種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ

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丁度、稲刈りの季節を迎えているが、丹精込めて育ててきた農家にとってこの時ほど大きな喜びはないと思う。私は義母が宇都宮で米作りをしていたので、毎年この時期になると、30キロ入りの米袋においしいお米(玄米)をたくさん頂いてきた。そのお陰で、子どもたちの育ち盛りの時も、お米を買うこともなく、大変助かった。

聖書の中で、主は宣教の働きを刈り入れに譬えてこう言われた。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」ヨハネ4:36-37。種まきと刈り入れは、普通は一人の人によってなされるのではないか。やがて刈り入れの時がくることを、楽しみにして種を蒔くのである。ところが伝道というものは必ずしもそうではない。しばしば「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということになる。それはまず主が労苦して種を蒔いたものを、やがて弟子たちが刈り入れる日が来るということである。そしてまた弟子たちが種を蒔いたものをその次の世代が刈り取っていくのである。その一番の典型が主である。一粒の麦が地の上に落ちるように死んでいかれたが、それが後に実を結ぶようになった。

この事は、私たちも忘れてはならない。上尾教会が今日あるのは、先達の牧師や信徒の方々の種まきがあったからである。その方々が種を蒔いてくださったものを、私たちが今、刈り取っている。だから常に先達の方々の労に感謝したい。同時に私たちも、次の世代の人々がやがて収穫を得ることができるように、新たに種まきをしていきたい。刈り入れをしながら種まきをしていく。一つの業が刈り入れであると同時に、種まきになっていく。それが伝道の業の不思議なところである。そのようにして初めて、「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ということが実現する。

種まきの働きをして、すぐに効果が見えなくても、意気消沈する必要はないし、効果が見えなくても、それを続けていけばよい。私たちがどんなに伝道をしても、それが実を結ぶことは少ないと思うかもしれない。しかしある統計によると、成人してから教会に来てクリスチャンになる人たちの8割は、小さい頃に教会の幼稚園に通っていたか、教会学校に行っていた、或いは若い頃にミッションスクールに通っていた、つまり、どこかで福音に触れていた、そういう人が圧倒的に多い。そういう意味でも種まきの業の重要性というものを改めて覚えさせられるのではないか。