私たちの間に宿られた神

Home / 週報巻頭言 / 私たちの間に宿られた神

「おひとりさま」傾向がどんどん加速するに従って、クリぼっち(クリスマスをひとりで過ごす)という言葉もいつしか消えて、クリぼっちが日常的なものになったが、そこには、寂しさや辛さがあるのではないか。ある人が、クリスマスにこのように祈った。「ひとりでいるのはつらいことです。この世の中に、ひとりぼっちで、苦しみと罪と死の前に、ひとりぼっちで立つことは、主よ、つらいことです。」すると、主から応えが返ってきた。「子よ、何を言う、君はひとりぼっちではない。私が君と一緒にいるではないか。」

クリスマスのメッセージは、まさに「君はひとりぼっちではない。私が君と一緒にいる」ということである。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ヨハネ1:14 「言」である主イエスが、私たちと同じ体を持つ一人の人間になられた。空腹を覚え、疲れ、悲しみや嘆きも体験された。その主イエスが、憐みの心をもって、私たちの中で生活し、住まわれた。これがクリスマスの出来事である。クリスマスの1つの意味は、神が見える神となった。神は本来、目に見えない「永遠、普遍、無限の神」であるが、クリスマスの出来事において、神は見える神となられた。それが主イエスである。

第2に、人となられた主イエスにおいて、神が具体的に私たちの傍らにいる神となってくださった。これが「宿る」という言葉の最も大切な意味である。主イエスは、「インマヌエル」と呼ばれている。それは、「神は我々と共におられる」マタイ1:23という意味である。旧約時代、神は幕屋や神殿という形で、ご自身の存在を人々に現してきた。旧約でも神は、「インマヌエル」の神であった。しかし、終わりの時に、神の独り子の主イエスが人となられた。ここで「インマヌエル」の意味が大きく転換した。

ある聖書学者は、クリスマスは神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だと言う。「丁度、母親が火事で火を浴びている子どもの上に身を投げ出すように、大波に襲われた子のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ」と記す。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たち一人ひとりを愛し、身を投げ出して、「あなたの神」「私の神」になってくださった。孤独を味わう時、病む時、つらさと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、「共にいてくださる神」となられた。主イエスは私たちの傍

らにいる神となられた。これが「宿る」ということである。クリスマスを迎える私たちの心にも主イエスを宿らせたい。もはやひとりであっても、ひとりぼっちではない。