私たちは神の家族

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葬儀に列席されたご遺族から、「弟は、上尾教会でこんなに豊かな交わりをさせて頂いて、幸せ者です。」と言われたことがあった。毎週礼拝でお会いする教会員は、肉親よりも親しくなり、家族以上のお付き合いをさせて頂くことの何と多いことか。聖書では、教会は「神の家族」と呼ばれている。「あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」エフェソ2:19。「家族のようなもの」というのでなく、本当に家族なのである。神の家族としての教会、ここで私たちは養われ、慰められ、力づけられる。この神の家族はどのようにして始まっていくのか。

神の家族は、み言葉によって始まる。生まれたばかりの赤ちゃんにミルクが必要なように、神の子どもとされた者にもみ言葉が必要である。生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」Ⅰペトロ2:2。 そしてその霊の乳」であるみ言葉で養われる所が教会である。誰も生まれたばかりの赤ちゃんを放っておく人はいない。赤ちゃんは家庭に迎え入れられ、養われ、育てられる。そのように、キリスト者は神の家族である教会の中で成長していき、神の家族全体も、み言葉によって養われていく。上尾教会では、毎日「聖書日課」で、祈祷会や礼拝で御言葉を頂き、信仰が養われている。

学校や会社は、そこを離れればそれで関係が絶たれるが、教会は、主にある交わりで生涯つながり続けている。そこには「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」交わりがある。信仰から豊かな愛が生まれている。一人ひとりが、与えられた愛を育むことによって、神の家族として、互いに愛し合う交わりが生まれていくのである。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。これは都詣での歌で、そう歌いながら、エルサレム神殿の礼拝へと旅をした。神によって一つにされている兄弟姉妹が、共に座り、楽しんでいる。何という恵み、何という喜び。そこには、神の国の写し絵が現れ出ている。教会は神の国そのものではないが、神の国の風が吹いている所である。「血を分けた兄弟」という言葉があるが、私たちは、「キリストの血を分けた兄弟」なのである。キリストの血を分けた兄弟姉妹は、天国にある交わりを、この地上に写し出していく交わりを形成していく。この地上ではあり得ないほどの麗しい交わりが、ここに生まれる。様々な問題、課題を持って疲れ果てた人々が、ここに来て憩い、安らぐ、そういう交わりである。そのような交わりに加えられ、その中で生かされている幸いを、心から感謝したい。