聖書日課は、「熟成」させた大切な時間

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皆さんの「ヴィジョン」の証を読んで、一つ謎かけが浮かんだ。「聖書日課とかけて何と解く。我家の手料理と解く。その心は、いつまでも飽きない。」その点、インスタント食品は、早くて便利だが、すぐに飽きる。この世の中、インスタント食品のように、何でもすぐに結果を求めるが、そこで出てくるのは上っ面のことばかりで、深く掘り下げていこうとしない。「聖書日課」にじっくり取り組んでいくならば、自分の信仰生活に深い示唆が与えられ、人生に豊かな実を結ぶだろう。日々、御言葉を聴くと言うことは、主の思いをいかに自分の中に深めていくか、「熟成」させる大切な時間となる。

「熟成」には時間が必要である。ウイスキーのようにある一定の期間、静かに「ねかせて」置く。しかしそれによって、より味わいのある、深みのあるものとなっていく。信仰にも熟成が必要であり、働きのためにも熟成が必要である。主は、私たちが本当に役立つ器となるために、熟成の時間を与えられる。それは静かに「ねかせられている」時間だが、決して寝ているだけの、何もない時間ではない。外側はただそこに置かれたままで、何一つ変化も動きもないが、内側は激しく活動している。

「発酵」という作用が内側で活発に働き続け、内部は激しい運動をし、変化を続けている。この先どうしたらよいか分からずに迷い、悩み、足踏みをしている時期、それは無駄な時間でも無意味な経験でもなくて、まさにこれまでのすべてが「熟成」されていくための大切な時間である。この迷いの霧を出た先には、これまでの迷いや悩みが嘘のように晴れて、その先の道を確信をもって歩み始めていくようになる。その時期を十分にすぎないまま、慌ててそこを飛び出し、十分に発酵しないままで止めてしまうと、熟成するに至らないまま中途半端で終わってしまうだろう。

主イエスですら、メシアとして立つまでに30年もの時間を必要とされた。そして宣教活動に入られても、山に退いて、一人で祈りを捧げられた。ましてや私たちが、賜物があるから、資質が優れているから、すぐに用いられ、すぐに道が開かれていくと考えるのは、間違いである。むしろ安易に道が開かれず、迷いの中をしばらく歩まなければならないことこそ、これから豊かに用いられていくための「熟成」の時間なのである。私たちは、キリストの香りを豊かに放つために、「聖書日課」という「熟成」の時間を大切にして、主のために役立つ器として成長することを期待したい。

「わたしたちはキリストによって神に献げられている良い香りです。」Ⅱコリント2:15