相模原市の障害者施設殺傷事件を受けて、知的障害のある当事者と家族らで作る「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明文が心を打った。「障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です。障害があるからといって誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが『障害者はいなくなればいい』なんて言っても、私たち家族は全力で皆さんのことを守ります。ですから、安心して、堂々と生きてください。・・今回の事件を機に、障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳せてほしい。お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩むようお願いします。」
容疑者は「ヒトラーの思想が降りてきた」と言ったが、ヒトラーは「障害者は生きるに値しない生命」として、20万人の障害者が殺された。障害者を殺害しようとする魔の手は、教会が運営する障害者施設ベーテルにも及んだが、ボールデンシュヴィンク牧師を始めとする職員たちは、「この人たちを殺したいのなら、その前に自分を殺せ。人は神の憐れみによって奴隷から神の子とされた、生きるに値しない命はない」と、体を張って抵抗した。それには、さすがのナチスの党員たちも手が出せず、立ち去った。ベーテルの職員たちは、その物言わぬ障害者を「ベーテルの宝」と語り伝えていった。
日本で1940年に制定された「国民優生法」は、ナチスの断種法がモデルであった。戦争中は、ハンセン病者や精神病者などの遺伝的疾患を持つ人の子孫を国家権力によって抹殺した。それが戦後になって「優生保護法」に代わり、現在は「母体保護法」に代わったが、「出生前診断」に見られるように、「命の選別」が個人の自由意志によって行われ、選択的中絶はむしろ加速している。母体保護の立場からの中絶ではなく、胎児の障害有無によって中絶を正当化することには、憂いを抱く。命を選別し、「劣った」とみなされた命は淘汰して構わないとする「優生思想」がそこにはあるからだ。
「障害のある人もない人も、私たちは一人ひとりが大切な存在です」それは聖書の教えでもある。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。お前は要らないとも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」1コリント12:18-22。この「体」とは、「教会」のことだが、「社会」とも言える。弱い人ほどなくてはならない存在。「いてもいい」「いた方がよい」ではなく、「かえって必要」つまり「いなくてはならない」絶対的な存在が弱い人である。弱い人の存在が、やさしさや調和を生み出し、健全な社会を作ることを忘れてはならない。