今年の干支は「戌(犬)」。「犬」という単語は聖書に54回登場するが、その内、45回が旧約聖書で、9回が新約聖書である。残念ながら「犬」は、聖書の中ではあまり良い場面には登場しない。旧約では、死体の血を舐めたり(列王上22:38)、自分で吐いた物のところへ平気で戻ったり(箴言26:11)、廃墟と化した町に住み着いて荒廃のシンボルになるような(エレミヤ9:10)、汚く危険なイメージの動物であった。
新約でも、パウロが福音の意味を失わせるような教えを宣べ伝える人々を「よこしまな働き手」として「あの犬どもに注意しなさい」フィリピ3:2と悪人の代名詞として「犬」を用いたり、また、「すべて偽りを好み、また行なう者」として「犬のような者」黙示録22:15が一番に挙げられている。そして、何よりも主ご自身が「聖なるものを犬にやるな」マタイ7:6と言われた。このように「犬」とは、ひそかに人の隠し事を嗅ぎつけて告げる者、まわし者、また、卑しめ軽んじてくだらない者、無駄な者を表す。日本語でも、何の役にも立たない死に方をすることを「犬死」と言うことからわかる。
しかし、今日、「犬」は人間の手助けをする忠実な動物になっているのではないか。盲導犬も介助犬も救助犬も、否、慰めをもたらすペットの犬も、人間の命と生活を支えるために、無くてはならぬ存在である。そして、犬から学ぶべきことは多い。藤井健児(香住ケ丘教会名誉牧師)からこんなお話を伺った。「普通の犬や動物は条件反射で反応するが、盲導犬は愛情に反応するのです。セイル(三頭目の盲導犬)は教会の中に入ると、シッポを振るのをぴたりとやめる。私と一緒に壇上に上がると、ただちに伏せ、お祈りの間は、足を組んで顔を床に着ける。セイルもお祈りしているのではと思っている人は多い。そして最後の”アーメン”になると”さあ終わった”と命令を待つ形をとる。その姿を見て、礼拝に出席している人は驚くと共に、自らの礼拝姿勢を正されています。」
私たち人間も「愛情に反応する」ことが本来の姿ではないか。「小犬」と呼ばれたカナンの異邦人の女性もそうであった。彼女は主に何と答えたか。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15:27。これは「私は、わが子のためなら犬にさえなります。だから、娘を治してください。」という願いである。この母親にとって、「犬」と侮辱されようが、娘が治るのならそれでいいと言い切った。その姿勢に主は、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」マタイ15:28と言われた。「私は犬にさえなります」こんな愛情豊かな生き方をしたい。