賛美のいけにえこそ、主は喜んで下さる

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会堂17周年を迎える上尾教会の礼拝は、絶えず賛美が溢れてきた。この会堂が建った当時、「ABC(Ageo Baptist Church)キッズ」が可愛い仕草で賛美を捧げ、その姿に大きな慰めと喜びを頂いた。その幼児も、今ではユースクワイアとして賛美をリードしている。再び「ABCキッズ」が復活することを願っている。最近、諸教会ではシニアクワイアが盛んである。上尾教会も70歳以上が多くなってきたので、シニアクワイアの誕生も期待したい。クワイアは声を出すので、健康のためにもよい。

賛美は主と深く交わるものである。賛美をすればするほど、主の臨在を実感できる。「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ」詩篇100:2-4とあるように、賛美は礼拝そのものである。主の恵みに対する感謝は、主をほめたたえる礼拝を捧げることによって表すことができる。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」ヘブライ13:15と、賛美こそ真っ先に捧げるべきいけにえである。

ところで自分を振り返る時、御名をたたえる唇の実を「絶えず」神に献げているだろうか。むしろ「同じ口で賛美と呪いが出てくるのです」ヤコブ3:10と、主を賛美したのも束の間、呟いたり、不平を言ったり、怒ったりしている自分を見ることはないか。否、主を賛美しながらも、心の中では、神を疑ったり、人を非難したりしていることはないか。それでは「御名をたたえる唇の実を絶えず神に献げている」とは言えない。

先週の祈祷会で、「祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」マタイ5:23-24と学んだ。主が望んでおられることは、礼拝を捧げる前に、人と仲直りすることである。人に敵意を抱いている限り、心の底から主をほめたたえることはできない。主は、私達の罪を御自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さった。この主の贖いによって、私達は神と和解することができ、その和解をもって、兄弟と和解することができるようになった。

私達は主のみ前で、絶えず自分の罪を悔い改めながら、主の赦しと憐みに感謝して、主を賛美していこう。賛美をしている内に、悔い改めの心が起こって来るだろう。頑なな心の扉が少しずつ開き、そこに神の愛と赦しが注がれていく。賛美を通して悔い改めの恵みが花開いていく。この賛美のいけにえこそ、主は喜んで下さる。