家族の救いのために執り成す

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「あなたの願いは何ですか」と質問すると、「夫(妻)が救われることです。子どもが救われることです。」という返事が返ってくることが多い。家族の救いほど大きな願いはない。しかし、同時に、家族の救いほど困難に感じることはないという方も多い。しかし、安心してほしい。主イエスもまた「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とヨハネ4:44と言われ、家族伝道に苦労されたのである。

むしろ、聖書を読む時、家族の救いのために執り成す者があれば、神は、その家族全体を救済されるという箇所がたくさんあることに気が付く。例えば、アブラハムが、正しい者が悪い者と共に滅ぼされるのかと神に問うた時、神は、ソドムのために執り成す正しい者が少数でもいれば、ソドムの町は滅ぼさないと言われた。パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒言行録16:31と語り、また「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。」1コリント7:14と語って、家族の一人が救われることは、その救いが家族全体に及ぶことを示している。

平山正美先生は、『ともに生きる家族と信仰の継承』の本の中で次のように語る。「これまで、プロテスタント教会は、どちらかというと、信仰問題を取り上げるにあたって共同体よりも個人の決断と責任を重んじる傾向が強かったと言えるのではないだろうか。日本では、まだ家族ぐるみでキリスト教に帰依しているクリスチャンホームは少ない。そのため信仰告白がはっきりしていない家族の一人が死んだ時、その人はどうなるのだろうかということがよく問題になる。私の周囲にも、牧師から『あなたは、クリスチャンだから天国に行けるとしても、ノンクリスチャンの親子、兄弟は地獄に行く』と指導されうつ病になった人がいる。個人の信仰を家族共同体と結びつけず、独立したものと捉えると、このような結論になる。しかし、聖書における救いの対象は、個人よりも家族共同体の方に重点が置かれているように思えてならない。勿論、神はその中核となる個人の信仰と責任も問われるであろうが。」

家族の救いのために執り成していれば、例え、家族が信仰告白をすることなく召されたとしても、失望することはない。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」Ⅰペトロ4:6。主は死んだ人にも福音を告げ知らされる「セカンドチャンス」があるとの約束は、私たちに大きな希望をもたらしてくれる。