「そうさ 僕らは世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かさせることだけに一生懸命になればいい 」これは皆さんのご存知のSMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞の一部です。それぞれの受け止め方はあると思いますが、私はこの歌は、それぞれの自分に与えられた場所で、一生懸命コツコツと努力をして、そこで独自の花を咲かせることの価値を問いかけているのだと思っています。この歌が、世に出た当初、あたかも競争社会の中で、争うことが否定的にとられ、教育関係でも、運動会でも順位をつけないであったり、読めないで恥をかかせないために国語の音読をさせなくなったり、お遊戯会で主役を一人と決めなかったりと、ゆとりの教育の始まりでした。私としては、思ってもみない方向でした。まず、数学者を例にとると、生まれた時から数学者であるはずがありません。数が好きで自分からどんどん数学ばかり勉強してなった数学者、ある程度周りの環境が整えられていき、小さい時から勉強をさせられ、結果数学がよくできるようになった数学者、というふうにいろんな経過があります。しかし、どちらにしても、先の歌の歌詞の、「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」というように、コツコツと、自分の与えられた場所で、与えられたやり方で相当努力した結果、自分の花が美しく咲くのではないかと思うのです。
教会をみてみますと、実際ハレルヤ食堂で毎回早起きをして、おいしい昼食を準備して作ってくださる方、お掃除で便器をピカピカに磨き上げてくださる方、皆が帰った後でもひとりで厨房をきれいにしていかれる方、友愛チームで車の乗り降りに至るまで足場を作ってくださり手を支えてくださる方がおられます。これは、初めから用意されている才能ではなく、そのお一人おひとりが、他者をいかに大切に考えるかということから出てくる努力の賜物であるのです。奏楽をされる方もそうです。誰も気づかないところで、毎日毎日、努力を重ねてこられたのです。
私には賜物がないと思われている方、そんな時は、神様に問いかけてみてはいかがでしょう。必ず、教会には皆さんを用いてくださる場所があるのではないでしょうか。教会のために何をしたらよいのかと思ってみるだけでも、自然と作られていく賜物がそこにあると思います。私も、用いてくださるものを磨き、賜物に変えていきたいと思います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロの手紙1 4章10節