なものを求めていきたい。そのために、今週から8巡目に入る「聖書日課」を新たに始めてみようではないか。