16世紀のドイツにフィリップ・ニコライという牧師がいた。彼が住んでいたウンナという町は、1597年にペストに襲われ、5千人に満たない町でわずか半年の間に1400人が亡くなった。ニコライは多い日には、30人もの死者を一人で埋葬しなければならなかった。その中には彼の二人の妹もいた。彼は常に死に直面していた。悲惨な現実であった。その中で、ニコライはひたすら市民の慰めを祈った。その祈りから生まれたのが、新生讃美歌257番「起きよ エルサレム」という讃美歌である。
1.「起きよ エルサレム その時来たれり」と ものみらは叫ぶ
「賢き乙女ら いずこにかありや」と 真夜中に響く
立ち上がりて ともし火取れ ハレルヤ 花婿来ませり 備えて迎えよ
2.ものみらの歌に シオンは目をさまし 急ぎ起き立ちぬ
月星輝き 恵みとまこと満ち 喜び溢れる
いざ来れよ イエス神の子 ホザンナ 祝いの宴を いざや分かち合わん
3.み使いと共に 「誉れ神にあれ」と 高らかに歌え
み座を取り囲む 天使らに合わせて 竪琴を鳴らせ 驚くべきこの喜び
たたえよ ハレルヤ絶えせず 主に向かい歌わん
ひたすら祈り、ひたすら聖書(特に、マタイ25:1-13)を読んだニコライは、死の恐怖におののく町の人々に永遠の命の喜びを指し示すために、この讃美歌を作ったのである。人々はこの賛美によって、天に迎えてくださる花婿なるキリストに信頼することによって、明けない夜はないことを知って、深い慰めを得たのである。
今、新型コロナウイルスの感染症によって、世界中の人々が不安や恐怖に慄(おのの)いているのではないか。その中にあって、私たちキリスト者は、ひたすら祈り、ひたすら聖書に親しむことによって、永遠の命の喜びを見い出していきたい。そして、死は終わりではない、主を信じる者には永遠の命が与えられることを、確信をもって宣べ伝えていきたい。上尾教会のサマーキャンプで奉仕してくださったウッズ宣教師の息子さんトレバー君のことを思い出す。トレバー君が10代で白血病に罹り、死を告知されて時、両親に「僕は、死は怖くないよ。天国が待っているから。友だちのいる大好きな仙台の教会に葬ってね」と言い遺していった。死は誰にでも訪れる。しかし、復活の主を信じるなら、死は絶望ではなく、復活の希望を抱かせるものである。