霊的呼吸をしていますか?

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「聖霊降臨」は昔の出来事ではない。今日も主を信じる全ての人の上に、聖霊が降る。聖霊が降ると、主を大胆に証し、人々を主の下に導くだけではない。「キリストの思いを抱く、霊の人」Ⅰコリント2:15-16に変えられるのである。「霊の人」は、神の言葉を実践し、祈りが応えられ、神に信頼して歩むことができる。そして「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22-23と言った御霊の実を結ぶ。

しかし、残念ながら、「肉の人」のなんと多いことか。彼らは「キリストとの関係では乳飲み子」であり、「ただの人(未信者)として歩んでいる」Ⅰコリント3:1-3「肉の人」は、神の愛と赦しの素晴らしさに気づかず、自分の努力で信仰生活を送る。聖霊の力を拒む結果、神と人への愛の欠如、無力な祈り、聖書の学びへの欠如、律法的な態度、罪責感、敗北感、争い、ねたみ、破壊的批判、欲求不満、無関心、無目的など、肉の業に支配されて、喜びのない、感謝のない、希望のない信仰生活を送るのである。

私は以前、「霊の人」「肉の人」を経験してからなるものと思い込んでいた。しかし、「イエスを主」と告白して、バプテスマを受けた時、誰もが「霊の人」になることを悟った。パウロがコリント書で、「霊の人」のあとに、「肉の人」を記したのは、折角「霊の人」になったのに、「肉の人」に成り下がる信者を見たからである。聖霊の働きによって、人は主を信じ、聖霊はその人の内に住んでくださる。聖霊なる神は、「内住のキリスト」とも呼ばれる。しかし、全てのクリスチャンが聖霊の力に与るわけではない。それは聖霊に満たされていないからである。では、どうして満たされないのか。

それは一言でいえば、「不信仰のせい」である。イスラエルの民が荒れ野をさ迷い、安息に与ることができなかったのも、「不信仰のせいであった」ヘブライ3:19。この「不信仰」は、神に背くというよりも、神の言葉に聴き従わず、自分の都合を優先させるところから起こる。聖霊に満たされるには、この「不信仰」を解決することである。それには、「霊的呼吸」(吐き出すー自分の罪を告白、吸うー聖霊の満たしを求める)を始めることである。「霊的呼吸」をしなければ、霊的死を招く。「霊に満たされ」エフェソ5:18とは現在進行形で記されているので、一回限りのことではなく、継続的なこと、聖霊に満たされ続けることである。それは、感情的な高まりや異言を伴うということではない。「霊的呼吸」を続ける上で大切なことは、神の言葉に、「いいえ」ではなく、「はい」と言って従うことである。神の言葉に従う時、神の言葉は出来事になる。