ペンテコステの日に何が起こったのか。使徒言行録2章によると、弟子達の上に聖霊が降り、主イエスの救いの出来事が大胆に語られ、そこに集まった人々が主を信じ、教会が誕生したと記されている。そこには、色々な国から来た人達がいたが、聖霊の働きによって、色々な言語で福音が語られ、皆の心が通じ合った。それは今日にも言える。聖霊が降る(働く)時、生い立ちも性格も考え方も生き方も違う一人ひとりに、主を信じる信仰が与えられ、その結果、皆の心に一致が生まれるのである。
現実の社会には人を傷つける言葉が沢山ある。人と人とを引き裂くような力もある。お互い敵対関係(個人同士も、国同士も、違う民族や違う宗教同士も)にあって、争いが絶えない。ルワンダで起こったジェノサイド(大虐殺)は、クリスチャン同士でありながら、民族が違うだけで起こった。悪霊の働きは、分断と報復をもたらすが、聖霊の働きは、一致と修復をもたらす。そのことを、来月、佐々木和之先生から伺えることを期待したい。バベルの塔以来、人と人とは通じ合わなくなっていたが、あのペンテコステの日から、神と人、人と人とが一つに結ばれ、互いに理解し合い、尊重し合う歩みが始まった。聖霊が降る所なら、どこでも罪の赦しと和解は起こる。
聖霊はたった一人に降ったのではない。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」使徒2:1とある。この集まりの上に聖霊が降った。教会がこの集まり(礼拝)を大切にするのは、そこに聖霊が降って、互いの違いを超えて一致することができるからだ。一緒に礼拝を捧げる時、他者との壊れた関係も再び結びつけられる。「全ての人を一つにして下さい」ヨハネ17:21と祈られた主イエスは、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2:16。そのために、ペンテコステの日に教会を誕生させて、私達に和解の務めを託して下さった。
聖霊が降っても、その聖霊の力に与っているとは限らない。聖霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22を結んでない自分を見ることはないか。その時、自分には聖霊がまだ降っていないからだと思い込み、「聖霊様、来て下さい」と祈る人はいないか。しかし、聖霊はすでに私達の所に来て下さったのである。だから「聖霊に満たして下さい」と祈って、聖霊の導きに従って前進すればよい。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。地の果てに至るまで、私の証人となる」使徒1:8。もはや恐れることなく、大胆に主を証しすることができる。