今日、少子高齢化に伴い、若者への伝道の必要性がどの教会でも叫ばれている。ネット上には、「生きる意味が分からない」「生きることに疲れた」「明日への希望がない」「この世から消えてしまいたい」「死にたい」などの若者の言葉が氾濫している。今の若者が直面している問題は、「生きる意味の喪失」ではないだろうか。なぜ自分が生きているのかが分からない。生きることへの充足感がなく、何が幸せなのかが分からない。
それは、小・中学生にも見られる。悲しいことに自殺をする子供たちが絶えないが、その原因は「いじめ」だけではない。「学業不振」「親子関係の不和」「入試の悩み」など、「生きづらさ」に原因がある。「強く生きなさい」「しっかりしなさい」といくら励ましても、「生きているのは辛い」と考える子供たちにとっては、それはなんの助けにもならない。生きる方法や術でなく、「生きる意味」をしっかり伝えなければならない。
その答えは、聖書の中にある。「人生」とは、「人が生きる」と書く。ですから、「人とは何か」「人間はどこから来たのか」というその人間の原点に立ち返らない限り、人生の意味も分からない。人間は神によって造られ、生かされている存在であるが、人類の始祖アダムは神の掟を破ってしまった。しかし、神は自分勝手な道を歩んで滅びに向かっている者を憐れみ、ご自分の御子イエス・キリストを救い主として遣わして、十字架で私たち罪人の身代わりに死んでくださった。この神の御子イエス・キリストを自分の救い主と信じる時、人は救われ、永遠の命を受けることができる。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と 言う年齢にならないうちに。」コヘレト12:1。
私は青年時代、山本有三の『路傍の石』の一節、「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」の言葉が心に残り、たった一度しかない人生、悔いの残らないように生きていきたいと願い、教会の門を叩いた。そして、これらの御言葉に出会い、生きる意味を見い出した。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」このメッセージこそ、今日の教会が若者に伝えるべき言葉である。子や孫にも、伝えていきたい。