老いても青春!

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冒険家の三浦雄一郎氏が先月、90歳ながら富士山の山頂に立った。病の影響で足に麻痺が残る中、家族や仲間に支えられて、車いすに乗っての登頂であった。「足が動かなくなって3年。まさかここまで来られるとは思いませんでした。皆さんが引っ張ってくれたお陰です。日本一の富士山は何度も来ましたが、新たな感動があります。」と、かつてエベレストに三度も登頂した三浦さんの晴れやかな言葉を聴いて感動した。そして、エジプトから奴隷解放を先導したモーセの姿を思い出した。モーセは、人生の終わりに神の声を聴き、ピスガの山頂で豊かな約束の地を見ながら、眠りにつくのである。

「モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」申命記34:7。モーセは目は衰えず、活力は失われなかったという。私たちは年を重ねるごとに、健康の衰えが気になってくる。足が弱り、歯が抜け、耳が遠くなり、髪が薄くなる。本当に年を取ることは辛いことである。だから、モーセのように最後まで目はかすまなかったというのは、うらやましい限りである。しかし、これは決して体力のことだけを指しているのではないだろう。120歳は、やはり120歳である。目がかすむことも、足が衰えることも、気力が失われることもあったのではないか。

ここで言わんとしたことは何か。それは、人間の一生の終わりが、ただ弱って失われていくというのではなく、人は何かの役目を神から与えられ、それを終えた後、最期を迎えるのであり、その時まで活力は失われないということだと思う。まさに、人生は山登りのようである。登り始めは意気揚々と駆け上がるが、途中でしんどくなり、山頂においてやっと周囲がよく見えるようになる。そしてそれぞれの山を下りつつ、青春や充実していた時代の情景が、山頂での風景のように思い出されていく。年を重ねる人生の秋は、紅葉に彩られ、成熟していく。モーセが神の僕として働き出したのは何と80歳からであった。主を信じて生きることは、いつも遅すぎることはない。

私たちの目の前にある山は、神と共に生きるという道を示している。その登山がいつ始まり、いつ終わりを迎えるのか分からないが、どのような人でも挑戦することができる。勉学・仕事・家事・育児・介護など様々な場面で働きを終えてきた人生の秋にもう一つ、主を信じるという新しい登山を楽しむ機会がここにある。モーセが見た神の約束という希望を、私たちも心に収めたい。年を重ねただけでは、人は老いない。理想を捨てた時に初めて人は老いるのです。」サミュエル・ウルマン『青春の詩』