誰かのために自分を捧げたい

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いつもこの季節になると、『靴屋のマルチン』という物語を思い起こす。よく教会学校のクリスマス会などでこの劇を行った。皆さんもよくご存じではないか。

主人公のマルチンは妻に先立たれ、一人息子にも先立たれた。そんなマルチンに、ある人が聖書をプレゼントする。マルチンは靴屋の仕事が終わると、聖書を熱心に読んだ。そしてある日、「明日あなたの所へ行きます」という主の言葉を聞く。マルチンは、いつ主が来ても良いようにお茶を沸かし、料理を作り、部屋を暖かくして待った。しかし、マルチンが見るのは、寒さの中で道を掃除する人だったり、リンゴを盗む少年だったり、乳飲み子を抱える貧しい母親だった。彼はその人々を家に入れ、主のために用意していたお茶や料理をごちそうした。そして一日が終わった。主は来なかったとがっかりしていたマルチンは、いつものように聖書を読んだ。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25;40。この御言葉によってマルチンは、「今日、確かにイエス様は私の所に来てくださった」という喜びに包まれたというのである。

マルチン自身、世間から見れば「最も小さい者の一人」なのかもしれない。しかし彼は、この御言葉を「自分は社会から、人々から、親切にしてもらうのが当然なんだ」という風には読まなかった。そうではなくて、今日、主を待っていたら、困っている人が次々と目の前に来て、自分は良いことをしているという意識も持たず、自分にできる小さな親切をした。しかし、主はそのことを自分にしてくれたこととして、喜んで受け取ってくださった。マルチンの喜びはそこにあった。神の愛を知ったマルチンは、人を愛する者へと変えられ、結果として神をもてなしていた。

救い主は、みすぼらしい「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」として見い出された。それがクリスマスの出来事である。救い主は、どこにおられるか、どこに探すべきか。救い主は、貧しさ中に、弱き人の中におられる。病気に悩む人、貧しさに打ちひしがれた人の中に、私たちが声をかけることを、手を差し伸べることを待っておられる。主は、私たちの心を新しく生まれ変わらせてくださるために誕生された。マルチンが悲しみから立ち直り、生まれ変わったように、私たちも、少しでも周りの人々の必要を感じ取ることができる人へと創り変えていただき、誰かのために自分の時間や心を捧げることができればと願う。今年はそんなクリスマスでありたい。