10月20日より、東京バプテスト神学校のライブ授業「信徒のための説教学」が始まった。教室のある茗荷谷教会まで通えない教会からの要望で、初めての試みとして、自分の教会で共同受講ができるようになった。参加教会と人数は、上尾教会5名、前橋教会8名、浦和教会8名、多摩川教会2名、相模中央教会10名である。
パソコンにプロジェクターを繋ぐと、大きな画面になり、本教室と各教会の参加者の授業風景が写し出され、講師や参加者との意見交換もできるので、2時間の授業はほどよい緊張感の中で、あっという間に進んでいく。特に、信徒として説教を聞くという立場から、説教を語るという立場に至る中で、どんな準備が必要である かを講師から学び、参加者から意見を聞けることは得難いことである。来年、2月末まで毎週金曜日の夜の授業が続くので、学びが祝されるように、祈って頂きたい。
丁度、先週の祈祷会では、テサロニケの信徒への手紙一2章を学んだ。そこではパウロが「わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語った。」2:2と述べていた。この「神の福音」とは、パウロが考え出した新しい福音ではない。天地を造られた神が、独り子であるイエス・キリストの十字架と復活という出来事をもって与えてくださった福音である。時代と共に、その伝え方や表現方法は変わるだろう。しかし、伝えられる神の福音の内容は変わることはない。
この神の福音を語ることが説教であるが、それは必ずしも、人に喜ばれるためではなかった。当時のユダヤ人から見るなら、自分たちが大事にしていた割礼や律法遵守を、救われるための絶対条件ではないと語るパウロの説教は受け入れることができなかった。しかしパウロは、私が伝える神の福音は、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」2:5と語る。
もちろん、パウロは神の福音を語ればよいと考えたのではない。「わたしたちはあなたがたのことをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。」2:8。「自分の命さえ喜んで与えたい」という、この愛がなければ、神の福音といえども相手の心に届くことはない。「母親がその子供を大事に育てるように」2:7、「父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」2:11-12。忍耐強く子供を育てる両親の愛が、神の福音を語る説教者には求められている。