今年の干支は「牛」である。牛は、聖書の中では重要性がとても高い。それは牛が「蹄が分かれ」「反すうする」という二つの条件を満たす清い動物であり、神に捧げたり、人が食べたりできる動物とされたからである。又、牛は労働力として用いられた。エゼキエルが見た幻の、四つの顔を持った生きものの顔の一つは牛であった。
牛は、「しもべ」と関連づけて考えられた。「脱穀している牛に口(くつ)籠(こ)を掛けてはならない。」申命記25:4をパウロは、Ⅰコリント9:9、Ⅰテモテ5:18で引用して、霊の奉仕をする使徒や長老たちが金銭的な報酬を得るのは当然だと説明した。それらの事から、神はしもべの働きに対して正当な報酬を与えてくださることがわかる。そして約束の地は、「乳と蜜の流れる地」とあるように、この場合の「乳」は牛の乳である。
この牛に関するエピソードの一つ、出エジプト記32章には、モーセがシナイ山に登ったまま降りてこないので、民はアロンに、「さあ、我々に先立って進む神を造ってください。」と求めたため、アロンは民全員に身につけている金の耳輪を外して持ってこさせ、火で溶かし、子牛の像を造り、翌日盛大な祝いをした、と記されている。神はそれをご覧になって、怒りに燃え、民を滅ぼすと言われた。モーセは、神に執り成したので、神は民に下す災いを思い直された。「金の子牛」は、繁栄や権力、富や成功を象徴し、自由の幻想を与える欲望のシンボルであったが、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものであった。人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は、神に信頼し、神に真の願いを託すことができなかったことにあった。神を第一にしない時、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでは偽りの平安を得るだけである。
「肥えた牛を食べて憎み合うよりは 青菜の食事で愛し合う方がよい。」箴言15:17。「肥えた牛」は、裕福の象徴であり、「青葉の食事」とは、貧しさの象徴である。たとえ貧しくとも、愛し合う家庭の方が、どんなに裕福であっても、争いに満ちた家庭よりも勝っているのである。「肥えた牛」「金の子牛」を、私たちも求めてはいないか。アロンをはじめ多くの神の民が、その誘惑に勝てなかったことは、決して他人事ではない。経済をはじめ大きな不安を抱える今日、私たちは、それを解消するために再び金の子牛にひれ伏してはならない。私たちは、金の子牛を自分のために造り、それを神とすることがないように、この一年、常に御言葉に聴きつつ生きていきたい。