神の栄光のために

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私がバプテスマを受けた時、教会の方々からお祝の言葉が記された色紙を戴いた。その言葉の中に、「恥はわがもの、栄光は主のもの」とあった。私はこの言葉にいたく感激して、「私の人生は、恥をかいてでも、主に栄光を現していこう。」と決意した。あれから、半世紀が経ったが、今もその決意は変わることはない。神は、私の罪深さや過ち、失敗や弱さを用いて、栄光を現してくださるのである。なんと感謝なことか。

私たちの人生の目的は何か、『ウェストミンスター小教理問答書』では下記のように記されていた。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と、人間の生きる目的を、「神の栄光をあらわすこと」「永遠に神を喜ぶこと」であると語る。そして、「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」と、聖書の御言葉こそ唯一の指針であると語る。

「神は御自分にかたどって人を創造された。」創世記1:27。「わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」イザヤ43:7。私たち人間は、自分の栄光を現すためにではなく、神の栄光を現すために創造された。つまり、神がいかに偉大であり、聖く、力強く、慈しみ深いお方であるかを、私たちの人生を通して現し、神を喜びとし、主を賛美していくことである。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」Ⅰコリント6:20。つまり、主の十字架の贖いによって救われた人生を用いて、神の栄光を現す生き方をすることである。それは自分の力だけではできないが、私たちの内に働いてくださる主の力によってできるのである。

私たちは教会生活で、神の栄光を現そうとしてはいないか。礼拝を捧げ、祈りを捧げ、献金を捧げることは、神の栄光を現すことであるが、それだけでは不十分である。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31「食べるにも、飲むにも、何をするにも」とあるように、生活の隅々にまで、神の栄光を現して生きることが求められている。飲食が普通にできるならば、神の栄光を現すことも普通にできる。日々の生活のただ中で、家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、神の栄光を現すことが求められている。神の栄光のために、私たちにできることは沢山ある。神を喜ぶとは何か、真剣に求めたい。そして、神の栄光のために、人生を明け渡していきたい。バッハが楽譜の最後に「ただ神の栄光のために」と記したように、私たちの人生もそう記したいものである。